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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。


「ワールド マスター 1  〜 マルカム王国編 〜」

ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)


 第八章 「男の料理」

 

         〇

 

 一郎がこの異世界に来る前、日本の季節は冬で十二月の初めだった。

 この世界、「ワールドマスターが支配する世界」では、春が終わり夏に変わろうとしていた。

 異世界にも四季があり、十二ヶ月の暦があった。

 一郎が面白いと思ったのは、一年が三百六十日で、一ヶ月がそれぞれ三十日に割り振られていることだった。

 一週間は七日間ではなく、六日間が基本だった。「土曜日」がないのだ。

 ただ、やはり閏年のようなものがあり、五年に一度、一月が三十一日に増えることがあった。

 

          1,

 

 一郎がフィビーを城へ送って帰ってくると、道場の奥で女の子の楽しそうな声が聞こえた。

 道場の奥、台所に進むと、チェリーを中心に三人の女の子が料理をしていた。

 チェリーが同じ年頃の女の子に料理を教えているのは知っていたが、実際に見るのはこれが初めてだった。

「先輩、頼まれた野菜、持ってきました」

 一郎の声に一斉に女の子たちが振り返った。

「ご苦労様。そこ、置いといて」

 チェリーの返事がまた、女の子を驚かせたようだった。

 女の子たちは目を見開いてチェリーを注目した。

 一郎は頼まれた野菜を床の上に置いた。

 チェリーは一郎の右腕の包帯を見咎めた。

「イチ・ロー、あんた、その手、どうしたの」

 一郎は照れ笑いを浮かべ応えた。

「いやあ、転んだら、たまたま、材木が倒れてきて、それを受け損ねてしまいました」

「ふん、どじね」

 一郎は笑顔を浮かべると左手で頭をかきながら、勝手口から外へ出た。

 ぱたんと勝手口の扉が閉まったとたん、女の子たちが一斉に囀りだした。

「今の、誰?」

「新しいお弟子さん?」

「少しかっこよくなかった?」

 チェリーは、その声を遮るように、まな板を包丁の柄で叩いた。

「お静かに。質問は一人ずつ。この料理教室の約束でしょ?」

 静かになったところで、チェリーは一人ずつ指名した。

「じゃ、レイカーから」

「今の男の人って、だれ? 新しい老師のお弟子さんなの?」

「名前は、イチ・ロー。変な名前でしょ? 一週間前からここに住み込みで修業をしているのよ」

「一緒に住んでるわけ? 危なくないの?」

「ファレー、指名してからにしてよ。でも、いいわ。心配ご無用。あいつは、道場で寝泊まりしてるし、腕はあたしの方が上だから、おとなしいもんよ」

「はい、チェリー先生」

 三人目の女の子は手を上げた。

「『先生』はよしてって言ったでしょう、ソラー」

「あの人って、異国の人でしょ?」

「そうよ」

「じゃ、やっぱりそうなんだ。すごい、感激しちゃう」

「なになに」

「ソラー、何知ってるの」

「一週間ぐらい前、お城で宴があったのよ」

「それなら知ってるわ。王妃様の全快祝いとお姫様のご帰還のお祝いの大パーティーでしょ」

「そっか、ファレーのお父さん、徴税官だったわね」

「王様が盛大なパーティーを開くから、父のような下っ端役人でも呼ばれた訳よ。末席だけどね」

「で、その主賓の席に、外国の男の子が居たんだって。その男の子は、お姫様を助けて、猿人を滅ぼし、サンドボーラーを倒したってお話よ」

「猿人って、あの砂漠の北の蛮族でしょ」

「サンドボーラーって言ったら、砂漠の猛獣じゃない」

「でね、男の子の名前が、外国人だからしょうがないんだけど、『イチ・ロー』っていう女みたいな名前なんだって」

「それって、やっぱりあの人のことかな」

「きっと、そうよ」

「チェリーなら知ってるわよね」

 やかましいほどの騒ぎがやっと収まったと思ったのも束の間、チェリーは三人に包囲された格好になった。

 三人の期待に満ちた目がチェリーを捉えて話さなかった。

「あいつは、単にここに修行をしに来ただけで、詳しいことは何も。ただ、‥‥」

「『ただ』、なに、なに?」

「ここへ来るのに、王宮の紹介状を持っていたって、おじいちゃんが言ってたから」

「やっぱり、そうなんだ」

「すごい。勇者様が目の前にいるのね」

「これは是非とも、お近づきにならねば」

 三人は一度に動き出した。

「ちょっと、待った!」

 チェリーの声が三人の動きをぴたりと止めた。

「みんな、料理を途中で放り出すのは、許さないわよ」

「えー」

 レイカーが不満そうな声を上げた。

「あいつは何処にも行きはしないわよ。ここで修行してるんだから。それより、切った魚はすぐに料理しないと傷みやすいのよ」

 すかさずソラーが提案した。

「チェリー、今日の試食判定は、彼にお願いしましょうよ」

「え?」

 チェリーには思いも寄らない考えだった。

「あ、それいい」

「いいわよね、チェリー?」

 他の二人はすぐさま賛成した。

 チェリーは一瞬考え込んだ。一郎に試食させることに問題があるとは思わなかった。

〔あいつに、微妙な味の判定までできるのかしら?〕

 その点が少し気になったが、生徒のやる気を削ぐわけにはいかないと思い、チェリーは提案を承認した。

「いいわ。みんな、あいつを虜にするような料理を作ってちょうだい」

「やったー」

「がんばるわ」

「つくりがいがあるわー」

 三人の歓声が上がった。

 三人の喜ぶ顔がチェリーには普通の女の子の表情に思えた。

〔何も知らないことは幸せなことよね〕

 この笑顔がいつか消えるときが来るのかと思うと、無邪気にはしゃいでいる三人がチェリーには哀れに思えた。

 

         2,

 

