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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。


「ワールド マスター 1  〜 マルカム王国編 〜」

ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)


 第十章 「夜会が終わるまで」

 

         1,

 

 一郎が息を切らして道場に戻ったのと、日が沈むのはほとんど同時だった。

 道場を横切る間に息を整え、一郎はチェリーの部屋の前で深呼吸した。

 ドアをノックすると、返事がした。

「どうぞ」

「遅くなりました、先輩」

 ドアを開けて中を入った瞬間、一郎は一瞬部屋を間違えたのかと思った。

 花の香水に満たされた部屋には、華服を着たチェリーがいた。口紅を塗り、髪を斜め横上にまとめ、かかとの高い靴を履き替えた姿は、一郎の一度も見たことのない姿だった。

 瞬きを一回して一郎はチェリーだと認めた。

「イチ・ロー、来てくれたのね」

 チェリーの語尾が震えていた。

「先輩、綺麗ですよ」

 すると不思議なことに、チェリーの頬に赤みが差してきた。

「そお? ありがとう」

 チェリーは、一歩一歩ゆっくりと歩み寄ってきた。

 一郎はこのとき華服の特徴に気づいた。花のデザインを重視するため、上から下に向かって絞り込むように細くなるデザインが施されていた。そのため、足を動かす余裕が全くなくなっていた。

