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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。


「ワールド マスター 1  〜 マルカム王国編 〜」

ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)


 第九章 「収穫祭」

 

         〇

 

 このマルカム王国にも、紙や本は存在している。印刷は江戸時代さながらの木版印刷だった。

 一郎は会話に困ったことはなかったが、文字が読めないのが辛かった。

 会話が一種のテレパシーのようなものだと気づいたのは文字を見たからだった。

 一郎は日本語の文法で会話をしているが、本の中の文章は英語かフランス語を思わせるモノがあった。

 文字も英語のような表音文字の組み合わせだったが、ハングル文字とローマ字の中間をいく趣があった。

 それでも、いくつかの単語の意味を一郎は覚えていった。発音は、油断していると頭の中で勝手に翻訳されてしまうので、集中して聞かなければわからなかった。

 

         1,

 

 夏の終わりの八月のさらに終わりのころ、いつもの料理教室は「収穫祭」の話題で盛り上がっていた。正確には収穫祭の最後の日に行われる「夜会」と呼ばれる若い男女のダンスパーティーが話題の中心になっていた。

 最初に切り出したのは、ソラーだった

「みんな、今年も夜会に出るの?」

「わたしは、また、コウランと踊るわ」

「いいわねえ、レイカーは幼なじみがいて」

 チェリーはいつものように包丁でまな板を叩き、三人の会話を打ち切ろうとした。

「はいはい、みんな、おしゃべりはそれぐらいにして。ちゃんと見てないとまた鍋を焦がすわよ」

 ファレーは不思議そうにチェリーの顔を見つめた。

「どうしたの、ファレー?」

 チェリーは普通に反応していたつもりだった。

「チェリーって、雰囲気変わったわ」

 ソラーは「うんうん」と頷いた。

「なんて言うか、丸くなったというか、柔らかくなったというか」

「やっぱり、イチ・ロー様のおかげかしら」

「レイカーも、よしなさい」

「ムキになるところが怪しいのよね」

 レイカーはチェリーの反応に意味深な笑みを浮かべた。

「チェリーも、今年こそは夜会に出るんでしょう?」

 ファレーは期待に満ちた目でチェリーを見つめていた。

「え、そうなの?」

「お相手は誰かしら、って、聞くのは野暮よね」

「それはもう、チェリーのお相手がつとまるのは、この世でただ一人、勇者イチ・ロー様しかいないわよ」

「まあ、羨ましい。あの勇者様と踊れるなら、わたし、あとの一生は全部捧げますわ」

 三人が同時にしゃべり出すと止まらなくなりそうだった。

 チェリーは思わず大声を上げた。

「ちょっと! いい加減にしてよ!」

 このときレイカーは、チェリーの怒った顔を見るのが実に二ヶ月ぶりだということに気づいた。

 三人は久しぶりのチェリーの怒りに首をすくめた。

 チェリーは三人がひるんだのを見て少し語調を和らげた。

「今年も出るつもりはありませんから」

「だから、どうして出ないの? チェリーが出るって言ったら、男の子がわっと集まってきそうな気がするんだけど」

「そうよ。悔しいけど四人の中では、チェリーが一番美人なんだから」

「ちなみに二番目はわたしね」

「ファレー、何、図々しいこと言ってるのよ」

 レイカーがつっこみを入れた。

 チェリーはもう一度大声を出した。

「いいかしら? このあたしと踊ろうなんて命知らずがこの町にいると思う?」

「イチ・ロー様がいるじゃない」

 レイカーの何気ない一言がチェリーをぐっと詰まらせた。

「あたし、実は、華服(はなふく)、持ってないのよね」

 華服とは、夜会専用の女性の衣装である。

「ふーん、そうだったの」

「じゃあさ、華服があって、イチ・ロー様が誘ってくれたら、出るの?」

 ソラーの言葉にチェリーはまたしても詰まった。

「チェリーだって、女の子なんだから、一度は出たいわよね」

 ファレーの一言がチェリーの心をくすぐった。

「それは、‥‥」

〔そうだけど〕

 飲み込んだ言葉はチェリーの心を重くした。

 

         2,

 

 道場で一郎の稽古が終わった。

「ありがとうございました」

 息を切らしながら、吐き出すような言葉に熱が込められていた。

 一郎の顔からぽたぽたと汗がしたたり落ちた。

 対するカンボジは汗もかいていなければ息も切らしておらず、ただにっこりとうなずいて微笑むだけだった。

 カンボジは黙って道場を出ると、奥の扉を開けて消えていった。

 扉が閉まる音とともに一郎はがっくりと膝を付いた。

〔やはり、ただの爺さんではなかった〕

 一郎はそのまま尻を降ろすと、後ろへばたりと倒れた。

 一郎は寝ころびながら息を整えていった。

 そのとき、入り口の方から声が聞こえた。

「イチ・ローさん、いらっしゃいますか。お手紙が届いてます」

 この国に郵便制度はなかった。誰かが誰かに手紙の配達を頼むだけだった。

「はーい」

 一郎は一回深呼吸するとむっくり立ち上がった。そして、もう一度息を整えると入り口に向かって歩いた。

 

         〇

 

