大艦巨砲の旅第13回



「会長危機一髪?初秋の東北の旅」秋田、青森


ACT1;会長、深夜バスに乗る

最近、私は疲れている。だから、今回も出かけようかやめようか、 悩んだあげく、出発日前日にやっと決心し、秋田へ向かう深夜バスの 最後の1席をギリギリで予約したのであった。

9日夜、新宿駅バスターミナルへ向かう。深夜バスに乗るのは 初めてだ。ドキドキしながら搭乗しようとすると、何故か私だけ
「ちょっと待ってください」
と言われてしまった。どうもダブルブッキングに なってしまったらしい。 今回の旅行はショッパナから頓挫してしまうのか?

幸い、今回は予備座席が一つあって、なんとか新宿を発つ。 今回利用したのは小田急のフローラEx号であったが、 深夜バスというのも思っていたより快適な乗物であることを知った。 旅情という要素では夜行列車のほうが上だと思うけど。

ACT2;またもや探索失敗!

今回、秋田に行ってみようと思ったのはとある雑誌で秋田港の 防波堤に旧海軍駆逐艦「竹」(「樅」級)、「栃」(「橘」級)が 使われていたという記事を読んだからなのであるが、上に書いたように 急に出発を決めたため、事前調査が満足にできなかった。 まあ、港に行けばなんかわかるだろう、てな安易な発想で、 JR土崎駅からタクシーで外港に向かう。

昭和16年までは土崎港と呼ばれていた秋田港は 1600年代から日本海北部沿岸の要港として栄え、 昭和26年に国の重要港湾に指定されている。 本格的な港湾整備は、昭和40年頃から開始され、 今ではコンテナ荷揚げ施設なども持つ近代的な 工業港である。旧雄物川河口を両岸から防波堤で 囲って湾としており。ひょっとしたらこの防波堤 (写真の巡視船「ちょうかい」の後方にうっすらと 続くのが南側防波堤)のどこかに駆逐艦が眠って いるのかもしれないが、「足」のない私には調べようも なかった。調査不足が仇となりちょっと欲求不満のまま 秋田港の風景を撮る私であった。

ACT3;南極探検王生誕の地?

明治43年11月28日、東京芝浦を1隻の汽帆船が芝浦を出港していった。 白瀬矗陸軍中尉率いる南極探検隊を乗せた「開南丸」(204総トン)である。

当初、退役砲艦「磐城」(667トン)を使用するつもりであったが、 改装費用がオーバーしてしまうことから、郡司成忠海軍大尉の主宰する 報効議会所有の帆船「第二報効丸」を買取り、「開南丸」と名付けた。 18馬力の中古蒸気機関を補助エンジンとして装備し, 船体に厚さ7.6cm,幅15.2cmの角材を巻き、その上に厚さ6mmの鉄鋼板で 補強するといった改装を施した。とはいえ、同じく南極を目指していた アムンゼン隊からは非常に小さな貧弱な船に見えたようだ。

海自砕氷艦にその名を残す(まあ、正確にいうと直接人名が 付けられているわけではないのだが)白瀬中尉は秋田県金浦町の出身で、 その功績を称えるべく「白瀬南極探検隊記念館」が同町にある。

往時の探検隊の装備などが展示されているが、目をひくのは 「開南丸」船尾の実物大カットモデル(?)であろう。 写真は上甲板であるが、照明が暗くてよくわからないかもしれない。

相前後して南極点を目指していたアムンセン隊(ノルウェー) が使用した「フラム」、スコット隊(イギリス)が使用した「テラノバ」、 そして「開南丸」の1/30模型も展示されていて興味深い。

驚かされるのは「開南丸」船長野村直吉が残したスケッチ画 である。非力な汽帆船を操って未知の南氷洋に挑み、死亡者を出すこと なく延べ5万8000キロに及ぶ探検航海を成し遂げた技量もさることながら、 明治人の風流を感じさせる。

「白瀬南極探検隊記念館」
郵便番号018-0302
秋田県由利郡金浦町黒川字岩潟15-3
電話:0184-38-3765 FAX:0184-38-3762
開館時間:
3/1-10/31:午前9時から午後5時まで(入館は午後4時半まで)
11/1-2/末:午前9時から午後4時まで(入館は午後3時半まで)

ACT4;会長ついに倒れる?!

秋田観光に興じている、と見せかけて実は今回の目的地も 下北なのだ。

とはいえ、以外と秋田と下北は離れていて、このホームページ おなじみの「とびない旅館」についたころにはもう真っ暗。 随分日も短くなったなあ。さっそく一風呂つかっていると、 どこからともなくサケの香りが・・・。おっとり刀でお座敷 に向かうと、なんと旧知の「本州最北模型会」が展示会打ち上げを やっているではないか!(わーざとらしー)ずうずうしい、 ミンダナオ会長のこと、勝手に混ぜてもらって飲み食いしていたことは 疑いようもない。「本最会」の皆さんどーもすいませんでした。

翌日は同会の飛内氏のご厚意で車に乗せてもらって 大間崎に向かう。ここには「本州最北端の地」の碑があることは よく知られているが、そのちょっと横に「豊国丸鎮魂碑」が建っている。 土台が船の形をしたなかなか立派なものだ。

昭和20年7月14日から15日にかけて、北海道南部、東北地方は 米機動部隊艦載機による大規模かつ断続的な空襲を受け、駆逐艦「橘」 を始めとする多くの艦船が撃沈、撃破された。 特設運送艦「豊国丸」(1,274総トン)も14日午後2時36分、 大間崎沖約2Kmの海域で135名の犠牲者を出して沈没した。 (昭和17年、特設砲艦時代の写真が「世界の艦船」No.500増刊 「日本軍艦史」の348頁にある。)

今となっては東北地方に空襲があったことすら 風化しつつあるのかもしれないが、この鎮魂碑もかつて本土も 「戦場」になっていたことを伝える貴重な証となっていくのだろう。

ここに奇談がある。恥ずかしいから名は伏せておくが仮に 某模型サークル会長K氏としよう。K氏は 「こっちのほうが最北だもーん!」などとうそぶきながら 「本州最北端の地」の碑の裏側の海へ向かう階段を降りていった。 すると見事にお尻から転倒!その直後に所有のデジカメの電池が 切れるといった怪現象に見舞われた。そしてデジカメは電池を交換しても うんともスントモいわなくなってしまったという。 (動転したK氏が電池の向きを間違えていたという説もある)

そんなわけでワケは語れないが鎮魂碑の写真はここには 掲載できなかったので 興味のある方は下北観光のついでにご自分で見てみてほしい。

さて、一歩間違えば津軽海峡にて沈没か?!という際どい危機を 乗り越えた私であったが、まったく懲りずに飛内氏とゆるゆるの道すがらの オモチャ屋さんでへんなおもちゃを漁りつつ、「本州最北模型会」が 展示会を開催しているアークスプラザダイエーへと向かうのであった。 そして、そこで私が見たモノは・・・! 「本州最北模型会展示会速報」へ続く

旅館「とびない」(本館) 電話0175(22)4261

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Make Home Page:1999.10.20 / Updated 1999.10.20
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