 泣き出しそうな笑顔で近づいてくるチェリーの顔が途中から曇ってきた。

 チェリーはベッドに投げ出してあったタオルを拾い上げた。

 おもむろにチェリーはタオルを一郎に投げつけた。

「口紅、拭きなさいよ」

 一郎は慌てて唇にタオルを押し当てた。

「そこじゃないわよ。首よ。ば」

 チェリーは口から出かかった「馬鹿」を飲み込んだ。

〔なによ。お姫様とうまいこと、やってるんじゃない〕

 一郎はばつが悪そうに首筋をタオルでこすった。

〔いかん。自分で、墓穴を掘ってしまった。何か別の話題に変えないと、空気が重い〕

 一郎はフィビーの伝言を思い出した。

「そうだ。フィビー姫から、先輩に伝言が」

 チェリーはきょとんとした。

「お姫様が? あたしに?」

「ええ。『今度は正々堂々と争いましょう』ってことですけど、何のことか判ります?」

 それを聞いて、チェリーは一郎の首に残されたキスマークの意味を理解した。

〔あたしが嘘をついたことへの、ささやかな意趣返しのつもりね〕

「イチ・ロー、あなたは判らないの?」

「ええ。さっぱり。先輩、フィビー姫と共通の趣味でもあるんですか?」

〔イチ・ロー、本気だ。本当に判らないんだ〕

 チェリーは吹き出した。

「え?」

 一郎は呆気にとられた。

 チェリーは手を口で押さえたが、笑いは簡単に止まらなかった。

〔信じられない。正直なだけかと思ったら、鈍感だったなんて〕

 チェリーはたっぷりと笑ったあと、一郎に宝石の入った木箱を渡した。一郎はまだ呆気にとられたままだった。

「付けてくれる?」

 チェリーは華服のを襟を押さえて、一郎にうなじを見せた。

「ああ、はい」

 一郎はまだ疑問を抱いていた。フィビーとチェリーが何を争っているのか知りたかった。

 背中を向いて見せたチェリーのうなじは白かった。同時に匂ってくる花の香りが、一郎を惹きつけた。

〔ラベンダーの香りだ〕

「いい香りですね」

「紫蘇油を使ってみたの。料理だけじゃなく香水にも使えるのよね」

 一郎は木箱から首飾りを取り出すと、慎重にチェリーの首に巻き付け、留め金を止めた。同じ木箱に入っていた耳飾りの方は、すでにチェリーの耳にぶら下がっていた。

「できました」

「ありがとう」

 チェリーは一郎の方に向きに直った。

「どうかしら?」

 チェリーは少し胸を張ってみせた。

 紫を基調にした華服に、白、黄色、赤の三色の宝石がぴったりと映えていた。それはチェリーの白い肌にも合っていた。

 華服のデザインは南米のカーニバルの衣装か中世ヨーロッパ貴族の衣装に近いものがあった。要するに胸元が広く開いているのである。

 華服が小さいのか、チェリーの胸が大きいのか、開いた胸元でくっきりと谷間ができていた。

 一郎はチェリーのヌードを思い出してドキリとした。

「う、うん、よく似合ってるよ。ホント」

 一郎の言い方にピンときたのか、チェリーは一郎の耳をギュッと引っ張った。

「いてっ」

「このスケベ。早く着替えてきてよ」

 それは優しい口調だった。一郎の心を少しでも動かすことができて、チェリーはうれしくなった。

「は、はい」

 一郎は、そそくさと部屋を出た。

 チェリーはほっと息を短く吐くと、ベッドの上に腰を下ろした。

「よかった」

 チェリーは小さくつぶやいた。

〔イチ・ローは帰ってきてくれた。やっぱりイチ・ローを信じてよかった〕

 チェリーはフィビーからの伝言を思い出して笑みを浮かべた。

〔夜会に出る前の男にキスマークとは、やってくれるじゃない。見事な宣戦布告だわ〕

「今度は正々堂々と争いましょう、か」

〔いいわ。受けて立つわよ。お姫様だからって、遠慮はしないわよ。一緒に住んでるこっちの方が断然有利なんだから〕

 チェリーは心の中で固く決意した。

 

         2,

 

 一郎は部屋に用意してあった衣装に着替えた。それはいつか城の宴会の時に着せられた中世スペイン風の衣装だった。

 着替え終わった一郎は、もう一度チェリーの部屋をノックした。

 今度はドアを開けてチェリーが出てきた。

「行きましょう」

 一郎が声をかけると、チェリーは黙って頷いた。

 チェリーの意識は歩く方に集中していた。着慣れない華服に、履き慣れない踵の高い靴では、うまく歩けないのも道理だった。

 一郎が手を差し出すとチェリーはその手をしっかりと握ってきた。

「お願い。離さないでね」

「大丈夫ですよ」

 ゆっくりとした足取りで、二人は道場を出た。

 空はちょうど星空に切り替わって、西の空にかすかに青い帯が残っていた。

 道場の外では、提灯を持ったカンボジが立っていた。

「おじいちゃん」

「老師」

 二人を見比べて、老師はうれしそうに頷いた。

「うむ、二人ともよく似合っておるぞ」

 カンボジのチェリーを見る目は少し潤んでいるようだった。

「チェリー、綺麗じゃよ。ジェニーに見せてやりたかったのう」

「おじいちゃん」

 カンボジは一郎に提灯を渡した。

「イチ・ロー、よろしく頼むぞ」

「はい、老師」

 一郎はカンボジに向かって一礼すると、再びチェリーの手を取って歩き出した。

 カンボジは道場に入らず、そのまま酒場のある方に消えていった。

 夜会の中心となる会場は、昼間、フィビーが一郎を待っていた噴水の側だった。

 そこに夜会のカップルが踊るためのスペースがあった。その少し離れたところに、「溜まり場」があり、カップルで来れなかった女性はそこで男性が声をかけてくれるのを待つことになる。いい相手と巡り会えれば、一緒に踊ることもできるし、恋人にもなれる。

 カップルは気に入った音楽に合わせてそこで踊り、見物客の票を集める。もっとも多く票を集めたカップルには「ベストカップル」の称号が与えられ、記念品が贈られる。その記念品が二人を幸せにするという伝説もある。

「イチ・ロー」

 チェリーは少し遠慮がちに声をかけた。

「何ですか、先輩」

「もう、怒ってない?」

「少しは。いや、ほんの少し。やっぱり、全然」

 チェリーはくすっと笑った。

「なによ、それ?」

「初めはさすがに頭に来ましたよ。まさか、先輩が嘘をつくとは思いもしませんでしたから」

「ごめんなさい」

「謝るのは、僕の方です。本当はあのとき、先輩の方から声をかけてきたんですから、先に先輩の話を聞くべきでした」

 夕闇の中、提灯の明かりだけではチェリーの表情は分かりにくくなっていた。しかし、息を飲むのは判った。

「そうしたら、先に先輩の話を聞くことができて、先輩と夜会に行く約束ができて。そのあとなら、先輩も手紙を全部読んでくれたでしょう」

「多分ね」

 チェリーは少し曖昧に返事をした。

〔それでも、きっと、あたしは読まなかったと思う〕

 こうして手を取り合って夜会に向かっているのに、チェリーはまだ不安だった。

〔もし、ここにお姫様が現れたら、イチ・ローはお姫様の方を優先するような気がする〕

 それだけ、フィビーは一郎を信頼していたし、一郎はあれほど怒りを露にしたのだと思う。

 そして、フィビーには堂々と宣戦布告をする余裕があるのだ。

〔なんだか、だいぶ差を付けられてる感じがする〕

 しかし、チェリーはそうした圧迫感がなぜか心地よかった。

〔でも、絶対にあたしは負けない〕

 チェリーは静かに闘志を燃やしていた。

 空は降るような星空に変わっていた。

 

         3,

 