 料理教室が終わったチェリーは自分の部屋に戻った。

 そこにカンボジが立っていた。

「おじいちゃん、何してるの」

「おまえにいいものを見せてやろうと思って待っておったんじゃ」

「稽古は? もう終わったの?」

「ああ。それより、チェリー、これを見てごらん」

 カンボジは壁に掛かった衣装を指差した。

 チェリーは思わず目を見張った。

 そこにあるのはまさしく華服だった。知らない人が見れば巨大な菖蒲の花に見えたことだろう。その花のようなデザインからも「華服」と呼ばれていたのである。

「おじいちゃん、まさか、これ」

 チェリーは壁に掛けられた衣装の前に立った。

「もちろん、おまえの華服じゃ。正しくは、おまえの母が着ていたものじゃ」

 チェリーは驚いてカンボジを振り返った。

「お母さんの」

「おまえの母、ジェニーが死ぬ一週間前に、ここへ送ってきたのじゃ」

「そう。だから、おじいちゃん、お母さんの死に目に来ることができたのね」

「ああ、五年も音信がなかったのに、久しぶりに届いた手紙がなにやら遺言めいておってな。この華服と一緒に届けられて、慌てて駆けつけたが、時すでに遅し、じゃった」

「お母さん、あたしが何度も、おじいちゃんのところへ行こうって言ったのに、『おじいちゃんに迷惑がかかるから』って、きつくて汚い仕事ばかりして、体壊して」

「身分を隠して働いておったんじゃ。まともな仕事はもらえないじゃろうからな」

「なのに、男たちはお母さんの弱みにつけ込んで、きつくて、汚くて、恥ずかしい仕事ばかり押しつける。だから、嫌いよ。そんな男と一緒に踊る『夜会』なんて、いや」

「『夜会』はそう言う意味ではないぞ。親たちには、自分の娘や息子がどんなに立派に育ったか、他の人に見せてやりたいという意味があるんじゃ。この華服をよく見るんじゃ」

 カンボジは華服の腰のあたり手にとって見せた。

「ここは、ほかのところと違って、縫い目が新しいじゃろう。おまえのためにジェニーが縫いなおしておいたのじゃ」

「お母さんが」

「男嫌いのおまえも今年は、夜会に出る気になったじゃろ」

「でも、今年じゃなくても」

「来年になれば、イチ・ローはおらんぞ」

「えっ? 普通、修行って三年から四年かかるんじゃ。リーアン王子だって三年かかったのに」

「一人前の戦士にするなら、そのとおりじゃ。だが、イチ・ローは故郷へ帰るまでの間の身を守る手段が欲しいだけなのじゃ」

〔イチ・ローがいなくなる。来年になる前に〕

「チェリー、あとはおまえが考えることじゃ。ジェニーの心を無駄にしないようにな」

 カンボジはチェリーの肩をぽんと叩くと、静かに部屋を出ていった。

 チェリーは壁の華服にそっと触れてみた。

〔やわらかい。それに、どこも傷んでない〕

 顔を近づけてみるとかすかに花の香りがした。

〔ありがとう。お母さん〕

 意を決してチェリーは道場に向かった。

 

         3,

 

 チェリーが道場に入ると、真ん中で座り込んでいる一郎の姿が目に入った。

 料理教室の三人やカンボジが言うように、男の順位を付けるとしたら、一郎が一番なのかもしれない。

 だが、チェリーには一郎を男の範疇に入れるのがなんだか不思議な気がした。この二ヶ月の間、一郎には料理のことでいろいろとアドバイスを受けていたからだ。

「イチ・ロー」

 振り向いた一郎はチェリーに向かってニッコリと微笑んだ。

 釣られてチェリーも笑顔を見せた。

「先輩、いいところへ」

「なに?」

 一郎は手紙を手に持っていた。

「読んでもらえますか? わからない単語が多くて」

「ああ、いいわよ」

 チェリーは一郎から手紙を受け取った。

「珍しいわね、一郎に手紙なんて。誰からかしら? ああ、お姫様ね」

 チェリーは素早く目を通した。

「フィビー姫から? なんだろう」

 チェリーの顔が一瞬曇った。手紙の前半はフィビーの近況報告だった。後半に収穫祭のことが書いてあった。

〔八月三十日、正午に中央広場の噴水の前で待ってます。って、夜会の日じゃないの〕

 チェリーは考えた。もし、このまま正直に読み上げたら、一郎はフィビーとの約束の方を優先させてしまうかもしれない。おそらくお城では収穫祭の宴会を予定しているのだろう。そうなったら、一郎は夜会には出られなくなるだろう。

「なんて書いてあるんです、先輩」

「前半は近況報告ね。『毎日暑い日が続きますがお元気ですか。わたしは今、母から神聖魔法の指導を受けています。この間、やっと治癒魔法の一部が成功しました』ですって」

「へえ、がんばってるなあ」

「後半は、収穫祭のことよ。『毎年八月終わりになるとこの国で一番のお祭り、収穫祭が行われます。イチ・ロー様もこの国一番のお祭りをゆっくりお楽しみ下さい』ですって」

 チェリーは素早く手紙を半分に折り畳むと、一郎に返した。

「イチ・ロー、お願いがあるんだけど」

 チェリーは努めて平静を装った。

「なんですか」

「今度の収穫祭の最後の日、八月三十日なんだけど、予定空けといてくれる?」

「ええ、いいですよ。と言っても、修行しか予定にないですけど」

「おじいちゃんにはあたしから話しておくから」

 チェリーは心の中で「やった」と歓声を上げると同時に、何か黒い固まりが心のすみに生まれたような気がした。

 チェリーは慌てずゆっくり立ち上がった。変にそわそわとして一郎に気づかれたくなかったのだ。

「先輩、一つ、質問していいですか」

 チェリーは思わず体をビクッと震わせた。

「なに?」

 チェリーはこの瞬間、夜会のことをあきらめかけた。一郎に手紙の内容を詳しく追求されたら、フィビーの誘いの件を話さなければならなくなるからだった。

 チェリーは頭の中でどうやって一郎に言い訳しようかを考えていた。

 ところが、一郎の質問は全く別のものだった。

「この手紙の最後に、一言だけ、『旅』って書いてあるのはなぜですか」

 一郎が指し示したところには確かに「旅」と書いてあった。だが、そこは署名する場所だった。

 チェリーは初め安心して、そのあと呆れた。

「手紙の最後に書くのは、差し出した人の名前よ。フィビー姫のことでしょ?」

「え? フィビーって、『旅』という意味だったんですか」

「そういうことよ」

「じゃ、先輩の名前も何か意味があるんですか」

「あたしの場合は、泉、もしくは湧き水よ」

 チェリーはゆっくりと歩き出した。

「先輩」

 一郎に呼び止められてもチェリーは振り向かなかった。

「なあに? 夕食の準備があるんだけど」

「あとで、手紙の返事書くの手伝ってもらえますか」

「いいわよ」

 チェリーは言い終えてから少し足早に道場を去った。

 道場に残された一郎は、手紙をもう一度読み返していた。

 その日の夕食が終わったあと、一郎は、チェリーに代筆をしてもらい、手紙の返事を書いた。

 最初、一郎は自分で書くと言ったが、

「あんたの下手な字で、お姫様が読んでくれると思うの?」

と、チェリーに指摘され、代筆を頼むことになった。

 一郎は手紙の内容に合わせて、近況報告だけを書いた。

 手紙を人づてに頼む直前に、チェリーは一郎に内緒で一行書き加えた。

「追伸、八月三十日の件、お約束できません」

 書き終えたあと、チェリーは自分の中の狡猾な面を知って、沈んだ気持ちになるのと同時に、新しい自分を発見したような気がした。

 

         〇

 