 左腕一本で薪が割ることは、かなり困難だった。せめて右手で支えるだけでもと思って、一郎は右手を使おうとした。

 右手が斧の重さを実感したとたん、右腕から激痛が走った。思わず一郎の顔は歪んでしまった。

〔だめか。左手だけでやるしかないか〕

 そのとき、女の子の黄色い声が一郎の耳に届いた。一郎は一瞬自分のことかとドキリとしたが、すぐに収まったのでほっと胸をなで下ろした。

 しかし、時々漏れてくる女の子の声が意外に楽しそうなので、一郎はなんだか微笑ましくなった。

〔いつの時代も、どこの世界でも、女の子というのは同じなんだろうか〕

 話し声が聞こえないので一郎には想像するしかないが、流行の服や男の噂話の類が話されていると思った。実際に自分がその中心になっているとは気づかなかった。

 一郎が気づいたのは別のことだった。

〔女の子は女の子同士、仲がいいと言うことか。俺に対する風当たりが強いのは、最初の印象が悪いせいかな。男嫌いのところもあるようだけど〕

 一郎は左手一本で薪割りに挑戦した。

 今までの薪割りをイメージして、左手だけでそれをなぞろうとすると、いかに右腕が大切か改めてよく判った。

 左腕だけの薪割りがやっと形になってきたとき、一郎は一息つくことにした。

〔さすがにまた、夜中までかかりそうだな〕

 空を見ると日は再び西に傾き始めていた。

 一郎は軒下の日陰に腰を下ろした。

 台所の方が何か騒がしくなった。

 一郎が勝手口に目を向けると、その扉がバンと開け放たれ、三人の女の子が飛び出してきた。

「イチ・ロー様」

「イチ・ロー様!」

「イチ・ロー様!!」

 三人の女の子は、一郎を取り囲むと一斉に料理を盛った皿を差し出した。

「えっ?」

 一郎は何が起こったのかすぐに理解できなかった。

 そのあとからゆっくりと出てきたチェリーが説明した。

「料理教室の最後に、あたしがいつも試食して判定してるんだけど、今日は英雄、イチ・ロー様に試食してもらうことにしたの」

〔そういうことか〕

 一郎は目の前に差し出された皿をよく観察した。

 一郎はチェリーの言葉をもう一度吟味した。

〔え、英雄? イチ・ロー様?〕

 右端の女の子が、皿を突き出しながら言った。

「お噂はかねがね、父より伺っています。わたし、ソラーって言います」

 少し上気した頬で、ソラーは目を輝かせて一郎を見つめていた。

〔どんな噂なんだ〕

 真ん中の女の子が皿を差し出して言った。

「レイカーと言います。お姫様を助けて、猿人どもを滅ぼし、サンドボーラーを素手で倒したイチ・ロー様でしょう?」

「あ、いや、お姫様は助けたけど、‥‥」

「やっぱり、本物だわ。本物の勇者様よ」

 一郎は自分の置かれた立場が何となく判ってきた。

「わたし、ファレーって言います」

 そう言ったのは左端の女の子だった。

「わたしの家、すぐそこの赤い屋根の家なんです。いつでも遊びに来て下さいね」

 ファレーは恥ずかしそうに、皿を差し出した。

 一郎の中で、三人の女の子の目は、ジャニーズ系のタレントを追いかける女の子たちのものと一致した。

 元いた世界では考えられないことだった。

〔俺もこの世界ではちょっとした有名人というわけだ。うーん、悪くない気分だ〕

 一郎はチェリーが冷ややかな視線を送っているのに気づいた。

〔ひょっとして今、締まりのない顔をしていたのでは〕

 一郎はいつもの表情を取り戻そうとした。

「大丈夫よ」

 チェリーがいつもと違う優しそうな視線を送ったのに、一郎は戸惑った。

「三人とも基本は押さえているから、食べて病気になるようなことはないわよ」

 チェリーはにっこりと笑顔を付け足した。

 レイカーが振り向いて、抗議した。

「チェリー、ひどい。教えてくれたのチェリーでしょう」