 いつの間にか、一郎とチェリーは大通りに着いていた。

 その二人以外にも提灯を持ったカップルが次第に増えていた。女性はそれぞれ派手なデザインの華服を着て着飾っていた。

 夜会の中心となる会場では、竪琴が静かな旋律を奏でていた。

 その音色に惹かれて、全ての若い男女が集まってきているようだった。会場の熱気が離れた場所からでも伝わってきた。

 それでいて不思議に静かな雰囲気が会場を包んでいた。全員が静かな口調で言葉を交わしていた。

 チェリーは目の前の少女の横顔に見覚えがあった。しかし、料理教室に来る女の子たちでもないし、近所に住む友人でもなかった。もちろん、フィビーではない。

〔確かに見覚えはあるのに、誰だろう。思い出せない〕

 しかし、その少女の手を引く男性には見覚えがあった。

「リーアン王子」

 その名前を呼んだのは一郎の方だった。

 それを聞いてチェリーはやっと名前を思い出した。

〔すると、彼女は、確か、ローリーだったかしら〕

 ローリーは真っ赤なバラの華服を着ていた。

 すると、リーアンは振り返って口に指を一本立てて「静かに」という仕草を見せた。

「こんばんわ」

 チェリーは気軽に挨拶をした。

「こんばんわ、チェリーさん。イチ・ロー様」

 ローリーは上品に一礼した。

「チェリーに、イチ・ロー?」

 リーアンの鋭い視線がチェリーと一郎をとらえた。

 リーアンは眉をピクッと動かした。

「イチ・ロー、ちょっと話がある」

 リーアンは目で一郎に合図を送りその場を離れた。

「ちょっと待ってて」

 一郎はチェリーに一声かけると、リーアンの後に続いた。

 リーアンは少し離れた建物の陰で立ち止まった。

 一郎はリーアンの背中に声をかけた。

「王子もいらしてたんですか」

「ローリーをみんなに自慢したくてな」

 そう言って振り向いたリーアンの表情は自信に満ちていた。しかし、一郎の首筋にキスマークを見つけ、険くなった。

〔あれ?〕

 一郎はリーアンの表情の意味が分からなかった。

「どうかしたんですか」

「昼間は」

 リーアンの言葉は、一郎にフィビーのことを思い出させた。

「楽しかったかい」

「は、はい」

「で、夜は別の彼女と夜会か。お盛んなことだな」

 七割が皮肉、残りは怒りがこもったことばだった。

 だが、一郎の方はリーアンの怒りが感じ取れなかった。

「いえ、うまく説明できないんですが、こうなってしまったんです」

「そうだな。ここでわたしを納得させられたら、イチ・ロー殿は誰にも負けない色男になれるだろう」

 リーアンの右手が素早く一郎の服の胸元をつかんだ。そのまま一郎の体を持ち上げそうな力でリーアンは首を締め上げた。

「勝手な言い分かもしれんが、妹を天秤に掛けられてそれを黙って見ているほど大人ではないのでな」

 一郎は修行のせいか、人の殺気は感じ取れるようになっていた。

 リーアンの全身は殺気を放っていた。

「やめてよ」

 チェリーが二人の間に割って入った。

 急速にリーアンの殺気が薄れていった。

「王子、お話があるの。ちょっと来て下さる?」

 チェリーはリーアンの手を引いて歩き出した。

 少し離れたところでチェリーはリーアンに簡単に事情を説明した。

 一郎の方を気にしながら、チェリーは小声でささやいた。

「イチ・ローは、誰も天秤に掛けたりなんかしないわ」

「ふーん、それでは、妹の方は遊びか。だったら、なおさら許せんが」

「違うわよ。イチ・ローは誰にでも愛想がいいのよ。良すぎて、あたしとお姫様とで綱引きをしてるところなの」

「妹が? まさか」

「本当よ。その証拠に、イチ・ローの首筋のキスマークは、お姫様が着けたものなんだから」

〔なるほど〕

 それを聞いてしばらく考えたリーアンはにやりと笑った。

「そうか。では、兄としては妹を応援すべきなのかな」

「ちょっと、やめてよ。これ以上、話をややこしくしないで」

「はは、冗談だ。だが、チェリーが夜会に出る気になるまで、一体いくつイチ・ローの顔をなぐったんだ」

 チェリーは少し顔を赤らめて、短く「ばか」と返事をした。

 リーアンはポンとチェリーの肩を叩くと、ゆっくり一郎に向かって歩き出した。

 一郎は少し緊張してリーアンを見守った。

「さっきはすまなかった。わたしの勘違いだった。せっかくの祭りに水を差すような真似をして申し訳ない」

 リーアンが頭を下げるとは、チェリーも一郎も予想していなかった。

 呆気にとられている一郎を後目に、リーアンはローリーの肩を抱いて夜会の中心に向かっていた。

 一郎のリーアンたちの後ろ姿を見る目が何となく寂しかった。それを見てチェリーの胸がギュッと押しつぶされるような感覚を覚えた。

 リーアンは「勘違いだ」と言ったが、さすがに一郎も自分の位置を自覚した。

〔確かに、見ようによっては、二股をかけているように見えるかも〕

 その一郎の右腕にチェリーはすがりついた。

 一郎は慌てたように笑顔を作ると、チェリーもにっこりと微笑んだ。

「僕たちも行こうか」

 一郎の笑顔は夜会の雰囲気に溶け込んでいるようだった。先ほど見せた寂しそうな目はチェリーの見間違いだったのだろうか。

「うん」

 ほっとして、少し甘えた声でチェリーは返事をした。

 

         4,

 

