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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。


「ワールド マスター 1  〜 マルカム王国編 〜」

ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)


 第十一章 「挑戦者の剣」

 

         ○

 

 暗い部屋の中で、また、二人の男が話し合っていた。

「今年も収穫祭は盛況だったなあ」

「おかげさまで、今年もたっぷりと儲けさせていただけました」

「わたしは、ふと、こう考えたのだ」

「なにをですかな」

「この平和は意外と長く続くかもしれん」

「それは、ワールドマスター様がこのマルカム王国にまだ不快感を持ってらっしゃらないからでしょう」

「この世は、ワールドマスターが支配しているとは言え、人はそれほどワールドマスターを恐れてはおらんよ。十年ごとにチャレンジャーが現れては、世界を正しい方向へ導いて下さる」

「ほう。大臣閣下はサイレス王国の悲劇をお忘れか。この国の北に広がる砂漠は元はすべてサイレスの領地だったのですぞ」

「いや、サイレスなどは滅びて当然だった。国民に重税を課し、我が国には戦争を仕掛け、国土を荒廃させた。ワールドマスター様の怒りを買うのも当然のこと。しかし、この国は違う。兄王は善政を布き、王室は国民から愛されておる。我が国がワールドマスター様の怒りを買うとは思えん」

「サイレスは十年前、チャレンジャーを生み出した国、マスターの怒りを買うのも当然でしょう」

「なら、マスターはその場でサイレスを滅ぼしたはずだ。チャレンジャーに勝利してから二年も経ってサイレスを滅ぼしたのは、マスターもサイレスには見かねたところがあったからであろう。わたしはそうした今のマスターを信じたいと思う」

「それでは、ベンデス大臣、もはや王権は望まれぬのか」

「わたしは、分相応と考えておる。バネコバこそ、商人らしく、商売だけ考えておればいい」

 そのとき女の声が割り込んだ。

「それじゃ、こちらは困るのよ」

「ウィズ様、いつからそこに」

「たった今、マスターからのご命令を受けてきたところなのよ」

「おお、マスターから。では、いよいよ」

「ちょっと待て。バネコバ、そなた、知っておったのか」

「知っているも何も、大臣、これをご覧あれ」

 商人バネコバは右腕の服の袖を捲って見せた。そこにはワールドマスターの腹心の証である「刻印」とともに、数字の四が火傷の痕のように刻まれていた。

「バネコバ、おまえ、ただの商人ではなかったのか」

「わたしは、第四の刻印を持つもの。幻術士、バネコバ」

「そして、わたしは、第三の刻印を持つ、魔道士、ウィズ」

 ベンデスは思わず席を蹴って立ち上がった。

「お主たち、謀ったな。この国をどうするつもりだ」

「この国をどうこうしようとは、マスターは考えておりません。ただ、チャレンジャーの剣を封印したいだけ」

「そのためにも、ベンデス大臣には、是が非でも、反乱を起こしていただく」

 バネコバの人差し指がベンデスの額を押さえた。

「うっ」

 ベンデスはそのままテーブルの上に突っ伏した。

「ベンデス大臣、ゆっくりお休みなさい。目覚めたときあなたは憂国の士として、この国のために戦うのです。チャレンジャーの剣がある限り、この国に未来はありません。兄王を倒してでも、チャレンジャーの剣を地中深く埋めるのです」

 バネコバは言い終えて、ベンデスの額から指を離した。

「ご苦労様、バネコバ」

「では、あとはウィズとコンプにお任せします。わたしは次の仕事がありますので、これで失礼いたします」

 バネコバは一礼すると歩いて部屋を出ていった。扉を開けたとき、外の日差しが入ってきた。

「あ、そうそう」

 バネコバは扉のところで振り向いた。

「あの、お姫様、できれば残しといてもらえませんかね。あれだけの器量の持ち主を戦で失うのは惜しいと思いますよ」

「いいけど。その前にマスターが所望されるかも、よ」

「そのときは諦めますよ」

 バネコバはニコリと笑うと外の光の中に消えていった。

「お姫様、か。あの坊やは、どう動くのかしら」

 ウィズは気を失っているベンデスの服をつかむと呪文を唱えた。

 次の瞬間、ウィズとベンデスの姿はかき消すように部屋から消えた。

 収穫祭の翌日のことだった。

 

         1,

 

 収穫祭から明けて一日目、九月一日、道場はいつも通り朝を迎えた。

 チェリーはいつも通り稽古着を着て、朝食を作り、洗濯をした。

 カンボジはいつのまに帰ってきたのか、朝食前の一郎の稽古に付き合っていた。

 カンボジはいつも通りにこにこ笑いながら、一郎の組み手の相手をしていた。いつもより真剣な表情で取り組む一郎に、カンボジは何かを察したようだった。

 一汗流したあと、朝食を取ることになった。

 台所兼食堂では、チェリーがいつも通り朝食の準備を終えて、一郎たちを待っていた。

 しかし、何かいつもと違う雰囲気が台所にはあった。

 一郎は席についてあたりを見渡した。

 同じく席に着いたカンボジが一郎に話しかけた。

「一郎も、気づいたか」

「いえ。ただ、何かいつもと違う気がするんですが」

「そうか。では、おまえはおまえの答えを探せよ」

 その言葉に一郎はどきっとした。

〔老師には悟られてるみたいだなあ〕

 チェリーがテーブルに着くのを待って一郎たちは朝食を始めた。

 チェリーが静かに食べ始めたのを見て、一郎はやっと気づいた。

〔チェリーがお化粧している〕

 口紅を付けて薄く白粉を塗っただけだったが、それだけでチェリーの顔が際だって美人に見えた。

 フォークの止まった一郎を見て、今度はチェリーがフォークを止めて言った。

「どうしたの? あたしの顔に何か付いてるの?」

「口紅が」

 一郎は半分譫言のように言った。

「口紅?」

「きれいだなって、思って」

 さらりと言ってのける一郎に、チェリーは顔を少し赤らめた。

「ありがとう」

 一郎はチェリーがほんの少し熱のこもった視線を送ったので、慌てて食事を再開した。

 そのあと、一郎はカンボジの方を見た。視線が合うと、カンボジはただ、黙って頷いた。

〔老師のおっしゃったのは、このことだったのか〕

 しかし、カンボジが気づいたのは、明らかに一郎と自分の皿の盛り付けに差があることだった。そして、結果としてチェリーにそうさせたことを一郎自身が気づいていないことがカンボジにあることを確信させた。

 食べ終わったあと、一郎が食器を洗おうとすると、チェリーはそれを押しとどめた。

「一郎は、修行があるんでしょ。さ、道場へ行って」

「え、いつもは僕が、やっているんだけど」

「今日からは変わったの。あたしがやるから、一郎は自分のことをしなきゃ、だめよ」

 カンボジはそれを見て、感心したように頷いた。

「ほら、行って、行って」

 チェリーは一郎を台所から追い出した。

 チェリーに背中を押されて一郎は戸惑いつつも、チェリーの明るい顔がうれしかった。

 一郎の背後で台所へ通じる扉が閉まる音がした。

「やれやれ、だな」

 一郎は小さくつぶやくと、道場に向かった。

 チェリーは足取りも軽やかに流し台の前に立つと鼻歌混じりに皿を洗い始めた。

「うれしそうじゃのう」

 カンボジが声をかけると、チェリーは飛び上がるように驚いた。

「お、おじいちゃん! まだ、いたの?」

「わしはさっきから、ここにおるぞ」

「あ、ああ、そ、そうね」

 チェリーは少し口が慌てていた。

「そんなに、イチ・ローのことが好きか?」

 チェリーは危うく皿を床に落としそうになった。

「や、やだ! 何、言ってるのよ」

「わしは怒っておるのではない。喜んでおるのじゃ」

「おじいちゃん」

「老い先短いこの身で、何も思い残すことはないが、チェリーのことだけが気がかりじゃ。せめておまえが普通に男と夫婦になってくれればと思っておったが」

「あたしは、結婚はしないわよ」

「なんじゃ。イチ・ローのことは何とも思ってないのか」

「あたしはともかく、イチ・ローにそんな気は全くないわよ」

「なら、おまえがイチ・ローをその気にさせてしまうのはどうじゃ?」

「な、なんてこと言い出すのよ」

「そうは言うが、あの実直なイチ・ローがおまえに手を出すとは、とうてい思えんぞ」

「いいのよ」

〔イチ・ローが手を出したくなるようないい女になればいいんだから〕

 心の中で自分を納得させると、チェリーは洗い物を続けた。

 それでも、一郎の使った食器になぜか愛しさを感じてしまうチェリーだった。

 チェリーは手に持った皿を見つめてふと想像してしまった。自分が結婚した姿と、甘い新婚生活と、愛する良人の姿。以前のチェリーならそうした想像をすることさえ遠ざけていたはずだった。