 レイカーはすぐに一郎の方に向き直って笑顔を見せた。

「これでも、今までで最高の出来と自負しておりますのよ」

 一郎はそのレイカーの皿を覗いた。

〔魚を三枚に下ろしてフライにしたのかな。それにしては、全体が黒っぽいような気が〕

 一郎は他の二人のさらに目を移した。

〔ファレーって子の皿は一番まともそうだ。ちゃんと魚のフライに見える。ソラーの皿は衣と、魚が別々に置いてあるぞ〕

 一郎は、レイカーの皿の上のフォークを持った。そのままレイカーの魚にフォークを刺してみた。衣の部分のかすかな抵抗を除いて、フォークはすんなり魚に刺さった。

 そのままフォークを引き抜くと、衣と魚の一部が取り出せた。

 レイカーが期待に満ちた目で一郎を見つめているのが判った。

 一郎はチェリーの言葉が引っかかっていたが、なおさら自然に口の中に料理を運んでみせた。

〔まあまあかな。油の温度が高かったのか、油の中に入れすぎたのか、ぱさぱさになってるけど〕

「うん、おいしいよ」

「ホントですか? うれしい!」

 それを聞いてソラーが、身を乗り出した。

「じゃ、次、わたしね」

「いいとも」

 一郎はチェリーが言うとおりそれほど下手な料理を作る集まりではないと思い始めた。

 一郎は安心してソラーの皿の料理にフォークを刺した。まず、衣の方は味も問題なかった。魚の方も味に問題はなかった。

〔なぜ、魚と衣が分かれてしまったんだろう?〕

 魚と衣を見比べると、衣がやや小さく見えた。

「魚を持ったところにも、卵を塗るのを忘れちゃったんです。でも、衣が付いたからいいかなって思って、揚げてみたら失敗しちゃったんです」

〔正直な子だな〕

「でも、おいしいよ」

 ソラーの顔はぱっと明るくなった。

「わあ、ありがとうございます」

 一郎が視線を移すと、ファレーは期待に満ちた目で一郎を見つめた。

 残ったファレーの皿の料理は三人の中で一番見栄えがよかった。

 一郎はフォークで料理を刺して口に運んだ。

〔うっ〕

 一郎は思わず声を出しそうになった。中の魚は完全に火が通っていなかった。一郎は思わず飲み込んだ。

 一郎はファレーに向かって笑顔を作って見せた。

「うん、おいしいよ、とっても」

「よかったあ。失敗したのかと思っちゃった」

〔自覚はあったのか〕

 その三人の後ろに立って、チェリーが言った。

「で、イチ・ロー様は、この子たちの料理に百点満点で何点を付けて下さるのかしら?」

「それは、‥‥」

「ちなみに、全員仲良く同じ点だなんて、とぼけたことを言うと、夕食を抜くわよ」

「う‥‥」

〔さすが、チェリー。鋭いな〕

 一郎の心の中では、三人に順位が付いていた。それをそのまま言うのは三人の誰かを傷付けそうで一郎の心にブレーキがかかっていた。

 一郎は肩をすくめると、チェリーに切り返した。

「と言うことは、チェリー先輩は、三人の点数をすでに決めてらっしゃるんですか」

「それは、最初からみんなの料理を見てきたから、点数は付けやすいわよ」

 一郎が次に言い出そうとしていたところを、チェリーは遮るように続けた。

「でも、一郎が点数を先に付けるのよ」

「じゃあ、みんなの料理、全部食べてもいいですか?」

「どうぞ」

 一郎は、フォークを使って三人の作った料理をすべて平らげることにした。

 一郎は全部食べ終えると三人を見渡して言った。

「みんな、おいしかったよ。全員、百点満点あげるよ」

 すると、冷ややかなチェリーの言葉が一郎に浴びせられた。

「イチ・ロー、夕飯は抜きでもいいのね?」

「いいさ。おいしい料理を食べさせてもらったんだから、今日一日は何も食べなくても満腹さ」

 一郎の言葉に、三人は満足したのか、歓声を上げた。

「やった」