 結局、夜会で「ベストカップル」の称号を得たのは、リーアン王子(偽名でアンリと名乗っていた)とローリーのペアだった。

 踊りのことまで、一郎もチェリーも気が回らなかった。早くから練習していたカップルもいて、一郎たちの踊りレベルでは太刀打ちできないものがあった。

 それでもチェリーは幸せだった。音楽に合わせて手を取り合って動いているだけだったが、その間チェリーは穏やかな波の上で船に揺られている気分になった。

 一郎と歩く帰り道で、チェリーは一郎と腕を組みながら夜会の余韻に浸っていた。

〔男と腕を組んであるくのがこんなに楽しいとは、思わなかった。普通の女の子はみんなこういう気分に浸っていたんだ。ファレーも、レイカーも〕

 その雰囲気が突如破られた。

 一郎は足を止めた。

 一郎の腕から緊張した雰囲気がチェリーに伝わってきた。

 いつの間にか二人の周囲は六人の男に囲まれていた。

 道場へ戻るのに一番近い脇道へ入ってすぐのところだった。道幅は広いのだが、通りの灯りが差し込まない暗い道だった。

 野太い男の声だけが低く流れた。

「昼間はよくも恥をかかせてくれたな」

〔昼間?〕

 チェリーは即座にフィビーに絡んでいた男たちを思い出した。

「ああ、あのときのもてない男たちね。その様子じゃ、夜会のお相手も見つからず、寂しい夜を迎えたみたいね」

「なんだと」

 別の男の声が右手から聞こえてきた。

「先輩、知ってるんですか」

 一郎はささやくように話しかけた。

「昼間、フィビー姫にちょっかい出してた、もてない男の集まりよ」

 チェリーはわざと聞こえるように言い放った。

「なに」

 他の男たちも声をあげ、じりじりと包囲の輪を狭めてきた。

 もし、チェリーがいなければ一郎はとっくに逃げ出していた。

〔六人に囲まれてカツアゲなんかされたら、絶対謝って逃げてるだろうな〕

 だが、一郎は自分のルールに従ってチェリーを守ることを優先した。

「それで、華服を着ている今なら、襲いやすいと考えたわけ?」

 チェリーの言葉に男たちは応えなかった。

「ホント、馬鹿ねえ。六人来ようが、華服を着てようが、関係ないことを教えてあげようかしら」

 チェリーが一歩踏み出すと、男たちの足はぴたりと止まった。

 そのチェリーの目の前に一郎の背中が立ちはだかった。

「先輩が出るまでもありませんよ。ここは私にお任せ下さい」

 一郎の陽気な声が男たちの耳に障った。

「あ、そう。じゃ、任せるわ」

 チェリーは一歩下がった。

 一郎とチェリーの背後にはどこかの倉庫の高い壁があった。

 一郎の背中を見つめて、チェリーは少し不安を感じていた。この三ヶ月間修行をしてきたとはいえ、一郎が実戦でどの程度戦えるのかはチェリーには想像がつかなかった。

〔イチ・ローを信じてみよう〕

 その想いがチェリーの不安を打ち消した。

 一郎は拳法の構えを取った。

 男たちは一斉に身構えた。

 しばらく男たちと一郎との睨み合いが続いた。自信満々の一郎の態度に男たちは戸惑っていた。

 しびれを切らした男が一人、一郎に殴りかかった。

 それを紙一重で一郎がかわした。一郎は男の腕を弾いて、男の腹に自分の拳をたたき込んだ。

〔うまいじゃない〕

 チェリーは心の中で一郎に拍手を送った。

 一郎の拳を受けた男の顔が歪んだ。その顔がすぐに不敵な笑顔になったとき、チェリーは「まずい」と思った。

 男の残った手が一郎の顔面を押さえつけた。そして、体勢を立て直した男は、逆に一郎の腹に拳を叩き込んでいた。

「うっ」

 一郎が低くうめいて身を屈めたとき、男の蹴りが一郎の顔に命中した。

 一郎は男たちの中心に転がった。