「ま、チェリーが幸せなら、わしは何も言わん。人の道に外れんかぎり、おまえの幸せを追求するがいいじゃろ」

 カンボジは席を立った。

「おじいちゃん」

「なんじゃ」

「ありがとう」

 カンボジは照れたように手を上げた。それ以上チェリーに何も言わせたくないからだった。

 

         2,

 

 その日は、化粧したチェリーが料理教室のファレーたちを驚かせた以外、何事もなく終わろうとしていた。

 一郎とカンボジの組み手が終了した夕暮れ時にリーアンが訪ねてきた。

「老師、失礼します」

 そう言ってリーアンはローリーを連れて道場に入ってきた。

 疲労困憊の一郎はやっとの思いで立ち上がると、リーアンに一礼するのがやっとだった。

「イチ・ロー殿、そのまま、聞いてくれ」

 息の荒い一郎にリーアンは手で制した。

「老師、実は、アラウアから連絡がありまして、また、海賊どもがアラウアを襲撃したそうです」

「あの遠く東の港町か」

「ええ。それで、明日の朝、精鋭二千の兵とともに、遠征することになりました。出発の前に、ご挨拶に伺った次第です」

「そうか。また、寂しくなるのう」

「老師には、チェリー嬢もいれば、イチ・ロー殿もいらっしゃるではありませんか」

「まあ、のう」

 カンボジは曖昧に相づちを打った。

 それを聞いて、リーアンも、一郎も首を傾げた。

「リーアン、向こうへ行っても女遊びは、程々にせよ。酒も減らせよ」

「老師は、父と同じことをおっしゃるのですね」

 リーアンは苦笑した。

 老師の言葉に、ローリーも笑顔を見せた。

 このローリーという女性、言葉が少なくてよくは判らないが、意外と明るい性格なのかもしれない、と一郎は思った。

 そのローリーがリーアンに袋を渡した。

 リーアンはそれを受け取ると、恭しくカンボジに差し出した。

「老師、しばらくの手慰みです。お受け取り下さい」

「おう、古酒か。またまた、すまんのう」

 リーアンは改めて深々と一礼した。ローリーがそれに倣った。

「老師、それでは、失礼いたします。イチ・ロー殿も元気で」

 ほんの数分いたかいないかで、リーアンは道場を出た。

 一郎はカンボジとともに見送りに外へ出た。

 茜色の空が広がっている。

 一郎はふと思いついたことを口にした。

「不吉なことを口にするようで、申し訳ないんですが」

「イチ・ロー殿の言葉なら、不吉でも無駄にはなるまい。聞こう」

「例の犯人たちが動き出す可能性はないですか。王子と精兵の留守を狙って」

 それを聞いたリーアンは意外にも笑顔を見せた。

「イチ・ロー殿は、母と同じことを言うな」

「王妃様が?」

「母の言葉は、魔法の力をよりどころとしているせいか、予言みたいなところがあるのだが。イチ・ロー殿が同じような心配をなさるとは、結構当たっているかもしれぬ」

「それで、一つ考えがあるのですが」

「いや、待て。イチ・ロー殿の考え、当てて見せよう。遠征のフリをして途中で引き返すのであろう」

「その通りです」

「実は、母も同じことを言っていた。そうしなければ、国が滅ぶかもしれぬ、とまじめに言われた」

「それは大げさかもしれませんが、内乱など起きたら国にとっては一大事でしょう」

「いや、言われるとおりだ。だから、すでに手は打ってある。この国はきっと守ってみせる」

 リーアンの言葉は力強い。

 一郎はほっと安心のため息をついた。

「それよりな、イチ・ロー殿」

 リーアンは意味深な笑みを浮かべた。

「たまには城に来てくれないか。妹も修行中の身だが、イチ・ロー殿に会いたがっている」

「わかりました。近いうちに、お伺いします」

 一郎は礼儀としてそう返事をしたつもりだが、その日は明後日のことになる。

 一郎はリーアンの後ろをぴたりと着いて歩くローリーがとても健気に思えた。その後ろ姿を見ていると、リーアンはカンボジやチェリーが言うほど女遊びが好きなようには思えなかった。

 

         3,

 

 翌日早朝から、リーアンの軍の出陣式が行われた。

 一郎は忘れかけていたが、この国の武術師範は他ならぬカンボジである。カンボジがこの式に呼ばれないはずがなかった。

 一郎はカンボジとともにこの式典に参加した。

 あの収穫祭から二日目。一郎は意外に近い場所でフィビーの姿を見た。声が届きそうな距離だった。

 しかし、式典のさなかに言葉を交わすことはできなかった。かわりに、フィビーは一郎が与えたテレホンカードを顔の横に並べて見せた。

 そんなフィビーに一郎は笑顔を見せることしかできなかった。

 式典は二時間ほどで終わり、一郎はついにフィビーと言葉を交わすことなく城を出た。

 リーアンがいなくなっただけで、城の中は大きな隙間ができたようだった。

 道場に戻った一郎はいつも通りの組み手の練習をカンボジと行った。ただ、一郎は今までの中でもっとも真剣に取り組んだ。それこそ、カンボジを倒すつもりで取り組んだのだった。

 カンボジは一郎の気迫を感じ取り、一郎が疲れ果てるまでそれに付き合った。

 日が沈んだ頃、一郎は道場で身体が動かせなくなっていた。一郎の拳も蹴りも手に持った木刀も、ついにカンボジの身体をかすめることはなかった。

 しかし、一郎はカンボジの息を荒くすることはできた。一郎の方はあいかわらず、道場の床に寝そべったまま腕を動かすことさえできなかった。

「だいぶできるようになったようじゃのう、イチ・ロー」

 激しい息づかいの一郎はそれに答えることができない。

「だが、まだまだじゃ。そのまま、休んでおれ」

 一郎はやっとの思いで首をわずかに縦に振った。

 カンボジは悠然と道場をあとにした。

 一郎は息を落ち着かせようと深呼吸をしてみた。

 星の灯りが道場の中に差し込んでいた。

 一郎はすべてを出し尽くして満足していた。

〔やれるだけのことは、やったんだ。もう、いいだろう〕

 一郎は目を閉じた。

 どうやらそのままうとうとと眠り込んでしまったらしい。目を開けると窓に見えている星の場所が変わっていた。

 一郎は後頭部と肩に温もりを感じた。そして、妙に柔らかい感触も。

〔床がこんなに柔らかいわけがない〕

 思わず一郎は飛び起きた。

 一郎の背後でチェリーが正座していた。服装はいつもの稽古着だった。

〔チェリーの膝枕、だった、のか!〕

 最初は「あ、そうか」という軽い認識だったが、よく考えている内に、一郎の顔が赤くなった。

「どう? 気持ちよかった?」

 チェリーは照れ隠しにいたずらっぽく笑ってみせた。

「え」

 一郎は返答に窮した。

「いや、その、ありがとう」

 一郎はすっと立ち上がると、チェリーからの視線を避けるように、食堂へ向かおうとしていた。

 チェリーは一郎の手を取った。

「今日は、この間、一郎が教えてくれた『ハンバーグ』っていうの、作ってみたの」

 チェリーの弾んだ声に対して、一郎はどこかぼんやりしているように見えた。

「ああ、そう」

「それだけ?」

「ありがとう」

 チェリーは一郎の素っ気ない返事に引っかかるモノを感じた。チェリーは思ったままを一郎にぶつけた。

「お姫様のことを考えてたの?」

 一郎は軽く首を横に振った。

「違うよ」

「じゃ、なに?」

 一郎は少し考えて、短く「ごめん」とだけ口に出した。

〔ごめん? どうして、『ごめん』なの?〕

 チェリーはそのわけを一郎に聞きたかった。

 そして、それを言おうとしたとき、チェリーは悪い予感がした。

〔まさか〕

 あまりにも悪い予感だったので、チェリーは口に出すことができなかった。

 チェリーの予感は当たっていた。

 一郎は道場を出て、ワールドマスターのところへ、自分の世界に帰るための旅に出る決意をしていた。

 

