大艦巨砲の旅第11回
「隅田川、駆逐艦の旅」東京・墨田区
ACT1;ミンダナオ会長行動不能?
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前回の渡英作戦で燃料備蓄(退職金)を使い果たした私は
外洋作戦は断念し、ひたすらフリートビーイング(「艦隊保全主義」、
決して毎日B-ingを眺めながらため息をついている状態を指す言葉ではない!)
につとめていたが、世の中灯台もと暗しである。
- 私は葛飾区の住民なので失業している間は墨田区の職業安定所
のお世話になっていたのであるが、この近所を中心に
旧海軍艦艇を連想させるモニュメントがいくつかあるので
今回はそれをご紹介しよう。
ACT2;明治大帝、競漕を見る
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都立「墨田公園」の墨田区役所側(枕橋の近く)の端っこあたりに
屋根のような飾りのついた立派な碑と、そのちょっと脇に
石の柱2本が建っている。柱の一方には何か文字が彫ってあった
(写真)のだが良く読めない。碑文のほうには「聖蹟記念碑」
と書いてある。さてこれは何を記念しているのであろうか?
- 「墨田公園」は元々水戸藩藩邸であり、関東大震災までは
水戸徳川家の邸宅であった。通称「小梅邸」と呼ばれていたそうだ。
先の碑文は明治天皇が小梅邸に行幸して隅田川で行われた海軍の
短艇競漕を謁見したことを記念したものなのである。
行幸は明治15,16,17年と行われた(と書いてある)。
- 確かに隅田川といえば各種レガッタで有名であるが、
なんで海軍が?ナントナラバ新生日本帝国海軍の整備が着手されたころ、
江戸城(皇居)の海側の防御を考慮したため東京における
海軍の施設が築地に集中していたことと関係があろう。
明治2年、海軍兵学寮(当初、海軍操練所)も現在の東京中央卸売市場
のあたりに設けられた。当時は短艇漕練も隅田川を使うことも
多かったのではないか。ちなみに兵学寮は明治9年に海軍兵学校と
名を改め同21年には皆さんご存知の江田島に移転する。
- そういった史実はあったものの、時は流れ、
国威発揚真っ盛りの昭和16年に「隅田川聖蹟顕彰会」なる団体が組織され、同年11月に前述の碑が建立されたのである。
その附属施設として駆逐艦「桃」(基準排水量755トン・初代)
の前檣が碑の傍らに建てられた。
そう、先ほど述べた石柱は「桃」の前檣の土台だったのである。
- 駆逐艦「桃」は大正5年に竣工し、第一次世界大戦では第二特務艦隊の
一員として地中海での作戦にも従事、昭和6年の上海事変にも参加、
昭和15年4月に除籍された。ちなみに九州若松港に防波堤として
使用されいまだにその船体の一部をのぞかせている
駆逐艦「柳」は同型艦である。
- さて「桃」の前檣は昭和16年9月に前述の会に下附されたもので、
本来は高さ20メートルあったものを14.36メートルに短縮して据えられた。この前檣、戦後もしばらく健在だったようで、木俣滋郎著『残存帝国艦艇』
(図書出版社)には高速6号線の傍らに立っている写真があるので、
少なくとも昭和30年代の終わりころまでは存在していたようだ。
- ただいつどのように撤去されたのかは調べてみたが結局わからなかった。
しかし、調査の途中でお話をうかがったしなぎさんという近くに
住む方によれば、隅田川の花火大会でアレが邪魔だという
話があったような気がする、ということだったので、
そんな理由で撤去されてしまった可能性もある。
同氏のお話では、当時小学校などの旗竿でよく見られた起倒式の
構造だったようだとか、終戦直後に近くにある藤田東湖
(幕末の勤王主義学者)の「正気の歌」の碑文の一部を
区の職員が削り取っていたので、前述の石柱に彫られていた文字
(実は「聖徳欽仰」と彫られていた。有馬寛海軍中将揮毫)
もそのとき削り取られたのであろうということであった。
- 「桃」の前檣とはいっても横桁がない状態で旗竿として使用されたので、
あれが船のマストであったとはほとんど知られていなかったようで、
関心が低かったとしてもやむを得ないというのが実感であった。
この件についてさらになにかご存知の方がいらっしゃったら
ご教示いただければ幸いです。
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「聖蹟記念碑」墨田区向島1丁目1番地
- 「正気歌碑」墨田区向島1丁目3番地
- いずれも隅田公園内(最寄駅:都営浅草線「本所吾妻橋駅」徒歩10分
- 「すみだ郷土文化資料館」
- 東京都墨田区向島2丁目3-5
- 電話:03-5619-7033
- 開館時間9:00-17:00(入館は16:30まで)
- 休館日:毎週月曜日(祝日にあたるときは翌日)
- 観覧料:個人100円、中学生以下無料
- 隅田川でのレガッタの歴史なども展示。
- 「墨田区区政資料室」
- 東京都墨田区向島2丁目17-11
- 電話:03-3624-7611
- 『隅田川仰ぐ御蹟の由来』(昭和18年)を所蔵。
ACT3;意外なところに有名艦が?