「大したことないぞ。やっちまえ」

 男の声が他の男たちを勢いづかせた。

「おお」

「なんだ。格好だけか、こいつ」

 男たちはここぞとばかりに蹴りを入れた。

 ぐったりとなった一郎を、一人の男が襟をつかんで立たせた。

「残念だったな、色男さんよ。彼女の前でいいとこ、見せられなくて」

 男は一郎の顔面にパンチを一発食らわせ、そのままチェリーの前に放り投げた。

「イチ・ロー!」

 チェリーは思わず駆け寄って一郎の肩に手をかけた。

 荒い呼吸で地面に手を突きながらも一郎は笑顔を見せた。唇が切れたのか血が少し垂れていた。

「すみません。心配かけて」

 チェリーはキッと男たちを睨み据えた。

「おまえたち! 絶対、許さないよ」

 チェリーはスカートの裾に手をかけた。スカートを脱げば確かに足が自由になる。足が自由になればこんな男の六人ぐらいあっという間に倒せる自身がチェリーにはあった。

 しかし、スカートの下には白帯の下着しか着けていなかった。それがどんなに恥ずかしい格好かも判っていた。

 それでも、チェリーの怒りはすべてに勝っていた。

 そのチェリーの手を制止するように、一郎がチェリーの手を握った。

 チェリーは少し驚いた。一郎の表情に、である。

 額と頬が少し赤く腫れた顔で、一郎はまだ笑顔を浮かべていた。

「すみません、先輩。もう一度チャンスを下さい」

 一郎の手を握る力がわずかに強まった。

 そのとき、チェリーは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 チェリーが引き上げるまでもなく、一郎はすっと立ち上がった。

「わかったわ。でも、これが最後のチャンスよ」

 チェリーは笑顔を作ると、そう言い放って後ずさりした。

「任せて下さい。今度は手加減しませんから」

 一郎は男たちの方に向き直った。

「そういうわけだ。逃げるなら今のうちだぞ」

 再び自信満々の態度の一郎を男たちは鼻で笑った。

「何言ってんだ、色男さんよ」

「そんな虚仮威しはもう通じないんだよ」

「お兄さんこそ、さっさと逃げた方が利口だぜ」

 一郎は再び身構えた。

 左右から二人の男が同時に襲いかかった。

 そのとき、チェリーは獣のような素早さで反応する一郎を見た。先ほど垣間見せたよりさらに早く、一郎は左の男の顔面に拳を叩き込むと、返す刀で右から来る男の胸に肘打ちを突き刺した。

 二人の男は悲鳴を上げるまもなく、地面に倒れ込んだ。

「この野郎!」

 続けて一郎の正面から男がつかみかかってきた。

 伸ばしてきた男の両手を、一郎は両手ではじき飛ばすと、右足で男の腹を蹴りつけた。

「ぐっ」

 男は短く悲鳴を上げて、後ろにいる男にもたれかかった。その男を受け止めた男の目の前にはすでに一郎が迫っていた。仲間を抱えて避けようもなく、男はこめかみから目尻にかけて一郎の拳に殴りつけられた。仲間を抱えたまま男は気を失って倒れた。

 残った二人は自らの不利を感じ取った。一人は一郎に襲いかかり、もう一人はチェリーに襲いかかった。しかし、それは誤りだった。

 一郎はチェリーに襲いかかろうとした男に向かっていった。その男の襟首をつかんだとき、背後の男も一郎の背中をつかみかけていた。

 その背後の男の方が腹を抱えてうずくまった。一郎の後ろ蹴りが男の腹を捉えていた。

 一郎の蹴り足はそのまま目の前の男の足を引っかけた。男の指先がチェリーに届く寸前で、男はバランスを失った。

「く、くそっ」

 一郎はバランスを失ってふらついた男の体を、腰のあたりもつかんで百八十度反対の方向へ放り投げた。男は地面に倒れている仲間につまづいてその上に折り重なるように倒れた。