         4,

 

 翌朝、まだ、東の地平線が夜の幕を下ろす前に、一郎は起きあがった。

 部屋の中を見渡して、すべて片づいているのを確認すると、机の上に手紙を置いた。

「長い間、本当にお世話になりました。お礼の言葉は尽きませんが、ご恩は一生忘れません。どうか、お元気で。ありがとうございました。さようなら」

 一郎はTシャツにスウェットのパンツをはいて、部屋を静かに出た。

 簡単な荷物は袋に入れて、肩に掛けた。城でもらった剣は腰に差している。

 一郎は隣のチェリーの部屋の扉を感慨深げに見つめた。

〔本当に、いろいろあったよな。まるで、妹が側にいるみたいだった〕

 一郎はチェリーと自分の妹を重ね合わせていた。

〔ありがとう、チェリー。幸せになれよ〕

 一郎は足音を立てないように、道場を出た。

 外に出たところで、カンボジが待っていた。

 一郎は驚いて、思わず声を出した。

「老師!」

 カンボジは口に人差し指を当てた。

「静かにせい。まだ、夜明け前じゃぞ」

 一郎は声を落とした。

「どうして、ここに。いや、それより、申し訳ありません。大変な身勝手とは思いますが」

 カンボジは一郎の声を遮った。

「いや、皆まで言うな。わしはおまえが来てくれてよかったと思うておる」

「老師」

「おまえのおかげで、あの子はやっと女の子らしくなった。それまで、男には見向きもしなかったのが、化粧までするようになったんじゃから、大進歩じゃよ」

 カンボジが軽く一郎の胸を叩いた。

「老師」

 叩かれたところから急激に熱を帯びてきた。一郎の胸の奥底が熱くなってくる。

〔あ、やばい〕

 一郎が自覚したとたん、涙が滲み出てきた。

 一郎は身体を前へ折り曲げると、慌てて目頭を押さえた。

 どうにか、涙は止まったが、一郎の目は真っ赤に充血していた。

 カンボジは一郎の肩を掴むと、軽く揺すった。

「しっかりせい。これから先は、わしも手伝ってはやれぬ。おまえ一人の力で全部切り抜けねばならんのだぞ」

「はい」

 カンボジが手を放すと、一郎は上半身を起こした。

「イチ・ロー」

「はい」

「本当に、ありがとう。チェリーの分も礼を言うぞ。これは少ないが、餞別じゃ」

 カンボジは手のひらの上に小袋を出した。それを、一郎の手に握らせる。ずっしりとした重さが一郎の手に伝わってきた。

 一郎は急いで袋の口を開けた。中は金貨が詰まっていた。

「こんなにもいただけません。ただでさえお世話になってばかりなのに」

「受け取れ。おまえの持ち分では、この先心許ない」

 一郎は、小袋の重みを十分確認すると、肩に掛けた荷物袋の中に詰めた。

「本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」

 東の空が明るくなりはじめた。地平線にオレンジ色が滲み出てきた。

「よし、行くがよい。おまえなら大丈夫じゃ。きっと、自分の国に帰れるじゃろ」

「はい。行って来ます」

 一郎は胸を張って、カンボジの前から歩き出した。

 通りをまっすぐに、しばらく歩いて一郎は振り向いた。カンボジはまだ一郎の方を向いていた。

 一郎が手を振ると、カンボジも静かに手を振り返した。

 再び歩き出したとき、一郎はもう振り向かなかった。

 見慣れた町中を抜け、中央通りを横切って、三十分ほど歩いただろう。

 町の外れに小さな石の橋が架かっていた。

 橋の向こうは遠くまで緩やかな丘陵地帯が広がっていた。そこは収穫の終わった畑が広がっていた。

 橋の下の川は水量はそれほど多くない小川に近いものだった。

 一郎は思わず足を止めた。橋のたもとにはチェリーが立っていた。

 地平線から太陽が昇りきろうとしていたときだった。

〔俺の見送りに来てくれたのか〕

 よく見ると、チェリーの服装は、稽古着でもワンピースでもない。以前フィビーが旅の間着ていたアラビア風の民族衣装によく似ていた。

 一郎はイヤな予感がした。

〔まさか、ついて来るつもりか〕

 一郎は逃げるわけにもいかず、そのままチェリーに歩み寄った。

 チェリーは少し一郎を睨み付けるような視線を送った。

 一郎はなにか気の利いた言葉を探したが見つからなかった。

「えーと、おはよう。いい天気だね」

 チェリーは低い声を出した。

「どこ、行くの?」

「えーと、ちょっと忘れ物を取りに、北の城門まで。そう、知り合いの宿屋に、服が預けてあるから、それを取りにいこうと思って」

「そのあとは?」

 一郎は答えに詰まった。

「えー、と」

「一緒に行ってもいい?」

 イヤな予感というもはよく当たるものらしい。

 一郎はどきっとした。カンボジからはワールドマスターの話はしない約束になっていた。

「それは、ちょっと、困る」

「どうして?」

 一郎が黙っていると、チェリーは堰を切ったように喋りだした。

「だいたい、イチ・ローは薄情よ。あれだけ、一緒に暮らしてきたあたしに、置き手紙一つだけで済ませようなんて。あたしたちってそんな仲なの?」

 しゃべりながら、チェリーの身体は次第に一郎元に近づいていった。

「話したら、きっと、君がついて行くって、言い出すんじゃないかって、思ったんだ」

「当たり前よ。ワールドマスターに会いに行くんでしょ?」

「どうしてそれを」

「あなたの国ってどこにあるの? ニッポン、って言ったわよね」

「まあ、そうだけど、‥‥」

「そこへはどうやって行くの? 船、それとも歩くの?」

「‥‥」

「答えられないでしょう? 答えられるとしたら、ワールドマスターぐらいよ」

〔やっぱり隠せなかった、か〕

 チェリーの頭の良さにイチ・ローは感心した。

「でも、チェリー、僕は、国に帰るために、ワールドマスターに会いに行くんであって、敵討ちに行くんじゃないんだよ」

「分かってるわよ。イチ・ローには迷惑かけないから」

 一郎は視線を遠くへ投げた。

 チェリーは声のトーンを落とした。

「ねえ、いいでしょう? 連れてって」

 チェリーは潤んだ瞳で一郎を見上げると、その胸にすがりついた。

〔うわっ〕

 声にこそ出さなかったが、一郎はチェリーの柔らかい身体の感触に動揺を隠せなかった。

 チェリーは一郎を見上げたポーズのまま、目を閉じた。

〔これって、まさか〕

 一郎は次にどうすべきか悩んだ。

 悩んでいる間に、劇的な変化が起きた。

 

         5,

 