「今日の料理は成功ね」

「イチ・ロー様、お腹が空いたら家へ来て下さいね」

 チェリーは肩をすくめると、家の中に入った。

 三人も一郎にお礼と挨拶をして、家の中に入った。

 チェリーは三人と一緒に料理教室の後片付けをしながら思った。

〔なるほどね。お姫様を助けたという話は嘘じゃなさそうね。猿人を滅ぼしたとか、サンドボーラーを素手で倒したというのはまだ信じられないけど〕

 チェリーはフィビーの言葉を思い出した。

〔イチ・ロー様は、素敵な人です、か〕

 同時にチェリーは、初めてイチ・ローに会ったときのことを思いだした。

〔馬鹿馬鹿しい。あいつも、所詮はただの男。スケベでだらしない生き物よ。だいたい、素手でサンドボーラーを倒せるほど強かったら、ここで修行することないじゃない〕

 窓の外から、再び、薪を割る音が聞こえてきた。

 

         3,

 

 翌日、やや体調が重いのを感じながら、チェリーは買い物に出かけた。よく晴れたお昼前のことだった。

 料理教室の三人の女の子たちは、一郎に会えたことにかなり興奮していた。その毒気に当てられたのだろうか。起きたときからチェリーは軽いめまいを覚えていた。

 三人の女の子の誰かが喋ったのだろう。チェリーは買い物をした八百屋で、一郎のことを聞かれた。

「チェリーのところに、異国の偉い男が修行に来てるんだって? なんでも、すごい神通力の持ち主で、お姫様を助けて大活躍したんだって聞いたけど」

「おじさん、それはただの噂よ。砂漠からお城まで、お姫様の護衛を務めていただけで、実際にはあたしより弱いのよ」

「ははっ、チェリーより強い男なんて、そうそういないよ」

「そうなのよ。弱すぎるのを自覚したのか、家に修行に来ているという訳なの」

「なるほどねえ」

 八百屋を納得させて、店を出たあと、チェリーを軽い頭痛が襲った。

〔あれ? 本当にどうしたんだろう〕

 チェリーは立ち止まって頭に手を当てた。

 痛みはすぐに引いたが、歩き出すと次第に痛みがぶり返してきた。

〔やだな。家までまだあるのに〕

 空を仰ぐと、一足早い夏の日差しがチェリーの上に降り注いでいた。

〔知らないうちに暑さに当たったのかな?〕

 チェリーは自分の額に浮かぶ汗に気づいた。

 いつもの赤い道着を着ていたチェリーは内股を汗が滴り落ちていくのを自覚した。

〔夏物の生地の薄い奴をそろそろ出さなきゃ〕

 不意にチェリーは足に違和感を覚えた。汗が伝わり落ちているにしてはどうもべとべとした感じがする。そう思って足元を見たチェリーはちょうど内側の踝のすぐ上を落ちていく血の滴を見つけた。

 同時に嗅いだわけでもないのに、血の匂いが蘇った。とたんに胸がむかつき、何かが胃から逆流するような感覚に襲われた。

 チェリーはあわてて口を手で押さえた。

〔だめだわ。どこかで休もう〕

 チェリーは周囲を見渡して、日陰を探した。

 ちょうど路地を入った家の壁際に酒樽が置いてあった。

 チェリーはのろのろと酒樽の隣に歩いて、ぺたんと腰を下ろした。そして、膝を抱えると体を縮めるように背中を丸めた。

〔これで、しばらくすれば〕

 チェリーは顔を膝の間に埋めて耳を澄ませた。広い通りの賑やかな声が遠くに聞こえた。

〔大丈夫よ。こんなのはいつものことなんだから、すぐによくなるわ〕

 頭痛も胸のむかつきもじっとしていればおとなしくしているようだった。

 チェリーの心の中で暗い想いが過ぎった。

〔なぜ、女だけがこんな辛い想いをしなければならないの?〕

 別の熱いものがチェリーの胸の中にこみ上げてきた。

 幾度となくチェリーの心の中で繰り返してきた想いが口からこぼれそうになった。

「お母さん」

 チェリーは静かに目を閉じた。

 

         4,

 