 チェリーは一郎をどうやってその気にさせるかで悩んでいた。

 夜会のしきたりでは、男の方が女に贈り物をして誘って出かけるのが普通だった。だが、一郎はこうしたしきたりを知っているようには思えなかった。

 チェリーはカンボジに頼んで、遠回しに八月三十日に予定を空けさせた意味を一郎に理解させた。

 あとは、一郎の衣装の手配と、一郎がチェリーに贈る贈り物を購入しておくことだった。

 しかし、一郎が贈り物を買うほどお金を稼いでいるとはとても思えなかった。

 確かに、日課の薪割りでいくらかのお金は手にしているが、食費で全部なくなってしまうのが実状だった。

 チェリーは自分の貯えを確認した。二年間料理教室を開いて、いつか自分で料理屋を始めようと思って貯め続けたお金だった。

 とりあえず自分で買って、形だけ一郎が贈ったことにすればいい、とチェリーは考えていた。

 後ろめたさも含めて、チェリーはフィビーの手紙の件を忘れかけていた。

 そして、日付は、運命の八月三十日になった。

 

         4,

 

 チェリーは祭りで賑わう中央通りを走っていた。収穫祭の最終日とあって、人出は最高潮に達していた。天気も良く、もうじき秋だというのに残暑が厳しくなりそうだった。

 前日までに、チェリーはめぼしい首飾りを宝石屋で見つけていた。しかし、お金がわずかに足りず、チェリーは窮余の手段で料理教室の月謝の滞納分を徴収する事を思いついた。

 滞納といってもわずか三日のことだったが、請求された方は少し驚きつつも、チェリーにお金を渡した。

 そろったお金を持って、チェリーは中央通りを駆け抜けた。

 中央通りの真ん中、中央広場の噴水の脇を通り過ぎたとき、一人だけ日除け笠をかぶった女性が噴水の側に立っていた。

〔まさか、フィビー姫? でも、まだ〕

 チェリーは噴水の中央に建つ時計塔を見た。時間はまだ、正午の五分前だった。

 笠の周りを薄いベールが覆っていたので顔はよく判らなかった。

 チェリーは気を取り直して、宝石屋に急いだ。

 だが、宝石屋にあるはずの目的の首飾りは消えていた。

「どういうこと?」

 チェリーは店主に詰め寄った。

「ついさっき売れたんだよ。若い男のお客様が見えてね」

「あたし、昨日、言ったはずよ! 今日、必ず、お金を持ってくるから、取っておいてって」

「わたしも昨日言いましたよ。お買いになる人がいなければ、ってね」

 店主の浮かべた笑みは、チェリーの癇に障った。

 チェリーがにらみ返すと、店主は慌てず応対した。

「お嬢さん、他にも立派な首飾りはいくつもございますよ。そちらをご覧になってはいかがでしょう」

 店主は手のひらで指し示したが、それはどれもチェリーの予算を軽く越えていた。他に安いものもあったが、夜会に着けていくにはどうしても見劣りするものばかりだった。

「ふん」

 チェリーは吐き捨てるように言うと、店を飛び出した。

 店の扉が閉まる瞬間、店主の「貧乏人」という言葉がチェリーの背中に投げつけられたような気がした。

 悔しさより、チェリーの中で何かが急速にしぼんでいく感じの方が大きかった。

〔あたし、何、してるんだろ?〕

 チェリーは少し歩いて空いたベンチの上に腰を下ろした。

〔馬鹿みたい。夜会、夜会、って大騒ぎして。綺麗な服着て、男と踊るだけのことじゃない〕

 チェリーは立ち売りをしているかき氷を買った。そして、半ばやけ気味にスプーンを使わず、器から口の中に流し込んだ。

〔別に今年じゃなくても、イチ・ローがいないだけで〕

 一郎の顔が胸の中に浮かんだ。

〔あいつ以上の男なんて、現れるんだろうか〕

 チェリーは今日これからのことを考え直した。

〔イチ・ローだって今頃、あたしのために今日の予定を空けてくれたんだから〕

 一郎が待っていることを思いだし、チェリーは腰を上げた。

 そして、噴水の時計台を見た。

〔やだ。もう一時を回ってるじゃない。早く帰って夜会の準備、しなくちゃ〕

 そのとき、若い男女の言い争う声が聞こえた。

 

         5,

 

 チェリーが見つけたのはさっきのベール付きの笠をかぶった女性だった。服装は至ってシンプルな黄色いワンピースだったが、日焼けを配慮した白い手袋と白いタイツが、上流階級を思わせた。