 遠くで花火の音がした。そして、喚声が低く一郎の耳にも届いた。

 幾筋もの煙が遠くの方で上がっている。その方向には、城の高い塔が見えていた。

「まさか、城が?」

 一郎がそうつぶやいたのを聞いて、チェリーは身体を震わせた。

 一郎はチェリーの身体を離して、体の向きを素早く変えた。

〔ダメ。行っちゃだめ!〕

 チェリーは心の中でそう叫んでいた。

 一郎は、チェリーを振り返って言った。

「ここにいろ。様子を見てくる。何でもなかったら、一緒に旅に出よう」

 一郎は最後に笑顔を付け加えた。

 そして、走り出す。

「あ」

 チェリーはそのあとに続いた。

〔今、言ってくれたよね。一緒に旅に出ようって〕

 チェリーはその一言がうれしかった。

〔だったら、あたしは付いて行くわ。あなたの側にずっといさせて〕

 心の中でそう唱えながら、チェリーは一郎の後を追った。

 一郎は初め、後ろにチェリーがいるのに気づかず、町の中を城に向かって走り出した。

 まだ、日が昇ったばかりで町の人たちは、城で何が起こっているのか判らず不安そうに窓から城の方を眺めていた。

 城の近くで一郎は足を止めた。一郎は背後に誰かがいるのを感じて振り向いた。チェリーである。

「なんで、付いてきたんだ。橋のところで待ってろって、言ったじゃないか」

 一郎は怒鳴りたいのを我慢して、諭すように言った。

「どんな危険が待ってるかしれないのに、イチ・ロー一人、行かせることはできないわ」

 チェリーも怒ったように答えていた。

 そのとき、城の方で悲鳴が上がった。

 見ると城の方から数人の人が悲鳴を上げながら逃げて来る。

 一郎は一人の職人風の男を捕まえた。

「何が、あったんです。教えて下さい」

「反乱だよ。大臣の誰かだろうが、城を襲ったんだ。兵隊が城の周囲に火を放ってきたんで、逃げ出したんだ」

 男はそれだけ言うと、一郎の手をふりほどいて逃げ出した。

 一郎はチェリーを見た。チェリーは一瞬不安そうな顔を見せていたがすぐに笑顔を作った。

「行くんでしょ?」

 さらりとした言葉が一郎の耳に気持ちよかった。

 一郎は黙って頷いた。

「あたしも行くわ」

「危険だ」

「あなた、あたしを誰だと思ってるの? あなたの二倍は強いつもりよ」

 それを聞いて一郎も笑顔になった。

「じゃ、付いてきてくれ」

「はい」

 一郎は城に向かって走り出した。

 チェリーも続く。

 チェリーには一郎がフィビーのことを心配しているのがよく判った。だから、チェリーの心配は一郎の身体ではなく、一郎の心の方だった。

 チェリーは前から疑問に思っていたことがあった。

 一郎はなぜか危険なことに手を出すクセがある。それも命がけの危険な事態ほど、好んで身を投げ出すのだ。それでいて、自信など全く持っていない。

 収穫祭の夜会で町のごろつきに囲まれたときもそうだった。

 そして、今、内乱という戦いの危険な渦の中に身を投じようとしている。

〔あれだけ、国に帰りたがっていたのに、なぜ? そんなにあのお姫様のことが好きなの? それとも人が困っていると放っておけないだけなのかしら〕

 もし、無事に戻って来られたら、そして、一緒に旅に出られたら、それをチェリーは確かめようと思った。

 

         6,

 

 城の周囲の家や商店が燃えていた。

 一郎は城の正門の数百メートルのところに接近していた。正門は小競り合いの跡はあったが、すでに収まっており数十人の兵士が守りを固めていた。

「くそ、ひどいことをしやがる」

 一郎の言葉にしては汚い言葉の部類に入るだろう。

 一郎は炎の壁を避けて城に近づかねばならなかった。

「そうか。この火は一種の防御壁なのか」

「え、何から、守ってるの?」

「もうじき判る。主役が登場するころだ」

 別の喚声が城とは反対の方向で上がった。

 何十人、いや数百人の規模の軍隊が現れ、城に向かってなでれ込んでいった。

 その軍隊の旗印に、一郎もチェリーも記憶があった。

 一郎には昨日見たばかりの、リーアンの正規軍の旗だった。

「手は打ってあるというのは、こういうことだったのか」

 殺到する正規軍だったが、城門の狭さが災いして、容易に突破できなかった。

 一郎はチェリーを促した。

「行くぞ」

「え、どこへ?」

「城の中に入るのさ」

「どうやって? それに、まだ戦ってる最中よ。危険じゃない?」

「今なら、反乱軍は正規軍に気を取られている。潜り込むなら今だ。それに、秘密の抜け穴も知ってるし」

 一郎はその場を離れた。炎の壁を迂回して城の正門とは反対側に回った。そこには、以前フィビーに案内された扉があった。

 一郎は物陰から周囲の様子をうかがった。

 城壁の中からは、まだ喚声や悲鳴が聞こえていた。

 しかし、城壁の外には誰もいなかった。城壁の上にも監視している様子はなかった。

 一郎は扉まで一気に駆け寄った。チェリーもそれに従った。

「鍵でも持ってるの?」

「いや。だけど、‥‥」

 一郎は外壁の煉瓦を一つずつ引っぱり出そうと試みた。

 そのうち一つが、手前に動いた。中が削られていて鍵が収まっていた。

「へえ、そんなところに」

 チェリーは感心すると同時に、一郎に不審の目を向けた。

「なんで、ここに鍵があるって知ってるわけ?」

「ああ、以前、フィビー姫に教えてもらったんだ」

「ふーん、そう」

 チェリーの胸に何かモヤモヤとしたものが湧き起こった。

 一郎は鍵を開けると、元通りに鍵を収めて、扉を開けた。

「ここから先は慎重に行くぞ。周囲に気を配って、絶対に油断するんじゃないぞ」

「はいはい」

 胸の中にモヤモヤとしたものを抱えているせいか、チェリーの返事はぞんざいになった。

 一郎は扉の中に飛び込んだ。チェリーは後に続くと、扉を閉めた。

 日が昇って二時間後のことだった。

 

         7,

 

 フィビーはその日、母、王妃フィルーの声に起こされた。

「フィビー、起きなさい」

 フィルーはフィビーの肩を揺すった。

 目覚めの直後は、低血圧で頭がうまく働かないフィビーだった。「はい」と反射的に返事はするものの、身体の動きは鈍かった。

 フィルーは短い呪文を唱えた。

「プ・ウィーク」

 たちまちフィビーの頭がすっきりとした。

「おはようございます、お母様」

 フィビーはいつも通り、ベッドから下りると丁寧に挨拶をした。

「すぐに動きやすい服に着替えなさい」

 フィルーの声は緊張していた。

 フィビーは窓に視線を移した。カーテンが引かれてはいたが、外はまだ夜明けを迎えたばかりだというのが判った。

「はい。でも、お母様、何が。新しい修行ですか」

「いいえ。ベンデス大臣の反乱よ」

 そう言い終えると同時に、悲鳴と喚声が城内からフィビーの耳にと届いた。フィビーの全身に鳥肌が立った。

〔反乱? ベンデスの伯父様が〕

 さらに、寝室のドアが蹴破られ、剣を手に持った兵士が三人、中に入ってきた。

 振り返ったフィルーは兵士たちを一喝した。

「無礼者! 王女の部屋に、無断で、しかも剣を携えて入るなど、誰が許可したか! 下がれ!」

 兵士たちは一瞬ひるんだが、剣を構えなおして、フィルーとフィビーを取り囲んだ。

「わらわの言葉を聞かぬか。反乱軍め」

 フィルーの言葉に兵士がおそるおそる口を開いた。

「無礼は承知の上。しかし、国の存亡に関わることゆえ、どうか、おとなしく我々に従っていただきたい」

 三人の兵士の剣先は小刻みに震えていた。

「断る」

 フィルーの静かな一言を合図に、兵士たちは一斉にフィルー向かって斬りかかった。

 フィビーは思わず身をすくめた。

「ラ・ヴィー」

 フィルーがそう呪文をとなえた。

 三人の兵士は一斉に壁際に吹き飛ばされた。

 フィルーが唱えたのは物理的な攻撃を防ぐバリアを作り出す呪文だった。それを意識的に膨張させることで、三人の兵士はカウンターパンチを全身に与えられたのと同じ状態になった。