 丸一日経って、カンボジが帰ってきた。

 カンボジは裏庭で薪を割っている一郎を見咎めて言った。

「イチ・ロー」

 一郎は振り返ると、左手一本で持っていた斧を置いた。

「老師、お帰りなさい」

「ほう、左手だけでも大丈夫のようじゃな」

「何とかやってます。老師も今朝はごゆっくりでしたね」

「リーアンも、すっかり酒に強くなりおって、さすがのワシも少しばかり手こずった。だが、まだまだ、弟子に負けるほど老いてはおらんぞ」

 カンボジは当たりを見渡してから言った。

「ところで、チェリーは、買い物か?」

「ええ、先ほど。昼食と今日の料理教室の準備だそうです」

 カンボジは軒先に腰を下ろすと、一郎を手招きした。

「何でしょう、老師」

「まあ、座れ」

 一郎はカンボジの前に腰を下ろした。

「一郎、おまえは、チェリーをどう思う?」

「なかなか、活発ないいお嬢さんだと思いますよ。他の女の子たちからも好かれているようですし」

「男としてはどうじゃ? モノにしたいと思ったか?」

「少し感じました」

「少し、か。やはり、女よりは国へ帰ることの方が先か」

「申し訳ありません。こんなにお世話していただいているのに、何もお返しできなくなりそうで」

「そうじゃな。イチ・ローの国の料理でも教えてやってくれんか。それで十分じゃよ」

「料理ですか」

「何でもかまわんよ」

〔料理、ねえ〕

 一郎はこの世界に来てから口にしなくなったものを思い浮かべた。

〔たくさんあるな〕

「しかし」

 カンボジが口を開いたので、一郎は考えを中断した。

「チェリーは、遅いな。どこまで買い物に行ったのやら」

「そうですね。めずらしいですね」

 しばらく口をつぐんでいたが、一郎が先に切り出した。

「探しに行ってきてもいいですか、老師」

「おお、頼むぞ、イチ・ロー」

 一郎は靴だけ履き替えると道着のまま外へ飛び出した。

 一郎はまず、よく買い物に行く八百屋に向かった。道場からは百メートルほどしか離れていない。

 そこでは、一時間前にチェリーが買い物をしに来たことを確認できた。

 一郎は店の主人に礼を言うと、次に近い肉屋に向かった。

 肉屋にはチェリーが来ていないのを確認すると、次は魚屋、というように、一郎は近所の店を六件回った。しかし、チェリーが来ていたことを確認できたのは八百屋だけだった。

〔何かあったな。八百屋の周辺で気分でも悪くなったんだろうか〕

 一郎は八百屋を中心にチェリーの姿を探した。

 それから一郎は三十分かけてチェリーを探した。チェリーを見つけたのは八百屋から道場へ向かう途中の路地裏だった。

 

         5,

 