 一郎は倒れている男たちを見渡して言った。

「まだやるかい?」

 男たちはよろよろと立ち上がりながらも、一郎を睨む目にはまだ怒りがこもっていた。

「おい、やるぞ。今度は全員で一斉にかかるんだ」

 一人元気の残っている男が他の仲間を焚き付けていた。

 チェリーは一郎の傍らに立つと、背中をポンと軽くたたいた。

〔何かの合図かな〕

 一郎がちらりとチェリーを見ると、チェリーは勢いよく話し始めた。

「あなたたち、このイチ・ローの名前に心当たりはないの?」

 一郎の名前を知っている男が二、三人いて仲間たちに何かを耳打ちした。

「まさか、あの、王女様を助けて、猿人やサンドボーラーを倒した」

「まだこの国にいたんだ」

 マルカム王国で外国人は珍しくはないが、一郎のような日本人の顔立ちは一目ではっきりと外国人と判るものだった。

「そう、その、勇者イチ・ロー様がこちらの方よ」

 チェリーは威圧するように一歩前に歩み出た。

「さあ、どうするの。まだやるの? 今度は骨の二、三本は折れる覚悟でやるのね」

 一人、二人、男が後ずさりをしながら暗い夜道の中に消えていった。

 残った男たちもいなくなった仲間に気づいて顔を見合わせ、舌打ちだけを残してその場から消えていった。

 

         5,

 

 しばらく一郎は男たちの去った方向を見つめて立ちつくしていた。

 チェリーがぽんぽんと肩を軽く叩いた。

 一郎は不思議そうな表情でチェリーを見た。

「やったね」

 チェリーの明るい一言で、一郎はほっとため息をついた。

「ええ、そうですね」

 一郎の声には抑揚がなかった。

「どうしたのよ。今頃、緊張してきたの?」

「いえ、ちょっと、信じられなくて」

 チェリーが促すように一郎の手を引くと、一郎はゆっくり歩き出した。

「何が信じられないの?」

「元の世界にいた頃の僕は、もっと臆病で、女の子が男たちに絡まれても、見て見ぬフリをする卑怯な男だったんです」

「今は違うでしょ?」

 一郎はすぐに答えず、うつむいて歩いていた。数歩の間考え込んでいるようだった。

「もし、側に先輩がいなかったら、間違いなく逃げ出していましたよ」

「お姫様を助けたのは、イチ・ローの力じゃないの?」

「あれは、運が良かったんですよ」

「で、今のがあなたの本当の力というわけね」

「そうなのかなあ」

「そうよ。でも、最初にやられて見せたのは、力加減が分からなかったからなの?」

「ええ。まあ、相手に怪我をさせるのはやっぱり嫌ですから」

 一郎の元気のない声がチェリーは少し気になった。

 一郎の顔を覗き込むと、一郎は何かを悩んでいるように見えた。

 一郎はすぐに笑顔を作ろうとしたがぎこちない笑顔ができただけだった。

「なによ。もっと自身持ちなさいよ」

 チェリーはポンと、少し力を込めて一郎の背中を叩いた。

「そうですね。判りました、先輩」

 やっと一郎らしい笑顔が戻ってきた。

 チェリーは安心すると一郎の腕に自分の腕に巻き付けた。

「本当に、カッコよかったよ」

 チェリーは自分にだけ聞こえるようにつぶやいた。

 それが聞こえたのか、一郎はチェリーの耳元で静かにささやいた。

「先輩、今夜は特に綺麗でしたよ」

 それはチェリーの心臓をギュッと握るような一言だった。

「や、やめてよ。耳がくすぐったいじゃない」

 チェリーは顔を赤くしながら片方の耳を押さえた。

 一郎が笑ったのが判った。

 チェリーも笑顔を作ったが、鼓動は喉から飛び出しそうなほど激しく鳴っていた。

〔ずっと、こうしていたいな。ずっと側にいて欲しい〕

 そう、チェリーは思った。

 その傍らで、一郎は全く別のことを考えていた。

〔そろそろ、潮時か〕

 

         6,

 