 三人の兵士は完全に意識を失っていた。

 フィビーが何が起こったか理解するのに時間がかかった。

 フィルーにはそれを待ってはいられなかった。

「早く、今の内に着替えなさい」

「はい」

 フィビーはクローゼットの扉を開け、一郎と一緒に旅をしたときの服装に着替えた。

「来なさい、フィビー」

「はい」

 フィビーはフィルーに従って廊下に出た。

 悲鳴を上げて侍女の一人が走り寄ってきた。

「王妃様、王女様、一大事でございます!」

「落ち着きなさい。国王陛下はいずこに?」

 フィルーは優しく落ち着いた口調で侍女に話しかけた。

「は、はい。一階と二階の踊り場で、近衛兵とともに、戦っておられます」

 フィルーは少し考えた。

〔わたしの神聖魔法では、敵を防ぐことはできても、撃退することはできない。同時に使える魔法は二つだけ〕

 フィルーは、侍女に逃げるか隠れるように言うと、フィビーの手を引いた。

「フィビー、こちらよ」

「はい、お母様」

 フィルーは、フィビーをチャレンジャーの剣の前に連れていった。途中、別の階段を下りて、中庭を横切ったが、兵士には誰も会わなかった。チャレンジャーの剣の前には番兵もいなかった。

「お母様、どうして、ここへ?」

「もうまもなく、『彼』が現れるからよ」

 フィルーは緊張した表情を捨て、優しい笑顔を見せた。

「イチ・ロー様が」

「そう」

 フィルーはフィビーを掻き抱いた。

「お母様?」

「ごめんなさいね、フィビー。あなたを道具にしか見ていない、ひどい母を許してね。あとは、『彼』を信じて、『彼』に全てを任せなさい。あなたがこの世界で一番好きな『彼』を」

「イチ・ロー様?」

 フィルーはこくりと頷いた。

 フィビーは一郎のことを考えただけで、胸が震えた。

 フィルーは身体を離した。すでに表情は元の厳しい表情に変わっていた。

「フィビー、そこへ腰を下ろしなさい。なるだけ楽な姿勢をとって」

 フィビーは言われるまま地面に腰を下ろした。

「お母様」

 フィビーは聞きたいことがたくさんあった。しかし、フィルーはそれをいっさい許さなかった。

「今から魔法をかけます。この魔法はあなたを誰からも見えなくする魔法。そのかわり、あなたが少しでも体を動かしたり、声を出したりしたら、効果は消えてしまいます。判りましたね?」

 フィビーは頷くしかなかった。

 フィルーは呪文を唱えた。

「サ・リッサ」

 フィルーは魔法の効果を確認すると、その場を離れた。フィルーは王宮の中に戻った。

 そのとき、兵士の声が聞こえた。

「いたぞ、王妃だ」

 フィビーには声だけしか聞こえなかった。

 その直後、二、三人の兵士が中庭に現れた。

 フィビーはチャレンジャーの剣の傍らに息を殺して腰を下ろしている。

 しかし、魔法の効果で兵士には全く見えていないようだった。

 実際、兵士の一人がフィビーの目の前を横切ったが、フィビーの方を見たにもかかわらず、その兵は何も見なかったように報告した。

〔イチ・ロー様、どうか、一刻も、早く来てください〕

 フィビーには、ただ、一郎が現れるのを待つことだけが残った。

 

         8,

 

 城壁の扉の向こうは、植え込みになっていて、向こう側は見えないが、侵入した一郎とチェリーが見つかる可能性もなかった。

 一郎は茂みに沿って、走った。最初の建物は食料庫だった。

 だが、ここは戦略上、重要な場所なのか、十人以上の兵士が守っていた。

 一郎とチェリーは茂みの陰で止まって、そこから動けなくなった。

 チェリーは一郎の服を引っ張って、合図した。

 一郎が振り向くと、低い声でささやいた。

「どうすんのよ?」

 一郎は声を落とそうと、チェリーの耳元でささやいた。

「一度に十人も相手にできないよ」

 そんな一郎の仕草がチェリーをドキリとさせた。耳に一郎の息が、引っかかっているようなくすぐったい気分になる。

〔判っててやってるんじゃない?〕

 そういう疑問が湧き起こるが、次の一郎の言葉は簡単に疑問を打ち消した。

「どうした、チェリー。顔が赤いけど、もう息が上がったのか」

「バ」

 思わずチェリーは大声を上げそうになった。

 それが止まったのは状況が変化したからだった。

 一人の兵士が伝令にやってきて、十人の内七人までがいなくなった。

「どうやら、正門の状況は、敵には分が悪いようだな」

 一郎がにやりと笑って見せた。

 チェリーはその意味を悟って、黙って頷いた。

 残った兵士は三人である。

 一郎は食料庫の東側から、チェリーは西側から、それぞれ兵士の背後に回った。

 チェリーが飛び出すよりワンテンポ早く、一郎が先に飛び出して、兵士の一人を剣の鞘で殴り倒した。

「だれだ」

「貴様」

 残った二人は一郎の方を向き直った。

 その背後を襲うようにチェリーが飛び出した。頭部への一撃で、一人の兵士は悲鳴を上げるまもなく倒された。

 一郎とチェリーに挟み撃ちにされた格好の最後の一人は、一郎とチェリーを交互に見やっている内に、チェリーに腹を、一郎には頭を殴られて気絶した。

 一郎は周囲を見渡したが、この様子に気づいた兵士はいないようだった。

 一郎は兵士の持っていた食料庫の鍵を使って、食料庫を開けた。チェリーと協力して、三人の兵士を食料庫の中に押し込めた。

 食料庫に鍵をかけると、一郎はその鍵を茂みの中に投げ込んだ。

「よし、行こう」

 一郎はチェリーを促して、厨房の中に入った。

 チェリーはまた一郎に対する疑問が浮かんだ。今度は二つだった。

〔どうして、あたしより、先に飛び出したの? なぜ、敵にとどめを刺さないの?〕

 だが、聞くだけ無駄と言うより、聞かなくてもチェリーには判っている。一郎が優しいからだ。

〔少しでもあたしの負担を軽くするため。そして、命を奪いたくはないから〕

 厨房の奥の方から血の匂いが漂ってきた。

 一郎は鼻を押さえながら、血の匂いの方へ慎重に近づいていった。

 床が血で真っ赤に染まっているのが目に飛び込んできた。一郎とチェリーは一瞬目を反らした。視線を戻したのはチェリーが最初だった。

 血の床の上に倒れているのは、メイドとコックが数名だった。

「ひどいわね」

 チェリーは低い声でそうささやいた。

 一郎は答えなかった。

 チェリーが振り返ると、一郎が蒼ざめた顔で立ちつくしていた。それも、背中を向けて。

「どうしたの、イチ・ロー?」

 少し震えた声が帰ってきた。

「チェリーは、平気なのか?」

「平気なわけないじゃない。でも、知ってる人がいないかぐらいは確認しないと」

「ああ、そうだな」

 一郎は恐る恐る血の海に視線を戻した。

 一郎には戦争の経験はない。ただ、知識だけだ。ニュースで流れていた遠い国の内乱も、銃で撃たれた人はそれほど血を流さず倒れていた。

 大昔の戦争は剣と弓矢だけだったが、その結果がこれなのだ。目の前に突きつけられた現実に一郎は逃げ出したくなった。

 倒れている人たちに一郎もチェリーも知った人はいなかった。

 一郎は慎重に倒れているメイドの死体に近づいた。背中に斬られたあとがあり、腹にも刺されたあとがあった。

「確かにひどいな」

〔メイドやコックなんて、戦争には全然関係ないだろうに。それを、よってたかって、斬り殺したのか〕

 そのとき、大きな爆発音がした。厨房の建物を揺らすような大音響だった。

「行ってみよう」

 一郎はなんとか乱れた息を整え、少し小走りに走り出した。

「はい」

 チェリーはそれに続いた。

〔フィビー姫は無事だろうか〕

 一郎の心配はそれしかなかった。それしか考えないようにした。すると、乱れた息も次第に収まっていった。

 チェリーは一郎の背中に熱い視線を送っていた。

〔イチ・ローはすごいわ。すぐに立ち直るんだもの。でも〕

 チェリーは悲しい疑問に突き当たった。

〔それが、お姫様のためだけだったら、どうしよう〕

 厨房の向こうは中庭があり、その向こうに宮殿がある。

 一郎は、もうあと少しだという感触を得ていた。

 