 その彼女を三人の男が取り囲んでいた。

「なあ、せっかくのお祭りにさあ、そんなつれないこと言わないで、俺たちと遊ぼうぜ」

「お断りします。わたしは、人と待ち合わせているんです」

「そんなこと言って、もう三十分も待ってるのに、現れないぜ」

「お姉さん、振られたんじゃないの?」

「そんな冷たい男のことは忘れて、俺たちがいいところに連れてってやるって」

 周りの人間は無関心を装っていた。

〔この暑いのに、腹立つわね〕

 チェリーは手に持ったかき氷の器を男の一人に投げつけた。

 それは見事に男の横顔に命中した。

「いて。だれだ?!」

「これであんたも冷たい男の仲間入りね」

 チェリーは不敵な笑いを浮かべて一歩前に歩み出た。

「なんだよ。あんたも遊んで欲しいのか?」

 そう言ってチェリーの前に歩み出た男はチェリーよりもはるかに背丈が高かった。

 チェリーは目の前の男を上から下まで眺めた。

〔ただのでくの坊が〕

 チェリーの右足が一陣の風を起こした。

 風はチェリーの目の前の男を地面に叩きつけた。

「でっ」

 かき氷をぶつけられた男がチェリーにつかみかかった。

「この女!」

 その男の手をかいくぐって、チェリーの肘うちが男の鳩尾に決まった。そのまま、掌底が男の顎を突き上げた。

「がっ!」

 男は顎を押さえてうずくまった。

 残った男が拳をチェリーに突き出した。

 それを風のようにかわし、チェリーは男の腕を持つと一本背負いを決めた。男の体は石畳の上に叩きつけられたが、男は悲鳴を上げるまもなくさらに手をねじりあげられた。

「痛い! 痛いよう」

「ふん」

 チェリーは軽く鼻で笑うと男の手を放した。

 三人の男は、周囲の失笑を買ったのを悟って、その場を逃げ出した。その際に、「覚えてろ」の捨てぜりふは忘れなかった。

 絡まれていた女性は、かぶっていた笠を外すとチェリーに一礼した。

「ありがとうございます、チェリーさん」

 その女性の顔は紛れもなく、フィビーだった。

「な、どうして、あなたがここにいるの?」

 チェリーは驚きのあまり目を見開いた。敬語を使うのも忘れていた。

「イチ・ロー様を待っているんです」

 フィビーは当たり前のように微笑んで言った。

「でも、イチ・ローの返事は、確か『約束できない』って、書いたんじゃ」

「ええ、よくご存知ですね」

「ご存知も何も、あれはあたしが代筆したのよ、全部」

「まあ、そうだったんですか」

 フィビーは噴水の縁に腰を下ろすと、笠を膝の上に置いた。

 続いてチェリーはフィビーの隣に腰を下ろした。

「約束できないけど、必ず行く。そう言う意味だと思って、待ってたんです」

 フィビーはぽつりと言った。

「そんな。普通、『約束できない』って言ったら、来れないのと同じじゃないの?」

「でも、わたし、今日一日しかお休みもらえなかったから、お城にいてもつまらないし、もしかしたら、イチ・ロー様が来てくれるかもしれない」

〔来るわけないじゃない、あたしが握りつぶしたんだから〕

「こうやって、イチ・ロー様が来るのを待ちながら、祭りの景色を眺めて、一日が終わってもいいの。自分が自分らしく生きることができた特別な日だと思えるから」

〔なんて脳天気なお姫様なの〕

「でも、本当は、イチ・ロー様が来てくれそうな気がしてるの。イチ・ロー様、優しいから、どんなに忙しくても、お顔を見せてくれそうな、そんな気がするのよ」

〔おまけに、恋人でもないくせに、のろけちゃって〕

 チェリーの胸の奥にあった、黒い固まりが少し膨らんだ。

「あんな男のどこがいいのよ」

 チェリーは吐き捨てるように言った。

 フィビーは少し不思議そうにチェリーの顔を覗き込んだ。

「この間も言ったけど、男の本質は、スケベで変態なんだから」

 フィビーの視線をチェリーは伏し目がちに避けた。

「この間なんて、あたしが薬を飲んで動けないことをいいことに、あたしの体に触ってきたのよ。もちろん、あとで、蹴飛ばして懲らしめてやったけど」

 フィビーの視線は変わらなかった。

「だから、あなたもあんな男のことは、いい加減忘れて」

「なぜ、嘘をつくの」

 フィビーの言葉にチェリーは内心の動揺を必至に隠そうとした。

「あたしの言うことが嘘だって言うの?」

「だって、あなたの言葉は、この間のような重みも心もこもってないもの」

 チェリーは言葉に詰まった。適当に誤魔化して、フィビーを置き去りにしてもよかった。待ちぼうけを食らって寂しい思いをするのはフィビーの責任なのだ。

〔だけど、その原因を作ったのはあたしなのに〕

 チェリーはしばらく押し黙ったまま、考え込んだ。

 フィビーは視線を空へ投げた。

「イチ・ローは来ないわよ」

 チェリーの言葉にフィビーは視線を戻した。

「修行がお忙しいのかしら」

「あなたが正しいのよ。もし、知ってたら、イチ・ローがここに来ないはず、ないもの」

「え」

 フィビーはチェリーの言葉がわからないかのように首を傾げた。

「わからない? あたしが嘘をついたから、イチ・ローはここに来れないのよ」

 チェリーは得意げに笑みを浮かべて、続けた。

「あなたの手紙、イチ・ローは言葉が判らなくて読めなかった。だから、代わりにあたしが読んであげたの。あなたがここで待ってることを除いて、ね」

 そのときのフィビーの驚きの表情が、チェリーはなぜか気持ちよかった。同時に胸の奥の黒い固まりがどんどん膨らみ始めた。

「どうして」

「あたしも、イチ・ローが、必要だったの」

「なぜ」

「あたし、最初で最後の夜会に出るの。あたしの相手に一番ふさわしいのはイチ・ローしかいない。だから、あなたの手紙は邪魔だったの」

 言い放ったチェリーの心の中は黒い固まりで張り裂けそうだった。しかし、チェリーはフィビーに勝ち誇ったような笑顔を見せた。

 それはフィビーには強烈な悪意の放射に見えた。

 それを浴びたフィビーは悲しみや悔しさより、気持ち悪さが先に立った。

「チェリー、あなた、自分が何をしてるか判ってるの?」

 フィビーの震えた声がチェリーの胸を締め上げた。

「判ってるわよ!」

 チェリーは自分の胸の中で膨らんだ黒い固まり、悪意を自覚していた。それが気持ち悪くて、チェリーは口から吐き出したかった。

 フィビーは力なく首を振った。

「どうして、イチ・ロー様を信じなかったの?」

 フィビーの言葉がチェリーの黒い固まりに突き刺さった。

〔えっ?〕

「イチ・ロー様なら、わたしたちを等しく扱って下さるわ。手紙を読んだあとでも、あなたが夜会に一緒に出たいと言ったら、頷いて下さったはずよ」

 それはフィビーにとって真理だった。同様にチェリーにとっても真理であることを、チェリー自身、自覚した。

〔そうだ。その通りだわ。なぜ、気づかなかったのかしら〕

「でも、お城で宴会があれば、イチ・ローは呼ばれるんじゃないの?」

「わたし、そんなこと、手紙に書いてません。それに、母との約束で、日没までのお休みしかいただいてないんです」

 それを聞いた瞬間、チェリーの心の中にあった、黒い固まりは雲散霧消していた。

「それ、本当?」

 悪意の放射から解放されたフィビーは、ほっと小さく息をもらした。フィビーの目にいつものチェリーの顔が映っていた。

「わたしは嘘は申しません」

 言い終えたあとでフィビーは嫌味に聞こえるかもしれないと少し恥じた。

 チェリーは自分が余計なことまで心配していたことを知って、自分の頭の中を整理しようとした。フィビーの言葉は耳に入っていなかった。

〔あたしの思い過ごしだったんだ。夜会のことで頭が一杯で、自分のことしか考えられなくなっていたんだわ。それで、お姫様の手紙を見たとき、あたし、不安になったのよ〕

 チェリーは自分のしてきたことを自覚して羞恥に目覚めた。

「ごめんなさい」

 チェリーはすっと立ち上がった。

「本当にごめんなさい。待ってて、お姫様。イチ・ローを呼んでくるわ」

 フィビーはチェリーの手を握って動きを止めた。

 驚いて振り返ったチェリーに、フィビーは静かに首を振って見せた。

「どうして、止めるの?」

「止めはしないわ。でも、わたしの手紙のことは、内緒にして。あなたはここで偶然わたしを見かけて、イチ・ロー様を呼びに行くことにするの」

「何言ってるの」

「そうしないと、あなた、今度こそ、夜会に行けなくなるわよ」

〔そうかもしれない〕

 チェリーは内心、頷いた。本当のことを話したら、普段温厚な一郎でも怒り出すのは目に見えていた。

 しかし、そのあとフィビーに向かって頷いたのは、「それでも構わない」という意志表示だった。

 チェリーはフィビーの手をふりほどいて駆け出した。

 祭りの人混みの中に消えていくチェリーを見て、フィビーは少し心配になった。チェリーが嘘を重ねられるように見えなかったからだった。

 それから、フィビーはこの人込みの向こうから一郎が現れるのを待った。心の中は次第に一郎への気持ちが膨らんで、心臓が動きを早めていた。

 