 一郎とチェリーが戻った道場の玄関にはカンボジの置き手紙が貼ってあった。

「お城の宴会に出かける。今夜は帰らない。ですって」

 チェリーはその手紙を剥がして一郎に渡した。

〔なるほど。これが宴会という単語の綴りか〕

 一郎は手紙を見て、別の部分で納得していた。

 道場に入るとチェリーは一郎から腕を離した。

「それじゃあ、もう遅いし、寝ましょうか」

 そう言ったのは一郎だった。

「怪我はもういいの?」

「もう、なんともないですよ」

「そう」

 チェリーの眼差しが熱いものに変わった。

 じっと見つめるチェリーから一郎も視線が避けられないでいた。

「どうしたんですか?」

 一郎の問いに答えるまで、チェリーはしばらく時間を要した。意を決して出た言葉は、穏やかでややぎこちなかった。

「着替え、手伝ってくれる?」

 チェリーは身を翻して自分の部屋に向かった。一郎の返事を聞こうともしなかった。

 仕方なく一郎はチェリーのあとを歩いた。

 チェリーは自分の部屋のドアを開け、一郎を招じ入れた。

 そのあと、チェリーは後ろ手にドアを閉めた。チェリーはドアの脇のランプを点けた。一郎は部屋の中央のランプを点け、チェリーの方を振り向いた。

 チェリーは恥ずかしそうに微笑みながら、一郎を見つめていた。

〔なんだか、艶っぽいな〕

 一郎は普段とは違い艶めかしさを感じさせるチェリーをどう扱っていいのか判らなかった。

「イチ・ロー」

 ランプの明かりで、口紅の色が少しくすんで見えた。それでいて濡れたように光っているのがまた、一郎をドキリとさせた。

 チェリーは下の方で手を重ね合わせるようにした。

「いえ、イチ・ロー様。本日は不束なこの身をよろしくお導き下さいまして、厚くお礼申し上げます」

 そう言って、チェリーは深く一礼した。

 一郎はどう答えていいか判らなかった。正確には夜会のしきたりが判らなかったのだ。

「いえ、こちらこそ、その、ありがとうございました」

 一郎の言葉にチェリーは内心がっかりした。

〔やっぱり、夜会のしきたりを最後までは知らないのね〕

 少し考えてから、チェリーは話しかけた。

「イチ・ロー、夜会はまだ終わってないのよ」

 顔を上げたチェリーは少し戸惑ったような表情をしていた。

「えっ」

 一郎も少し戸惑った。

 少しためらいがちにチェリーは言葉を続けた。

「踊り、終わったあと、男は、女の子の部屋へ行って、女の子を好きにしていいの」

 一郎は言葉が出なくなった。これを冗談ですませていいのか、本気と受け取っていいのかしばらく悩んだ。

〔そう言えば、おじいちゃんが言ってたな〕

 一郎は一郎の祖父の言葉を思い出した。

〔盆踊りが終わったあと、女の子の家に行って夜這いをかけたことがあるって。こういうことだったのか〕

 沈黙の時が流れた。

「なーんてね」

 チェリーが沈黙を破った。

 いたずらっぽく笑って、少し舌を出すと、「やっぱり、イチ・ローは引っかからないわね」

 と、チェリーは肩をすくめた。

 チェリーは歩き出して一郎の脇を通り抜けた。

 涼しい顔をしたチェリーを一郎は視線で追いかけた。そして、チェリーがタンスからハンガーを二本出したのを見て、ほっとした。

「やっぱり、冗談だったんですか」

「着替えは、手伝ってよ」

「はい、分かりました」

 チェリーはスカートの裾に手をかけ布を留めていたボタンを外した。続けて腰の留め金も外すと、足を二重に巻いていた布がはらりと落ちた。

 一郎は思わず目を剥いた。

 チェリーが脱いだスカートの下は、例の褌に似た白い帯だけだった。それ以外の白い肌がまぶしいほど一郎の目に焼き付いた。

 それに武術の修行で引き締まった下半身はすらりとした長い足を見せていた。

 一郎は初めてチェリーに会ったときのことを思い出した。あのときは一瞬のことで一郎も曖昧な記憶しかなかったが、今度は鮮明な記憶として残りそうだった。

 一郎に見られていることなどお構いなしに、チェリーはスカートを畳んでハンガーに掛けた。そして、一郎に背を向けると華服の襟をかき上げた。

「一郎、ちょっと見てくれる」

 一郎は心臓が激しく動くのを必死に押さえつつ、視線をチェリーの背中に向けた。時々視線は剥き出しになった白い足に向けられた。

 華服の背中の部分は、紐で編み上げるように閉じられていた。

〔これは、コルセットだったのか〕

「その、紐をほどいてくれる?」

「あ、はい」

 一郎は蝶結びに結ばれた紐をほどいた。ほどき終わったとき一郎は思わずため息をもらした。

 チェリーが少し怒ったように声をかけた。

「だめよ。全部外してくれないと」

「あ、はい」

 一郎は深呼吸して紐を上からほぐしていった。編んであった紐を取り除くと、一筋の白い肌が見えた。首筋から腰にかけて引かれたまっすぐな一本の白い線は、華服の下に何も着けていないことを物語っていた。