         9,

 

 城中を揺るがすような爆発音が轟いた。

「なんだ?」

 リーアンは民家の屋根の上で監視をしている兵士に声をかけた。

「王宮の方で爆発です」

 正門で指揮を執っていたリーアンは、焦れていた。正門の突破に時間がかかることは判っていたが、予想をはるかに超えていた。

 特に妙なのは、敵の弓矢は当たるのに、こちらの弓矢は掠りもしないことだった。

「おかしい。こんなに当たる矢にはお目にかかったことがないぞ」

 リーアンの参謀の一人がそうつぶやいた。

「まさか」

 その言葉にあることをリーアンは思いついた。

「誰か。弓を持て」

 リーアンは席を立つと、弓矢を受け取った。

「司令官閣下、どちらへ?」

「確かめに行く」

 リーアンはそのまま小走りに、最前線まで進んだ。

「司令官閣下、危険です」

 参謀が止めるのも聞かず、リーアンは最前列に出て、弓矢を放った。

 その弓矢の行方を見届けたあと、リーアンは、司令部の自分の席に戻った。

 リーアンは憤然として自分の席に着いた。

「甘かった。ベンデスがたった百人の兵で、反乱を企てるわけだ」

「司令官閣下、それは?」

「敵の中に、魔道士がいる。それもとびきり強力な奴だ」

「この国にですか? しかし、この国にはそのような者、入り込んだとしても、情報ぐらいは伝わりそうなものですが」

「そう、我が国の警戒網を抜けてなお、自由に活動できる魔道士だ。こいつはやっかいだぞ。こちらの矢は全部反らされる。反対に向こうの矢はこちらを確実に狙ってくる」

「どうされます?」

「裏門と通用門に行った部隊から連絡はないか」

「新しい連絡では、やはり苦戦しているようです」

 リーアンはしばらく考えた。

「各前線の指揮官に伝えろ。矢を十分避けられるように後退して、絶対に突撃するな、と」

 そして、立ち上がった。

「閣下、どちらへ」

「もう一つの入り口から入る。二十人ほど、腕の立つ奴を集めてくれ」

「え、もう、人が入り込める場所などどこにも、‥‥」

「参謀のおまえがそう言うのなら、敵も気づいていないだろう」

 リーアンはにやりと笑って、歩き出した。

「町の消火の方はどうなっている」

「はい。もうほとんど消し止めました」

「よし、行くぞ。あとは頼むぞ、参謀殿」

 リーアンは十数人の兵士を引き連れて、司令部を離れた。

 

         ○

 

 城を揺るがすような大音響が起きたのは、王宮の中だった。

 カンパミ王とフィルー王妃の周りには護衛の近衛兵が数人いるだけだった。それがここまで持ちこたえているのは、フィルーに神聖魔法があるからだった。

 護衛の兵は怪我をしてもたちまち治るし、矢が飛んできても神聖魔法で作ったバリアがはね返していた。

 そこでベンデスは、王宮ごと吹き飛ばすことを考えた。

 もちろんバリアに守られた王と王妃には傷一つ付いてはいなかった。

「それにしても」

 カンパミ王は軽い調子で口を開いた。

「弟の奴、加減ということを知らんのか」

「おそらくこれが最後の手段でしょう。しかし、もう、リーアンがすぐそこまで来ておりますから、攻勢もここまででしょう」

 フィルーの言うとおり、リーアンは一郎が入ったところから、城の中に潜入しようとしていた。

「フィビーは、どうした?」

「あの子は、チャレンジャーの剣の側です」

「そのようなところ、危険ではないのか?」

「透明魔法のサ・リッサが、かけてあります。敵に見つかることはないでしょう」

「なぜ、そこに?」

「あの子が待っている人が、そこに現れるからです」

「また、予言か?」

「ええ。でも、わたしの予言もここまでですわ。そこから先は、わかりません」

「フィビーが待っている、というと、あの異国の男か」

「そうです」

「なかなか気持ちのいい若者だった。誠実で謙虚で。フィビーが好きになるのも判る」

「あの子の周りはいつも、権力争いの好きな殿方ばかりでしたから」

 カンパミ王はすっと立ち上がった。

「さて、もう一暴れしてまいるか。マルカムの『剣聖』の力、見せつけてやらねば、リーアンが苦労しそうだ」

 爆発の煙が収まりつつある中、カンパミ王はバリアの縁に向かった。兵士の一人から剣を受けとると、フィルー王妃に合図を送った。

「開けてくれ」

 フィルーがバリアを解いた。

 カンパミ王と護衛の兵士数人が、一斉に反乱軍の兵士たちに斬りかかった。

 数人倒しては、再びバリアの中に引き返す。これを繰り返すことで、カンパミ王たちは時間を引き延ばしてきた。

 

         ○

 

 城を揺るがす大音響が起きたとき、さすがにフィビーも体を動かしかけた。

 それを何とか押しとどめたのは、母フィルーの言葉があったからだ。

〔大丈夫。きっと大丈夫よ。もうじき、イチ・ロー様が来てくれるんだから〕

 フィビーは不安と戦いながら、静かに一郎を待った。

 

         10,

 