         6,

 

 チェリーは大急ぎで道場に戻った。

 暑さは気にならない。道場へ着いたときどっと汗が噴き出したが、それも今は関係なかった。

〔イチ・ローに本当のことを、言わなくちゃ〕

 それは初め、首飾りが手に入らなくて自棄になった気持ちから起きた。今は、フィビーに情けをかけられた悔しさから起きた気持ちだった。

 チェリーは一郎の姿を求めて道場、一郎の部屋、台所、裏庭、風呂場、と覗いてみた。しかし、一郎はいなかった。

 流れる汗と乱れた呼吸を止めるため、チェリーは自分の部屋に戻った。そこに一郎はいた。

「お帰りなさい、先輩」

 いつもとは少し違う、気恥ずかしい笑顔を浮かべた一郎が立っていた。

「ああ、こんなところにいたの」

 チェリーは息を整えようと深呼吸をした。一郎を前にして呼吸は整えられても、心臓の動悸は止めようがなかった。

 一郎はチェリーにタオルを渡した。

「あ、ありがとう」

 チェリーはタオルを顔に押し当てると、乾いたタオルに汗が吸い取られていくのが判った。

 汗を拭ってさっぱりしたチェリーの前に水の入ったコップが差し出された。

「お水です。どうぞ」

〔あいかわらず用意がいいわね〕

「ありがとう」

 チェリーはコップの水を一気に飲み干した。中は適度に冷えた井戸水だった。

 コップとタオルを机の上に置いて、チェリーは本当のことを切り出そうとした。

 そのとき、一郎がチェリーの前に片膝をつき、右手を胸に当て、恭しく一礼した。

「ど、どうしたの?」

「正式に、お願いに上がりました」

 チェリーははっと息をのんだ。

〔そうだわ。夜会の前に男は女の部屋を訪ねて、夜会に誘うんだった〕

 一郎の用意のいい理由が何となくチェリーは判った。

 一郎は左手に隠し持った小さな木箱を差し出した。

〔贈り物まで用意してあるんだ〕

 チェリーは少しうれしくなった。

 一郎は木箱の中を開けた。

 そこにはチェリーが求めていた首飾りが、耳飾りを添えて納められていた。

〔こんなところにあった〕

 チェリーのうれしさが増した。

「今宵の夜会のお相手をお願いします。ふつつかな身ですが、精一杯あい勤めます」

 一郎の言葉がチェリーの胸を感激の色に染めあげた。

「つ」

 謹んでお受けします、と返礼するのが女性の方のしきたりだった。その言葉はのどの途中で止まった。

〔どうしよう〕

 木箱を受け取ろうと手が動いた。そのチェリーの手は中途半端な位置で止まった。

〔夜会に行きたい。イチ・ローと一緒に、夜会に出たい〕

 チェリーは、泣き出したいほど、感激で胸が詰まった。

 そして、このままフィビーが言うように嘘を突き通してしまおうかとも考えた。

〔負けたくない〕

 チェリーの心の隅でそう叫ぶものがあった。

〔負けたくない。あのお姫様だけには負けたくない〕

 チェリーは手のひらを堅く閉じた。そして、口が開いた。

「イチ・ロー」

 一郎は顔を上げて、優しい笑顔を見せた。

 その笑顔の誘惑に震えながら、チェリーの言葉は続いた。

「あたし、嘘をついたの」

 初め一郎は不思議そうな表情を浮かべた。

 フィビーの手紙の一部を読まなかったこと、フィビーへの返事に細工したことと、チェリーの話が進むにつれて、一郎は無表情になった。

 その結果フィビーが一時間以上も待っていることにまで話が進んで、一郎の表情が次第に怒りを帯びてきた。

 チェリーが話し終えたとたん、一郎がチェリーに飛びかかるように両肩をつかんだ。

「チェリー!」

 その勢いで、チェリーは壁まで押しつけられた。チェリーの目の前には今まで見たことのない怒りの仮面をかぶった一郎がいた。

「なぜ、言わなかった? 夜会は夜からじゃないか!」

 一郎の言葉は、フィビーのそれと一致した。

 フィビーの正しかったことがここで証明された。

「ごめんなさい!」

 振り絞るようなチェリーの声量を上回って、一郎の怒声が部屋の空気を震わせた。

「あやまって、すむもんか!!」

 チェリーの体はビクッと震えた。

「目をつむって、歯を食いしばれ!」

 押さえていた両手をチェリーの肩から離して、一郎は言った。

 チェリーは覚悟したように、一郎の言うとおりに目と口を閉じた。

 閉じられたチェリーの目に涙がにじんでいた。

 それを見て一郎は振り上げた右手を止めた。

 一郎の足音にチェリーは少し目を開けた。

 一郎は部屋を出ていこうとしていた。

〔お姫様のところに行くんだ〕

 チェリーは思わず呼び止めた。

「ま、待って!」

「うるさい! そこで反省しろ!」

 一郎は振り返らずに言い放つと、部屋の外に出ていった。

 チェリーの耳に遠ざかる一郎の足音だけが聞こえていた。

 今まで一郎の声で震えていた部屋が急に静まり返った。

〔もう、イチ・ローは戻ってこないかもしれない〕

 少し、チェリーの足が震えた。

 チェリーは椅子を引いて机の前に座った。

〔どうしよう〕

 ベッドの上に、木箱が投げ出されたままになっていた。

〔一人でもいいから、夜会に出ようか。踊る相手がいないだけで。別に、珍しいことじゃないし〕

 チェリーは机の引き出しを開け、化粧道具を取り出した。

 鏡を自分の目の前に置いて、口紅の小瓶を開け、筆を手に持つ。そして、筆に紅を付けて自分の唇にのせようとした。そこで、チェリーの手が震えた。

〔あ、はみ出しちゃった〕

 堪えていた涙が、チェリーの頬を落ちていった。

〔だめだ。これじゃ、お化粧なんてできやしない〕

 チェリーが筆を置くと、涙が続けて流れ始めた。

〔お姫様の言うとおりだった。お姫様の方がイチ・ローのことをずっと判っていた。あたし、お姫様よりも長くイチ・ローの側にいたのに〕

「どうして、イチ・ロー様を、信じなかったの?」

 フィビーの言葉がチェリーの胸を重くさせた。

 それをはね除けるように別の想いが胸の中に浮かんだ。

〔イチ・ローを信じるのよ〕

 なにを、と自問したとき、チェリーはあることに気づいた。

〔イチ・ローは、ここにいろと言っただけで、夜会のことは何も言わなかった〕

 虫のいい考えとは思ったが、チェリーは一郎を信じることにした。

〔イチ・ローは戻ってくる、きっと〕

 チェリーは涙を拭って、化粧をやり直した。

 