 想像した一郎は頭に血が上ったのを自覚した。思わず一郎は後ろを振り向いた。

 その直後にチェリーが声をかけた。

「少し、後ろ向いててくれる? 『いい』って言うまでこっち向かないでよ」

「あ、はい」

 一郎の返事が少し曇った声だったので、チェリーは少し肩越しに振り返ってみた。

 一郎はドアの方を向いて、チェリーには背中を向けていた。

 チェリーは華服の上着の部分を脱いでハンガーに掛けた。この瞬間、チェリーの身体は白帯以外は何も着けていない状態になった。

 チェリーはもう一度、一郎の方を振り向いた。もし、一郎も振り向いたら、そのときは一郎に自分のすべてを委ねる覚悟ができていた。

 不思議な沈黙の時間が流れた。チェリー自身も一週間前までは想像も付かないことだった。誰か一人の男を想って熱い視線を送るとは。

 ほんの一分か二分のことだったが、チェリーはあきらめてタンスから服を取り出して着た。髪留めを外し、軽く髪にブラシを入れ、鏡を覗いた。

「よし」

 チェリーは小さく声を出すと、一郎に合図した。

「いいわよ。こっちを向いて」

 チェリーは一郎の驚く顔を期待した。

 一郎はチェリーの合図があるまでずっと背中にのしかかる重圧と戦っていた。

 やっとその重圧から解放されたと思って振り向いた一郎は別人がそこに立っているような錯覚をした。

 いつものように髪を纏めることを止め、意外にクセの少ない髪が綺麗に腰のあたりまで流れていた。着ているものもいつもの稽古着ではなく、ごく普通の女の子が着るようなワンピースだった。

 華服のときとはまた違った可憐な印象を受けた。

 チェリーは軽く体を動かして、一郎に全身が見えるようにした。

「どうかしら?」

 一郎は思ったままを口にした。

「かわいいよ」

「それだけ?」

「もちろん、綺麗ですよ」

「よかった」

 チェリーは一郎に歩み寄ると両手を握った。

 チェリーの見上げる目が、せっかく収まった一郎の心臓を再び活性化させた。

「今日は、本当にありがとうね」

「いいえ、先輩のお役に立てれば十分です」

「先輩は、もう止めてくれる? あなた、やっぱり年上のことだけはあるもの」

「では、なんと呼べばいいんです」

「呼び捨てで、いいわ。それと、もうあたしには丁寧に言う必要はないからね」

「じゃ、今からそうしますよ」

 チェリーはこくりと頷いてまた一郎を見上げた。その目に光るものがあった。

 一郎はあわてた。

「どうしたんです」

 チェリーはゆっくりと笑顔を作った。

「うれしいの」

 そのとたん、チェリーの目から涙がこぼれた。

「なにが」

「嘘をついたあたしでも、一郎が側にいてくれたから。普通の女の子と同じ夢をあたしも見られるって解ったから」

 一郎はそのセリフを少し大げさだと思っていた。しばらく経ってから一郎はその意味を知ることになった。

「先輩、じゃなかった、チェリーは最初から女の子だったよ。初めて会ったときから美人でかわいい子だって思ってたよ」

「ありがとう」

 チェリーは軽く顔を上げると目を閉じて待った。

 一郎はその動作の意味を悟って慌てた。しかし、手首をチェリーにしっかりと握られて一郎は逃げられなくなっていることを知った。

 チェリーはじっと身動き一つせずただ待っていた。

 チェリーの頬にまだ落ちずに残っている涙を見たとき、一郎はおぼろげながら自分の立場を自覚した。

 一郎はその涙に口づけをした。

 一郎の唇を頬に感じたときチェリーは嬉しさと同時に悔しさも感じた。思わず言葉が出た。

「お姫様は唇で、あたしはほっぺたなの?」

 一郎を一にらみすると、チェリーはもう一度目を閉じた。今度は少し唇を突き出すようにして。

〔仕方ないか〕

 一郎はややあきらめたようにチェリーに顔を近づけていった。

 一郎の唇が自分の唇と重なった瞬間、チェリーは一郎の背中に手を回した。

 唇が離れると、チェリーはそのまま一郎の胸に顔を埋めた。

「お願い。あと少し、このままでいさせて」

「チェリー?」

「明日からは、また、いつものあたしに戻るから」

 そう言って、チェリーは一郎の胸の中で嗚咽を漏らしていた。

 チェリーの身体からはまだラベンダーの香りがほのかに漂ってきていた。

 一郎は軽くチェリーの背中に手を添えた。

 そのまま、小一時間ほど、チェリーは一郎の胸にしがみついていた。

 

         ○

 

 そのあと、一郎が部屋を出ていくとき、チェリーは笑顔を作って「おやすみ」と言うことができた。

 しかし、チェリーの身体は夜会の興奮がなかなか冷めないようだった。眠っている間、チェリーは何度も寝返りをうった。

 一郎もいろいろとあった一日に、すぐには寝付けないでいた。まさか、一日に二人の女の子とキスができるなどとは、元の世界にいたときには想像を絶することだった。

 さらに、チェリーは、普段からは想像もできないほど女の子らしい一面を見せた。

 一郎は自分がこの世界に深く関わりすぎていることを自覚した。

 


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