 一郎は王宮の入り口に、少なくとも、三十人の兵士を見た。

 一郎はチェリーに合図をして、王宮を回り込んだ。

「どうするの?」

 チェリーは一郎の服を引っ張った。

「他の入り口を探して中に入ろう」

 先ほど兵士たちが集まっていた場所とは正反対の位置にあるところに、もう一つ階段があった。こちらには監視の兵が五人いた。

「五人なら何とかできるんじゃない?」

 チェリーの提案に一郎はそれしかないような気がしていた。

 そのとき、王宮の反対側で、喚声が上がった。

 一人の兵士が現れ、五人の兵士を全て連れていった。

 このとき一郎はまだ、リーアンの動きを知らなかった。

 五人の兵士が見えなくなると、チェリーは立ち上がった。

「待て、チェリー」

 一郎の声にチェリーはもう一度茂みの中に身を伏せた。

 正門の方から十人ぐらいの兵士がやってきて、一郎たちの茂みの前を通過していった。

 そのうちの一人の兵士が、階段の中ほどに何か、袋のような物を置いて去った。

 兵士たちがいなくなって、しばらくしてから一郎とチェリーは茂みから飛び出した。

 一郎を先頭に二人は階段を駆け上がった。

 一郎は階段途中に起き去られた袋に薄く煙が立ち上っているのを見つけた。

〔まさか、爆弾〕

 一郎は背後にいるチェリーに声をかけた。「チェリー、戻れ!」

 そこから先は、コンマ一秒単位の出来事だった。

 一郎の言葉に従って、チェリーは身を翻して階段を飛び降りた。着地の瞬間わずかにバランスを失っただけで、チェリーは駆け出そうとしていた。

 その直後に一郎が着地した。一郎は背後に微かな熱を感じた。髪の毛がチリチリと焼けるような気がした。

 一郎は目の前のチェリーの背中に飛びかかった。

 直後に閃光と爆発音がした。

 一郎はチェリーの上に折り重なるように地面に倒れ込んだ。

「きゃっ」

 爆発よりも一郎が飛びかかってきたことにチェリーは驚いた。爆発音で何があったのかをチェリーに教えた。

 爆風が煙を伴ってチェリーの身体の脇を通り抜けた。

 バラバラと階段の破片が降ってくる。

 チェリーはズンというような鈍い音を聞いた気がした。その直後、一郎はぐったりとなってチェリーにのしかかってきた。

「イチ・ロー」

 チェリーは一郎の身体をずらすように起きあがった。

「イチ・ロー」

 もう一度呼んでみたが返事がない。

 焦ったチェリーは一郎の肩を揺すって、声を張り上げた。

「イチ・ロー! しっかりして!」

 チェリーは一郎の身体を仰向けにすると、抱き起こした。

 そのときチェリーの左手に血が付いた。調べると一郎の後頭部から出血していた。

 チェリーは思わず涙を流した。

「いやよ、イチ・ロー」

 チェリーは一郎の身体を抱きしめた。

「死なないでよ」

〔あたし、まだ、イチ・ローに何も言ってない〕

 一郎の頬と自分の頬がふれあったとき、一郎が呼吸をしているのが判った。

「イチ・ロー」

 チェリーはほっとして、一郎の頬を軽く叩いた。

 一郎のまぶたがぴくぴくと動いた。

 チェリーはじっと待った。

 ゆっくりと、薄く、一郎の目が開けられた。

 そして、口が開いた。

「チェリー、無事か」

 チェリーは涙を拭うと、にっこりと笑って見せた。

「まったく、無事か、じゃないわよ」

 一郎はチェリーの涙に気づいた。

「どこか、怪我したのか」

 チェリーは首を振った。

「こんなに心配させて」

〔イチ・ロー、好きよ。大好き〕

 チェリーは力一杯一郎を抱きしめた。

〔こんなにイチ・ローのことが好きなんだから。もう、気付いてよ〕

 一郎はチェリーの背中をなでるように軽く叩いた。

「チェリー、もう、行こう」

 一郎が立ち上がろうとすると、チェリーも身体を離してゆっくり立ち上がった。

「イチ・ロー、どこか痛いところはない?」

「ないよ。チェリーは?」

「ないわ」

「よし。じゃ、行こうか」

 一郎は慎重に進んだ。

 王宮の反対側でまた喚声が上がった。

 階段は爆弾によってきれいに吹き飛ばされていた。破片は粉々になって周囲に飛び散っていた。

「こっちから上がるのはもう無理だな」

「うん」

「向こうへ行ってみよう」

 一郎とチェリーは中庭の茂みに沿って、王宮の周囲を回った。

 茂みが途切れて広くなった。

 一郎とチェリーの目の前に、岩が現れた。岩の頂上には剣が突き刺さっている。何かの彫刻かオブジェの類に見えないこともない。

「なに、これ?」

 一郎は以前見たことがあって、覚えていた。

「チャレンジャーの剣、さ」

 直感的に一郎はチャレンジャーの剣が諸悪の根元のような気がした。少なくとも、この剣はフィビーの人生を縛り付けている。一郎はそう感じて、チャレンジャーの剣を睨み付けた。

「これが、チャレンジャーの剣」

 チェリーは別の意味でこの剣に不吉なものを感じた。ある意味では、チェリーの父も母もこの剣の犠牲になったと言えるからだ。

 そこに三人の男がやってきた。一人は立派な甲冑を身につけ、他の二人は普通の兵士の姿をしていた。

 

         11,

 

 反乱の首謀者であるベンデス大臣は、王宮の攻略に手間取り、焦っていた。やはり、王妃の神聖魔法は強力だった。だから、フィビーの帰国を妨害したのだが、異国から来たイチ・ローという男に邪魔されてしまった。

 そのとき、背後から鬨の声を上げて突撃してくる部隊があった。その先頭に立って真紅のマントをまとい剣を振るっているのは。

「リーアン王子。なぜ、ここに?」

 ベンデスは思わず驚愕の声を上げた。

 リーアンの活躍はすさまじかった。まるで、草むらの中を進むように邪魔な兵士をなぎ払って突き進んだ。

「父上!」

 リーアンの声にカンパミ王が答えた。

「おう、リーアンか」

「遅くなりました」

「なんの、もう少しでこやつらを打ち倒せたところじゃ」

 リーアンの倍の兵士を擁しながら、ベンデスは形勢が入れ替わっていくのを感じた。

 ベンデスは近くにあった火薬袋を取った。

 そして、側にいた二人の兵士に命じた。

「おい、付いてこい。他のものはなんとしても、リーアンをくい止めよ」

 また別の兵士に、命令を出した。

「各門を守る兵士に伝えよ。全員、チャレンジャーの剣のところに集まれと」

 命令を聞いて兵士は走り出した。

 ベンデスは二人の兵士を伴って走り出した。

「待て、ベンデス!」

 背後でリーアンの叫ぶ声が聞こえたが、ベンデスは耳を貸さなかった。

 ベンデスがチャレンジャーの剣のある中庭にたどり着くと、その側に若い男女が立っていた。

 男の方に見覚えがあった。

「貴様、確か、イチ・ロー」

 

         ○

 

 フィビーの視界の中にベンデス大臣が現れた。側に兵士が二人いる。

 ベンデスが一郎の名前を呼んだ。

 フィビーは、ベンデスがフィビーからは死角になっている部分に視線を定めているのを知った。

 フィルーの予言が当たったのだろう。フィビーは確かめようと、立ち上がってベンデスの見ている方を振り返った。

 同時に、フィビーにかけられていた魔法も効力が切れた。

 フィビーの視線の先に確かに一郎はいた。胸がかっと熱くなった。自然にフィビーの口が動いてしまう。

「イチ・ロー様!」

 フィビーが声を出すと、一郎とチェリーと、ベンデスも振り向いた。

 フィビーは一郎に向かって駆け出した。

 

         ○

 

 一郎の視界の隅にフィビーが現れた。

 フィビーの声と同時に一郎はフィビーの方を見た。フィビーが駆け寄ってくるのが判った。

 一郎は視線をベンデスの方に戻した。

 フィビーと同時にベンデスも一郎に向かってきていた。しかも、抜き身の剣を腰に構えていた。

〔迷っている暇はないか〕

 一郎も剣を抜くと構えた。

「チェリー、兵隊の方を頼む」

 短くそう言うと、一郎はベンデスに向かっていった。

「わかったわ」

 チェリーは動物のような俊敏さで、兵士の一人に飛びかかった。チェリーは兵士の剣をかいくぐると、脇をすり抜けるように兵士の背後に回った。そして、後ろから兵士の首を締め上げると言うより、潰すようにして兵士を気絶させた。