         7,

 

 空模様が怪しくなってきた。わずか十分で空は暗くなり、誰の目にも雨が降り出すのが目に見えていた。

 フィビーは不安そうに空を見上げた。その頬に水滴が一滴落ちた。

 二滴目、三滴目を腕に感じたそのすぐあと、バケツをひっくり返したような土砂降りが始まった。

 フィビーは慌てて笠をかぶって立ち上がった。

 不意にフィビーの右手が引かれた。

「こっちへ」

 聞き覚えのある優しい声だった。

 フィビーの手を引いたのは、見慣れたTシャツを着た一郎だった。

 一郎はとある料理店の軒先に駆け込んだ。

 フィビーの手を優しく引いて、それでいて風のように素早く、一郎はフィビーの体をその軒先に招き入れた。

 笠をはずして一郎を見上げたフィビーの頬が走ったせいか、紅潮していた。

 一郎は少し、照れくさそうに笑いながらフィビーを見つめていた。

 お互いに見慣れた顔であるはずなのに、二人とも、二ヶ月以上会わないうちに微妙な変化が現れているのに気づいた。

〔フィビー姫、あいかわらず綺麗だ。それに何か落ち着いた大人の雰囲気が加わったみたいだ〕

〔イチ・ロー様、御髪が伸びて、前より力強くなった感じがする〕

 そのまま、見つめ合っているうちに、フィビーの鼓動が限界まで早まりつつあった。この三ヶ月間胸の中で暖め続けた想いが急激に膨らんできた。

〔イチ・ロー様、好きです〕

 このまま見つめ続けていたら、そう告白してしまいそうだった。フィビーは頬をさらに紅潮させて、うつむいた。

 一郎はフィビーの視線に捉えられて固まっていたが、やっと解放されてほっとした。そして、深く頭を下げた。

「フィビー姫、お待たせして申し訳ありません。自分が不注意でした」

 このとき、フィビーはチェリーが嘘をつけなかったことを悟った。

「いいえ、こうして、イチ・ロー様に来ていただいただけで十分です。年に一度のお祭りですもの。ご一緒に楽しみましょう」

 フィビーは一郎の手を取った。

 一郎は顔を上げると、

「そうですね」

と、笑顔を見せた。

 そのとき、図ったように雨が止んだ。黒い雲も足早に去っていった。

 同時に、通りにまた祭りの活気が戻ってきた。

 フィビーは一郎の左腕に自分の右腕を絡めて促した。

「行きましょう」

 一郎は少し驚いた表情を作ったが、すぐに笑顔に戻って歩き出した。

「はい」

「それから、今日一日だけ、『姫』は止めて下さい。フィビー、って呼び捨てて下さい」

「なぜ」

「せっかく忍んできたのに、周りに気づかれたら大変ですもの」

「判りました、フィビー、ひ」

 フィビーは一郎に、唇の前で人差し指を一本立てる仕草を見せた。

「ふ、フィビー」

 言い直した一郎は、なぜか体がくすぐったくなるのを感じた。

 そう呼ばれて、フィビーは嬉しさを現すように絡めた腕に力を込めた。

「それじゃあ、まず、かき氷にしましょうか、フィビー」

「はい、イチ・ロー様」

 二人は暑さと緊張で乾いたのどを立ち売りのかき氷で潤した。

 それから、二人は腕を組み、祭りの屋台を覗きながら通りを歩いた。

 フィビーはふわふわとした絨毯の上を歩いている気分に浸っていた。一郎に渡された飲み物の味も良く判らなかった。一郎が何を話していたのか思い出すのが難しくなるほど、フィビーの心は幸せが詰まっていた。