 一郎は視界の片隅に不思議なものを見たような気がした。

 そこに視線を向けると、一瞬酒樽の上にカツラが置いてあるように見えた。

 そのカツラの髪型がよく見るとチェリーの髪型にそっくりだった。

〔まさか。いや、ひょっとしたら〕

 一郎は樽に駆け寄った。

 樽の陰にチェリーが膝を抱えてうずくまっていた。

 最初は寝ているのかと思って静かに声をかけてみた。

「チェリー先輩」

 返事がなかった。

 チェリーの横で買い物かごが倒れ、中からトマト(のようなもの)がこぼれていた。

 一郎はチェリーの肩に手を置いて軽く揺すってみた。

「チェリー先輩、どうしたんです?」

 かすかにうめくような声とともにチェリーが返事をした。

「うるさいわね」

 顔はうつむいたまま、一郎の手をはねのけるようにチェリーの左手が動いた。

 一郎は肩に置いた手を離すと、とりあえずほっと胸をなで下ろした。

 一郎は腰をかがめて、買い物かごを立て直し、こぼれた野菜を拾い集めた。

「触らないで」

 一郎はそれを聞いて一瞬手を止めたが、チェリーが顔を埋めたままだったので、構わず野菜を拾い集めた。

「チェリー先輩、本当にどうしたんです」

「何でもないわよ。いいから、ほっといて」 

 チェリーは顔を伏せたままだった。

〔そうは言ってもなあ〕

 一郎はチェリーの様子をじっと観察した。

 一郎はチェリーの踝に血のあとを見つけてはっとなった。

「チェリー先輩、血が出てるじゃないですか」

 思わず声を上げた一郎に、チェリーは顔を上げて鋭く睨むと、左手を一閃、一郎の頬をはたいた。パンと乾いた音がした。

「何でもないって言ってるでしょう、この無神経男!」

 頬をはたかれさすがに一郎もむっとなった。

「わかりました。先に帰ります」

 一郎は腰を上げると、さっと歩きだそうとした。

 そのとき、一郎の脳裏をチェリーの睨んだ顔が過ぎった。

 視線をチェリーの顔に戻したが、チェリーはすでに顔を埋めて丸くなっていた。

〔涙のあとがあったような気がしたんだが、気のせいかな〕

 チェリーが膝を畳んでいたら判らなかったかもしれない。少し膝を伸ばして体操座りをしていたので、一郎は膝の下当たりにある小さな水たまりに気づいた。

〔汗にしては量が多いような気がする〕

 一郎はチェリーを見下ろして考えた。考えた末に強行した。

 顔を埋めていたチェリーには声で判っていた。もっともチェリーのことを先輩と呼ぶような男は一郎しかいない。

〔よりによって、なんであいつが来るのよ〕

 じっと我慢していたチェリーだったが、座っていても胃から逆流するものを感じた。

〔でも、どうしよう。あいつに頭を下げなきゃいけないのかな?〕

 そのとき二本の丸太がチェリーの体を持ち上げたような気がした。

 ふわっと持ち上がった感触にチェリーは顔を上げた。

 間近に一郎の顔があった。

「馬鹿っ。な、なんてことするの!」

「すみません、先輩。道場に戻るまで我慢して下さい」

 一郎はチェリーを抱き上げると、すたすたと歩き出した。

「降ろしなさい。さもないと、‥‥」

「さもないと‥‥」

 科白の続きを一郎が言い終えないうちに、チェリーの平手打ちが飛んだ。

 パシッと乾いた音がした。

 一郎は抗議しようかと思ったが、妙なことに気づいた。

〔あれ。それほど痛くない〕

 一郎は少し不思議そうにチェリーの顔を覗いた。

 一郎は一瞬目を見張った。

 チェリーの顔から血の気が引いていた。一郎を睨む目にも鋭さがなかった。

「降ろして」

 語気が明らかに先ほどのより弱まってきていた。

〔かなり、やばいのかな〕

「道場まで我慢して下さい」

 一郎は再び歩き出した。

「お願い。あまり揺らさないで」

〔あ、そうか〕

 チェリーの指摘に一郎は歩調をゆるめた。

「表通りは止めて。恥ずかしいの」

〔遠回りしろ、と言うのか。けど、直射日光は確かにまずいかもしれない〕

 一郎は表通りに背を向けて、日陰を選んで歩き出した。

 しばらくして、かすかな声でチェリーが言った。

「イチ・ロー、ごめん」

〔ずいぶんしおらしいことを言うなあ〕

「いいんですよ。気にしないで下さい」

 チェリーが一郎の道着の胸元にしがみついて、胸に顔を埋めるような仕草をした。

〔いいなあ。こういうの〕

 次の瞬間、一郎の伸びかけていた鼻の下はあっと言う間に縮んだ。

「おえっ」

 カエルの鳴くような声が聞こえた直後、生暖かいものが一郎の胸の上に落ちてきた。

 チェリーの顔が離れたとき、甘酸っぱい匂いがした。チェリーの口の端にかすかに残った白いヨーグルトのようなものが、一郎に何があったかを教えた。

〔えっ、吐いちゃったのか〕

 次に一郎の頭に過ぎったのは

〔早く帰って着替えないと〕

という思いだった。

〔じゃなくて〕

 一郎は頭の中に浮かんだ想いを強く振り払った。

〔チェリー、かなり悪いんだ。早く戻らないと〕

 一郎は足を早めた。

「だめ」

 チェリーの低い声がした。

「もっと、ゆっくり、歩いて。出ないと、また、吐いちゃう」

 一郎は心の中で舌打ちしながら、再び歩く速さを落とした。

 舌打ちをするには訳があった。ヒビの入った右腕はチェリーの体に添えているだけだったが、バランスを取る必要上、どうしても力を込めることがあった。そのたびに言い様のない疼痛が走った。

 しかし、チェリーの苦しそうな表情を見ては口に出せるわけもなかった。

 

         6,

 