 チェリーはもう一人の兵士に飛びかかった。

 一方、一郎は身体をフィビーとベンデスの間に滑り込ませた。

 振り下ろされるベンデスの剣がフィビーの肩に届く寸前で、一郎の剣が受け止めた。

 キンと剣のぶつかる音がした。

 フィビーは一郎の背中に隠れた。

 ベンデスの剣がぶつかったとき、一郎の右手がしびれた。

〔なんて力だ〕

 一郎は両手で剣を持ち直した。

 ベンデスの剣が再び一郎に振り下ろされた。

 ギンと、今度は少し鈍い音がした。

 二人の剣が合わさって、つばぜり合いが起こった。

「フィビー姫、下がって!」

 一郎は背後のフィビーに短く声をかけた。

 一郎の言葉に一歩二歩と後ろに下がったフィビーだが、足はそこで止まった。

「貴様」

 ベンデスが低い声でうめいた。

「貴様さえ、現れなければ、うまくいっていたんだ」

「ああ、そうかよ」

 一郎は挑発するように笑って見せた。少しでも、ベンデスの注意をフィビーから反らしたかったからだ。

 ベンデスはいったん一郎から離れるともう一度一郎めがけ剣を振り下ろした。今度は渾身の力と気迫が込められていた。

 それを一郎は再び剣で受け止めようとしたとき、一郎を愕然とさせることが起こった。

 今度は、グンという鈍い音とパキッという乾いた音が重なった。同時に一郎の剣が根元から折れた。

〔しまった〕

 チェリーはもう一人の兵士に手こずっていた。チェリーは、視界の隅で一郎を捉えていて、一郎の剣が折れたのも見ていた。

「イチ・ロー!」

 チェリーは悲痛な叫び声を上げた。

「イチ・ロー様!」

 フィビーの声は叫び声に近かった。

 三度、ベンデスの剣が一郎に襲いかかった。

「はっ、死ねっ!」

 勝ち誇ったような歪んだ笑顔が一郎の目に映った。同時に白い光が一郎の頭上に迫っていた。

〔これまでか〕

 一郎は覚悟を決めて目を瞑った。

 だが、目を瞑るより先に一郎の視界が暗くなった。

 人影が一郎の前に立ちはだかった。そして、その影の持ち主はフィビーだった。

「あ!」

 一郎、フィビー、チェリーの叫びが重なった。

 フィビーの首から下げていたペンダントが糸を切られて無数の宝石と共に飛び散った。フィビーはゆっくりと一郎にもたれかかるように倒れた。

 それを一郎が受け止めた。フィビーの胸から腹にかけて服が真っ赤に染まっていた。

 フィビーは懐かしい匂いと温もりの中にその身を委ねていた。目を開けると、一郎の顔があった。

 一郎は今にも泣き出しそうな辛そうな顔をしていた。

〔どうしたの〕

 フィビーはそう声に出して一郎に話しかけようとした。

 しかし、腹筋を動かそうとしたとき、激痛がフィビーの全身に広がった。

「あうっ」

 短い悲鳴がフィビーの喉から漏れた。

「フィビー、しっかりしろ!」

 一郎は我を忘れて、フィビーの身体を揺すった。

 痛みを押さえようとしてフィビーは腹をさすった。その手にべたべたとした感触が残った。手を広げてみるとその手は血で真っ赤に染まっていた。

「フィビー!」

 一郎の呼ぶ声にフィビーは閉じかけた目を開けた。

 

         12,

 

 チェリーは兵士の剣を持った手を蹴り上げ、剣をはじき飛ばした。

 兵士が剣に気を取られた瞬間、チェリーの蹴りが兵士の胸の真ん中に決まった。

「うぐ」

 苦しそうに、胸を押さえて兵士はうつぶせに倒れた。

 チェリーはそれを見届けることなく、ベンデスを背後から襲った。左手で首を絞め、右手は剣を動かせないようベンデスの手首の関節を封じた。

 ベンデスは剣を取り落とした。

「イチ・ロー!」

 チェリーの声に一郎は反応しなかった。

 フィビーを胸に抱いたまま一郎は呆然としていた。

 一郎は目の前の出来事が信じられなかった。

〔うそだ。嘘だ。ウソだ。死ぬのは、俺の方だ。俺が死ぬはずだったんだ〕

 フィビーの手が弱々しく動いた。指が一郎の唇を探し当てると、フィビーの唇が微かに動いた。

「連れていって、あなたの、国」

 フィビーの指が一郎の唇から離れた。

 一郎はその指をしっかりと握った。

「ああ、判ってるよ。だから死ぬんじゃないぞ」

 フィビーは微かに微笑み頷き、目を閉じた。

 チェリーが必死に一郎を呼んでいた。

「イチ・ロー、早く! こいつを」

 チェリーはベンデスの動きを封じたつもりだった。しかし、最初の兵士と違い、渾身の力で首を絞めても簡単には倒れなかった。

 ベンデスは空いた左手で、懐から小刀を出した。

 それを見た一郎は、思わず叫んだ。

「チェリー、危ない! 離れろ!」

 チェリーが気が付いたときには、小刀はチェリーの脇腹に突き立てられていた。

 次の瞬間、チェリーは脇腹に焼け付くような痛みを覚えた。

 ベンデスはチェリーの脇腹に刺さった小刀を素早く引き抜いた。

 直後にチェリーの身体はベンデスを離れ地面に投げ出された。

「う、い、イチ、ロー」

 苦しそうなチェリーの声に、一郎は甲高い悲痛な叫び声を上げた。

「チェリー!」

〔うそだ。チェリーまで? ウソだ〕

 ベンデスは落とした剣を拾うと、再び一郎に向かって振りかぶった。

「死ねっ」

 ベンデスが剣を振り下ろそうとしたときだった。

 その横から飛んできたナイフが、ベンデスの剣をたたき落とした。

「イチ・ロー!」

「イチ・ローさん!」

 一郎が声の方に視線を動かすと、そこに懐かしい顔が二つ、パンコムとヴィジーが立っていた。

 ヴィジーはナイフを手に持ち、パンコムは棍棒のようなものを持っていた。

 ベンデスは飛ばされた剣を拾いにいった。

「今だ、イチ・ロー! 剣を抜け!」

 パンコムの言葉だった。

 一郎は何のことか判らなかった。

「チャレンジャーの剣を抜くんだよ!」

「え、でも」

「今なら、抜ける。お姫様と女の子を助けたかったら、抜くんだ!」

 一郎は半信半疑で、チャレンジャーの剣の刺さった岩をよじ登った。

 剣を前にして一郎はためらった。以前の手を火に焼かれた記憶があるからだ。

 剣を拾ったベンデスは再び一郎に襲いかかろうとしていた。

「急げ、イチ・ロー!」

 パンコムの声に押されるように一郎は剣の柄に手をかけようとした。

「させるか!」

 ベンデスはそう叫んで岩を登ろうとした。

 そのベンデスの足を、転がっていたチェリーが掴んだ。

 ベンデスは前のめりに倒れ、岩に顔をぶつけそうになった。

 ベンデスはチェリーの方を怒りの形相で睨み付けた。

「小娘が! そんなに死にたいか!」

 ベンデスは地面に倒れているチェリーに剣を振り下ろそうとしていた。

「チェリー!」

 一郎は叫んだ。

 パンコムの声が重なった。

「抜け!」

 一郎はチャレンジャーの剣を掴んだ。

 そのとたん、剣は真っ赤に輝き、溶鉱炉から生まれたばかりの鉄のように高温を発した。

 握っている一郎の手が燃えた。

 それでも構わず、一郎が力を込めて引き抜くと、ついに剣が動いた。

 同時に剣を中心に地響きが起こった。

 剣を振りかぶったベンデスはバランスを失って、異変に気付いた。振り向けば一郎はチャレンジャーの剣をゆっくりと岩から引き抜いていた。

「や、やめろ!」

 ベンデスは叫びながら、一郎に向かっていった。

「やめろ! やめろ!」

 だが、チャレンジャーの剣は一郎によって完全に引き抜かれた。

 その瞬間、高熱は一気に収まり、柄の部分から暖かい光がほとばしった。その光はみるみる一郎の両手の火傷を元通りに治した。

「この、馬鹿ものが!」

 ベンデスは一郎に向かって剣を構え突っ込んできた。

 一郎も剣を構えた。

 そのときだった。一郎もベンデスも予期しないことが起こった。

 チャレンジャーの剣がすうっと伸びて、ベンデスの胸を鎧ごと貫いた。ベンデスは信じられないといった表情で自分の胸に突き刺さった剣を見つめた。

 チャレンジャーの剣はベンデスの胸を一突きして元の長さに戻った。

 剣が抜き取られると、ベンデスはばったりとその場に突っ伏した。

 元の長さに戻ったチャレンジャーの剣は、血糊のあともなく、プラチナ色に輝く刀身を見せていた。

 一郎の身体を弱い電流が走ったような感覚が駆けめぐっていた。

 そうした身体の興奮状態が収まったとき、心の中の蓋が開かれた。

〔思い出した〕

 一郎は、自分の心の中が澄み切った青空のように見渡せるようになった気がした。

〔思い出したぞ。俺は、この世界に自分の意志で来たんだ〕

 一郎はチャレンジャーの剣をじっと見つめた。

 


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