 そんなフィビーでも「占い」の看板には心が動いた。

「イチ・ロー様、『占い』の看板が出ていますわ。入りましょう」

 フィビーは絡めた腕をほどいて、一郎を引っ張った。

「え、占い?」

 一郎は占いを信じる方ではなかったが、フィビーのうれしそうな表情につい釣られた。

 オープンな屋台が並んでいる中で占いの屋台だけは黒い幕に覆われて外からは様子が分からなかった。

 それでいて、中に入るとひんやりとして不思議に気持ちよかった。よく見ると屋台を覆う布を氷の入ったバケツが重石になって押さえていた。

 中にはお約束の黒装束の老婆がテーブルの向こうに座っていた。

 テーブルにも黒い布がかけられ、その上に載っているのは、三本の横一列に並んだ音叉だった。

「まあ、掛けなされ」

 老婆のしわがれた声が聞こえた。

 テーブルの前に二つの椅子が用意されていた。フィビーは左側の椅子に座った。一郎は空いた右側に座った。

「さて、どなたが」

 フィビーと一郎は顔を見合わせた。

 一郎は手で「どうぞ」と合図を送った。

 フィビーは頷くと、

「わたしから、お願いします」

と小さな声で言った。

「では、左のフォーク(音叉)の前に手を置いて」

 フィビーは言われるまま左手を音叉の前に置いた。そのとき、音叉が低く鳴った。

「左のフォークは、今、そなたの過去を読みとっておる」

 フィビーの体はビクッと震えた。

「もし、隣の殿方に聞かれたくないことがあるなら、今のうちに殿方に言って、外で待ってもらうがよい」

「いいえ。平気です」

「そうか」

 フィビーの声は緊張していた。

 この間、音叉はずっと一定の音を出し続けていた。

 その音叉が音が止まった。

「うむ、結果が出たようじゃ」

 老婆は、音を出していた音叉に触れた。

「そなたは、昔、大切な人を亡くした」

 それを聞いた一郎は少しがっかりした。

〔なんだ。よくあるインチキ占いの手口か。抽象的でどっちにもとれる言葉しか言わず、雰囲気で客を納得させる奴だな〕

「亡くなったのはそなたの身内であろう」

「はい」

 一郎はフィビーが隣にいるのでなければ、老婆に突っ込みを入れるところだった。

〔で、フィビーがいいえと言えば、尊敬する人とか何とか、言い換えるんだろ〕

 だが、フィビーの真剣な表情に、一郎はその横顔だけを見つめた。

「それも、年下の、妹か弟」

「妹です」

 フィビーは当たったのが不思議そうに、声の一部が裏返った。

「それ以来、そなたの心は傷ついておる。そなたは心を癒せるものを求めて旅に出た。その旅は無駄ではなかったはずだ」

「そうです」

 フィビーは頷くと恥ずかしそうに微笑んだ。

〔イチ・ロー様に出会えたから〕

「では、『今』が知りたくなったら真ん中のフォーク、『未来』が知りたくなったら右のフォークの前に、手を置きなさい」

 フィビーは迷わず、右の音叉の前に右手を置いた。

 今度は右の音叉が低く唸り始めた。

 そして、音叉が止まったとき、老婆は口を開いた。

「そなたはまた旅をしたいと思っておるようじゃ。その願いは叶えられるじゃろう。だが、それは、そなたの思惑とは異なる。また、旅はいつまで続くか判らぬ」

〔じゃ、ずっと、イチ・ロー様の側にいられるんだわ〕

 フィビーは表面上喜んだ。だが、「思惑と異なる」という言葉が引っかかって不安を覚えた。

 次に一郎が試してみた。

 左の音叉の前に手を置いて、老婆が告げた内容はこうだった。

「まず、そなたが生きておることが奇跡じゃ。本来なら死んでおって当然の目にあっておる」

〔いかにも、その通り〕

 一郎は今までを振り返って納得した。

 一郎は次に真ん中の音叉の前に手を置いた。一郎が知りたいのは、なぜ自分がこの世界にいるのか、そして、どうやったら自分の世界に帰ることができるかだった。

「そなたの心の中は、疑問が渦巻いておる。その疑問はやがて解けるであろう。特に、そなたが一番知りたがっておることは、本当はそなた自身が知っておる。ただ、何者かに記憶を封じられているのじゃ」

 一郎はその具体的な内容を知りたかった。

 だが、占いの老婆は首を横に振った。

 占いとはそういうものだと、一郎も納得した。

 二人は屋台を出た。

 占いの屋台を出たとき、一郎の心の中はさらなる疑問のことでいっぱいだった。

〔記憶が封じられている? 何か思い出せないことがあるというのか〕

「イチ・ロー様」

 フィビーは心配そうに声をかけた。

 その声は一郎の耳に入らず、一郎は自分の何が思い出せないのか考えていた。

〔そういえば、俺がこの世界へ来る直前、俺は何をしていたんだ。受験勉強していたとしても、何をやってたんだ。英語か、数学か、古文か。俺の記憶はどこで途切れるんだ〕

 一郎は必死で思い出そうとしたが、記憶をはっきりさせようとすると次第にあやふやになっていくのが判った。

 一郎の腕が強く引かれた。

 一郎は引かれた腕に絡みついたフィビーの腕を見た。それをたどるように視線を動かすと、心配そうにフィビーが一郎を見上げていた。

「ああ、ごめんなさい、フィビー、ひ」

「占いの内容が、そんなに気になりますの?」

〔そうだ。彼女の前では、不安そうな顔を見せちゃいけない〕

「大丈夫ですよ」

 一郎は笑顔を作った。

「フィビーの占いは結構よかったですね。当たるといいですね」

 だが、フィビーの表情は晴れなかった。

〔そう言えば、同じことが以前にもあったな〕

 一郎はフィビーの前で隠し事ができないことを知った。

「占い師の言うとおりです。僕は肝心なことが思い出せないらしい。家族のこと、友人のこと、学校のこと、ここへ来るまでのほとんどのことを思い出せるのに、なぜか、ここへ来る直前のことが、思い出せないんだ」

〔俺は、誰かに操られてここへ来たのか。俺は、誰かに心を作り替えられてしまったのか〕

 一郎は自分が自分でないような不思議な感覚に包まれた。とたんに足ががくがく震え始めた。まだ、夏のはずなのに寒気で一郎は鳥肌が立った。

 見る見る蒼ざめていく一郎の顔にフィビーの胸はぎゅっと縮まった。

「イチ・ロー様!」

 フィビーが一郎にしがみついた。

 一郎の震えは止まった。

 フィビーは涙を浮かべて一郎を見上げていた。

「ありがとう、フィビー。もう、大丈夫」

 一郎はフィビーの両肩に手を置いて、フィビーの体を離した。

「本当に?」

「取り乱してすみません」

 フィビーは滲み出た涙を拭った。それから、もう一度一郎の腕に自分の腕を絡めた。

 一郎はフィビーを安心させるように、自分の腕に絡められたフィビーの手をさすった。

 二人は寄り添うように通りを歩き出した。

 

         8,

 

 再び、空が暗くなった。

 またしてもわずか数分で空は雲に覆われ、数十秒後には土砂降りの夕立になった。

 一郎とフィビーは雨を避けて、ある空き家にたどり着いた。

 初めは軒先だけ借りるつもりだったが、空き家と書かれた張り紙に、少しの間座って休めるところを探して中に入った。

 元は小さな料理屋だったらしく、中はテーブルが三つだけで精一杯の広さだった。

 雨漏りがするらしく、手前二つのテーブルは天井から落ちてくる水滴に濡れていた。

 一郎は一番奥のテーブルにフィビーを促した。

「どうぞ」

 一郎はつい、椅子を引いてフィビーに勧めた。

 フィビーは最初困惑したが、すぐに笑顔で椅子に腰掛けた。

 一郎はフィビーの右斜め前の椅子に腰を下ろした。

「フィビー、雨が止むまでここで待ちましょう」

 一郎が視線を向けると、フィビーはにこにこと笑顔を浮かべていた。

「どうしたんです」

「イチ・ロー様、パンコムさんの宿でのこと、覚えてます?」

「そりゃあ、もちろん、‥‥」

 言いかけて、一郎ははっと気づいた。

〔そうだった。この国では女性に椅子を引く習慣は、年上の女性に対するものだった〕

 フィビーはくすっと笑いを漏らした。

「す、すいません」

「いいんです。イチ・ロー様が元に戻ったなら」

「でも、懐かしいですね」

「本当に。イチ・ロー様と旅ができて、わたしも、いっぱいいろいろなことを経験しました。全部イチ・ロー様のおかげです」

 フィビーはぺこりと頭を下げた。

「僕の方こそ、フィビー姫のおかげでこうしてこの町で暮らしているんです。ありがとうございます」

 一郎もぺこりと頭を下げた。

 一郎が顔を上げたとき、フィビーは一瞬不思議そうな表情で一郎を見ていた。それはすぐに元の笑顔に変わった。

 それを疑問に思った一郎は、フィビーに訊ねた。

「何か変ですか」

「イチ・ロー様って、本当に、不思議なお方だなって思ったんです」

「なぜですか」

「だって、たいていの殿方は、わたしに対して、媚びるか、偉がるか、どちらかなんですもの。それなのにイチ・ロー様は、まるで、わたしを友人のように扱って下さるから」

「それが変なんですか」

「わたし、男と女の関係は、恋人と夫婦と、モノとして取引の道具になることしかないと思っていました」

「僕の国では、男も女も関係なく、まず対等の友人を作ることが基本になってますから」

「素敵なお国ですね。行ってみたい」

 フィビーの表情が暗くなった。

「何かあったんですか」

「ついこの間、また、チャレンジャー候補が現れたんです」

「ああ、海の向こうの国から第一王子が来たとかいう話でしたね」

「わたし、小さい頃から、チャレンジャーに捧げられるために育てられたんです。国の繁栄のため」

 フィビーは視線をテーブルの上に落とした。

「チャレンジャーが勝てば、その方が次のワールドマスターですもの。例え負けても、女一人を差し出しただけで、勝ち残ったワールドマスターに叛意を示したことにはなりませんから」