 一郎は勝手口から道場に入った。

 一郎が勝手口の扉を開けたとき、飛び込むようにカンボジが台所に入ってきた。

「イチ・ロー」

「老師」

 カンボジの真剣な表情を一郎は初めて見た。

「どうした」

「分かりません。気分が悪くなって、しゃがんでいたので、とりあえず連れてきました」

「とりあえず、部屋へ運ぼう」

「はい、老師」

 カンボジは先導して廊下の扉を開けた。

 一郎はその後に続いた。

 廊下を出て左側の最初の部屋がチェリーの部屋だった。

 カンボジが扉を開け、一郎は中に入った。

 初めて入る女の子の部屋は、何となく甘い香りがした。

 タンスが一竿と、素朴な机と、ベッドがあるだけの簡単な部屋だった。

 それでも、女の子らしく机の上には小さな花瓶があり、黄色い花が一輪生けてあった。

 ベッドは赤い花の刺繍をあしらったシーツが掛けられていた。

 カンボジはそのシーツをめくった。

 薄いベージュ色の毛布があった。

 カンボジがベッドを指さしたので、一郎は静かにチェリーをそこへ下ろした。

 それを待っていたようにカンボジは、チェリーの側に座り込んだ。

 一郎はそっと部屋を出ると台所へ向かった。

「チェリー」

 カンボジの声にチェリーはぼんやりと目を開けた。

〔あ、帰ってきたんだ〕

 天井を見つめてチェリーは思った。

 首を右へ向けるとカンボジの笑顔があった。

 その向こうに、部屋へ入ってくる一郎の姿があった。

 チェリーは視線をカンボジに戻した。

「おじいちゃん」

 チェリーは力の抜けたような笑顔を浮かべていた。それが一郎には優しい笑顔に見えた。

「チェリー、大丈夫か。どこか痛いところはないか」

「うん、大丈夫。ちょっと気持ち悪くなっただけ。すぐ、よくなるから」

 一郎は近寄るとコップを差し出した。

「どうぞ」

 それを見てチェリーはきょとんとした表情をした。

「水ですけど」

〔そう、ちょうど水が欲しかったのよ〕

「おお、イチ・ロー、すまんな」

 カンボジは一郎からコップを受け取ると、チェリーに近づけた。

「飲むか、チェリー」

「う、うん」

 チェリーは不思議そうに一郎を見てから、コップを受け取った。

 カンボジに背中を支えられ、チェリーはコップに口を付けようとした。

「何か、薬は飲まなくていいんですか」

 一郎の言葉にチェリーは目を丸くした。

「薬ならタンスの上の赤い箱の中に」

 一郎はタンスの上を見た。確かに手の中に収まりそうな小さな赤い箱がのっていた。その傍らに木でできた人形が置いてあった。ドレスが紙でできた素朴な人形だった。

〔なんか使い込んであるなあ〕

 一郎はそう思っただけで、赤い箱を手に取った。

「はい」

 一郎は箱をチェリーに手渡した。

 チェリーはコップをカンボジに預けると、赤い箱を受け取り素早く蓋を開けた。中から黒い丸薬を二粒手のひらに載せると、素早く口の中に放り込みコップの水で一気に飲み干した。

 チェリーはほっとしたように小さなため息をついた。

 チェリーは少し混乱した頭の中を整理しようとした。

 一郎には、チェリーがぼんやりとシーツを見つめているように見えた。

〔次はどうしようかな〕

「チェリー先輩」

「イチ・ロー」

 二人は同時に声を発した。

「イチ・ローから、言って」

「はい、ファレーさんを呼んできましょうか」

 チェリーは一瞬戸惑った。

「そ、そうね。お願い。すぐ裏の赤い屋根の家だから」

「先輩は」

「あたしの用はあとでいいから」

「分かりました」

 一郎は笑顔を浮かべて、部屋を出た。

〔なんで、あいつ、あたしの考えていることが分かったのかしら?〕

 チェリーは一郎が出ていったあとの扉をしばらく眺めて考え込んだ。

「おじいちゃん」

「何じゃ」

「イチ・ローって、何者なの?」

「どうしたんじゃ、急に」

「あいつ、あたしの考えていることが分かるみたい。気持ち悪かったわ」

 カンボジは眉をひそめた。

「どうして気持ちが悪いなどと言う」

「だって、あいつ、この部屋を出るとき笑ったのよ。自分の考えが当たったのがうれしいみたいに」

「チェリー、ワシはそうは思わんぞ」

「じゃ、おじいちゃんは何だって思うの?」

「人が人を解ろうとすることが、気持ち悪いことのはずがあるまい。これだけ近くに住んでおればなおさら、相手のことが解ってくる。好むと好まざるとに関わらず、のう」

「イチ・ローがあたしを解ろうとしているって言うの? あの、男が?」

「男も、女も関係あるまい。チェリーも今言ったばかりではないか。『イチ・ローとは何者か』と」

 カンボジの言葉にチェリーは唇をかんだ。

〔確かに、あたしは知りたがっている。イチ・ローが何者なのか〕

 薬を飲んだはずなのに、また、チェリーの頭の中がかき回されるように揺れ始めた。

 チェリーは体を横にしてこの不快感に耐えようとした。

 

         7,

 