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いやはや前章はモロモロ調査のため3回も出かけたから
ちょっと熱くなってしまったが、
今度は隅田公園からどんどん南下して蔵前通りのほうへ行ってみよう。
- 蔵前通り沿いに石原というところがあるが、ちょっと内側に
入ったところに山田記念病院がある。その玄関には駆逐艦「初霜」
(基準排水量1,700トン・二代目)の錨が保存・展示されている。
- 「初霜」といえばこのページを読んでいるような方々なら
よくご存知であろう。昭和9年に竣工し、
太平洋戦争では幾多の海戦に参加、「初春」型唯一の生き残りとして
戦艦「大和」の沖縄突入の直衛など奮戦をつづけたが昭和20年7月30日、
宮津湾にて対空戦闘中に触雷、擱座し昭和24年に解体された。
- この病院の名誉院長、山田正明氏が昭和15年に乗組んでいたいた
縁もあって今日までここにその主錨は姿を残しているのである。
- 共に終戦まで戦い続けた駆逐艦「雪風」も戦後、台湾から主錨、
舵輪が返還されたことはよく知られているが、
武運艦は最後の最後まで強運の持ち主であるらしい。
- 「山田記念病院」
- 東京都墨田区石原3丁目6-3
ACT4;魚雷と関東大震災
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- 今度はちょっと電車に乗ってみよう。都営浅草線「蔵前」駅から
蔵前橋を渡って行くと横網町公園に至る。
ここの震災記念屋外ギャラリーに魚雷が展示されている。
この魚雷は東京高等商船学校(現東京商船大学)にあったものが
大正12年9月1日の関東大震災で起きた火災でこんな姿
になってしまったそうである。
- なんで商船学校に魚雷が?という感じもするが、
当時の商船学校出身者はそのまま戦時には予備士官として
応召される時代でもあったのでこうゆう「教材」も
必要だったのかもしれない。
直径を測った感じでは40センチくらいであったが45センチ魚雷かもしれない。
- その他この屋外ギャラリーには火災で溶けて塊になってしまった釘とか、
火災でフレームのみになってしまった自動車の残骸なども展示されている。
また隣接の復興記念館には関東大震災や戦災に関する展示が
行われているそうである。(私が行ったときは閉館日であった・・・)
- 「東京都復興記念館」
- 東京都墨田区横網2丁目
- 電話:03-3622-1208(横網町公園事務所)
- 開館時間9:00-17:00(入館は16:30まで)
- 休館日:毎週月曜日
- 入場無料
ACT5;モロモロ情報求めます
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今回は近場ばかりで旅行のエピソードもなくちょっと堅い話題
になってしまったが、たまにはこうゆう観光案内もいいかな。
こうゆう旧軍関連の史跡については関係者が亡くなられたり、
忘れ去れたりでなかなか情報が集まらなくなってきている感も
拭いがたく思う今日このごろ。皆さんからの情報をお待ちしています。
後日談;駆逐艦「不知火」の錨
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- 実はこの隅田川沿い駆逐艦の旅にはもう一つ忘れては
ならない場所があったのです。それは両国小学校の敷地内に
ある駆逐艦「不知火」の錨。「不知火」といっても日露戦争で
活躍した「東雲」型駆逐艦(常備排水量322トン)で、
明治32年5月13日に英国のソーニー・クロフト社で竣工しました。
大正11年まで駆逐艦籍にありましたが、大正14年廃船になりました。
この解体を請け負った両国1丁目の岡田商事から江東(現両国)小学校
に昭和初年に寄贈されたそうです。
だいぶ錆びてはいますが、かなり形はしっかり保っています。
1898年の刻印があるそうです。芥川龍之介の碑文の隣に置いてあり、
校内に入らなくても見学可能です。
情報をいただいた本国艦隊司令官さんどうもありがとうございました。
- 「両国小学校」
- 東京都墨田区両国4丁目26番地8
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Make Home Page:1998.08.08 / Updated 2002.10.14
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