 それは、フィビーが使い捨てにされることを意味していた。それが分かっているせいかフィビーの口調は重かった。

「小さい頃は、チャレンジャー様は立派な人だって聞いていたから、チャレンジャー候補の人はみんな、魅力的に見えたんですけど」

 フィビーは気を取り直して笑顔を作った。

「この間の人は最悪。顔は猿人みたいだし、目つきもなんだか気持ち悪くて、正視できませんでした」

 誰が見てもフィビーの笑顔は無理があった。

 一郎が言葉を探して迷っているうちに、フィビーの目に涙が溜まり始めた。

「わたし、イチ・ロー様が、剣を引き抜くのに失敗したとき、ほっとしたんです。だって、イチ・ロー様、お国に帰りたがってらしたのに、チャレンジャーになったらそれどころではなくなりますもの。でも」

 フィビーの笑顔が消えた。

「もう、誰かのモノになるための生活なんて耐えられない」

 涙がつうとフィビーの頬を伝っていった。

「イチ・ロー様がチャレンジャーだったらよかったのに」

 フィビーの熱い眼差しは一郎の心を貫いた。

「誰のモノにもなりたくない。でも、どうせ誰かのモノになるなら、わたし、イチ、‥‥」

 一郎の左手が静かに素早く動いて、フィビーの唇を押さえた。

 フィビーはびっくりして一郎を見つめた。

 今までに見たことのない一郎の熱くて優しい視線がフィビーを捉えていた。

 一郎はそっとフィビーの肩に右手を置いた。

 フィビーが緊張するのが一郎の右手に伝わった。

「フィビー姫、僕はまだ無力です。でも、力を付けたら、きっと、姫を迎えに上がります。それしか、今は言えません。それでも、いいですか」

 一郎は唇を押さえていた左手も、フィビーの肩に置いた。

「はい」

 フィビーは涙を流しながら、小さく頷いた。

 そのとき、両肩に置かれた一郎の手に力が込められた。フィビーが視線を一郎の手に移したとき、一郎の顔が急接近してきた。

 一瞬戸惑い、恥ずかしそうに一郎の視線を避け、やがて覚悟を決めたように、フィビーは目を閉じた。

 一郎はゆっくりとフィビーの唇に自分の唇を重ね合わせた。

〔このまま、時間が止まればいい〕

 二人ともそう考えていた。

 雨はいつのまにか上がっていた。

 

         9,

 

 一郎とフィビーが空き家を出たとき、空は薄くオレンジ色が加わっていた。

「もう、帰らないと」

 少し残念そうにフィビーが言う。

「それじゃ、送りますよ、フィビー姫」

 フィビーは首を振った。

「チェリーさんが待ってますわよ」

「ああ」

 一郎はチェリーのことをすっかり忘れていた。

「いいんですよ。あんな嘘つき、ほっといても」

「だめです」

「なぜ」

「彼女が嘘をついたからと言って、イチ・ロー様が嘘をついていいということはないでしょう?」

「それは、そうですが」

「それに、イチ・ロー様、彼女を懲らしめるのに、ほんの少しだけ遅れて行くつもりだったんでしょう?」

〔鋭い〕

 フィビーにずばり言い当てられて、一郎は頭をかいた。

「優しいんですね」

〔わざと遅れて行くのが優しい、か?〕

「でも、チェリーさんもきっと後悔なさって、反省されていると思いますわ」

「反省ねえ」

 一郎はほんの少し疑問だった。

「だから、行ってあげてください。わたしが彼女の立場だったら、きっと同じことをしたと思います」

「フィビー姫も、十分、お優しいと思いますよ」

 フィビーはくすっと笑って、一郎に顔を近づけた。

 一瞬どきりとした一郎が身を引くと、フィビーは一郎の首に手を巻き付けた。

「フィビー姫、何を」

 フィビーは答えず、一郎の首筋に唇を押しつけた。

 一郎は、唇の柔らかい感触が嫌いではなかった。しかし、周囲の目が一郎たちに集まるのを知って、一刻も早くフィビーに離れて欲しかった。

 しばらくしてフィビーが離れた。

 一郎の首にフィビーの唇の熱さが残った。

「彼女に伝えてください」

 フィビーはいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。

「な、なにを?」

「今度は正々堂々と争いましょう、って。伝えてくだされば、きっと判ると思います」

〔なんのことだ〕

 フィビーは、一郎の前で深く頭を下げた。

「今日は、本当にありがとうございました。おかげで、楽しくて、忘れられない一日になりました」

 一郎は空き家の出来事を思い出して真っ赤になった。

「さっきは、その、乱暴なことをして申し訳ありませんでした」

 フィビーは少し寂しそうな笑顔を浮かべて首を振った。

「いいえ、気になさらないで下さい。では、失礼します」

 そう言ってフィビーは身を翻すと、祭りの人混みの中に消えていった。

 そのままフィビーは振り返らず、しばらく歩き続けた。

〔謝って欲しくなんかなかったのに〕

 一郎の最後の一言がフィビーの心に水を差した形だった。

 立ち止まって振り向いてみたが、もう一郎の姿は見えなくなっていた。

「お嬢さん、どいて!」

 野太い男の声がフィビーに浴びせられた。

 ビクッと体を震わせて振り返ると、男のひく荷車が目前に迫っていた。

 一瞬立ちすくむフィビーの腰に手が回った。フィビーは荷車にぶつかる寸前で、抱き寄せられた。

「危ないなあ。やっぱり、城までお送りしますよ」

 いつのまにか一郎が横に立っていた。

「イチ・ロー様、どうして」

「大切な人を、一人にしておくことなんてやっぱりできませんよ」

 そう言った一郎の顔は照れくさそうに微笑んでいた。

「道場には走って帰れば間に合いますから」

「でも、‥‥」

「少しでも長く一緒にいたいんです」

 フィビーは黙って頷いた。「大切な人」という言葉がフィビーの心に染みわたった。

 それから二人はゆっくりと歩き出した。

 並んで歩く間、一郎と、フィビーはお互いの修行の話など、近況を語り合った。

 城に着いた頃には、太陽が地平線にかかり始めていた。

 


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