 一郎がファレーを連れて戻ってきた。

 ファレーが部屋に入ると一郎は部屋には入らずどこかへ消えた。

 ファレーは部屋の中のカンボジに一礼してから、チェリーに聞いた。

「チェリー、気分はどう?」

 ファレーはやや不安げな表情でチェリーの顔をのぞき込んだ。

「ありがとう、ファレー。もう平気よ」

 チェリーは応えるようににっこりと笑った。

「着替えとか、いい?」

「そうね。ファレー、手伝ってくれる?」

「わかったわ」

 ファレーとチェリーの視線がカンボジに集まった。

 雰囲気を察したカンボジは高笑いをした。

「いや、そうか。年寄りはお邪魔かのう」

 チェリーがベッドの中で頷いたので、カンボジは腰を上げると部屋を出ていった。

 その直後、ドアがノックされた。

 ファレーがドアを開けると、一郎がやかんとバケツを持って立っていた。

「すみません。お湯と、水を持ってきました」

「わあ、ありがとうございます。イチ・ロー様」

 ファレーが道を空けると、一郎は部屋の中に入ってやかんとバケツを置いた。

「あと、必要なものありますか? タオルとか、着替えとか」

「いいわ。この部屋にあるから」

 チェリーがそう言うと、一郎は軽く会釈をして部屋を出ていこうとした。

 ファレーがそれに付いていこうとした。

 気づいた一郎はドアの手前で立ち止まって振り向いた。

 ファレーは一瞬動きを止めた。臭いを嗅いだようにも見えた。

「イチ・ロー様、何か変な臭いがするんですけど」

 ファレーの指摘にチェリーははっと気づいた。

「ごめん。すぐ着替えてきますよ」

 そう言うと一郎は部屋を出た。

 扉が閉まると、ファレーはため息をついた。

「ファレー、どうしたの?」

「はあ、珍しく男が声をかけてくれたかと思えば、ただの用事なんだもん」

「『ただの用事』で、ごめんなさい。こっちは結構困ってるんですけど」

 言外に「男にしか興味はないのか」と言っているようだった。

 ファレーは笑って振り向いた。

「こちらこそ、ごめんなさい。当然、今は友情を大切にしますわ」

 ファレーは、チェリーの側に立ってからしゃがんだ。

「で、なにがあったの」

「今日、アレが始まるとは思わなかったから、何も用意してなかったの。で、気分悪くなっちゃって、動けなくなったの」

「なるほど、それで、イチ・ロー様に抱かれて、ベッドまで運ばれたのね」

 次の瞬間、チェリーの顔は耳まで真っ赤に染まった。

「あいつ、喋ったのね」

「違うわよ」

「じゃ、なによ」

 ファレーは少しわざとらしく、チェリーの匂いを嗅ぐ仕草をして見せた。

「イチ・ロー様と、同じ匂いがするのはなぜかしらねえ」

 チェリーはグッと詰まった。

「ま、いいわ。さっさと、着替えましょう」

 そう言ってファレーが振り向いた瞬間、チェリーは自分の袖や服の匂いを嗅いだ。

 しかし、男特有の汗くさい臭いは全くしなかった。

〔あたしの匂いが一郎に移ったのね〕

 それでもファレーの言葉が気になったチェリーはもう一度匂いを嗅いでみた。

 ほのかに甘く、どこか懐かしい匂いが混じっているのに気づいた。

 

         8,

 

 一郎はチェリーの部屋を出てまっすぐに風呂場へ向かった。

 道着を脱いですぐ、一郎は胸から腹の上にかけてベットリと張り付いたチェリーの吐き出したものを見た。

 匂いではなく、チェリーが吐き出したときの体調や感情を想像して、一郎も吐き気を覚えた。

〔あーあ、やってくれたな〕

 不思議に怒りは湧いてこなかった。

 一郎は着ているものをすべて脱いで浴室に移った。

 残り湯で汚れを落とすと、一郎は浴室を出た。

〔汚れた道着は裏で洗濯するとして〕

 一郎は持ってきたTシャツと、洗濯の済んだ別の道着を着た。

 着替えながら一郎はふと妹のことを思いだした。

〔そう言えば、同じようなことがあったな。あれは、中学二年の時だったかな。あのときは妹がベッドに寝ていて、寝ながら吐いたんだよな。で、確か、俺がその後始末をしたと思ったんだけど、記憶違いかな〕

 着替え終わって、一郎の頭の中でチェリーと妹の面影が重なった。

〔そう言えば、年上を敬わない態度といい、男を何とも思っていない態度といい、そっくりだな〕

 風呂場を出た一郎はばったりとファレーに出くわした。

「あら、イチ・ロー様」

 一瞬びっくりした表情から、うれしそうな表情へ、ファレーの顔はスイッチを入れたように切り替わった。

「やあ、もう終わったの」

「はい。着替えは終わったし、薬も飲んだから、もう大丈夫ですわ。でも、ひょっとしたら明日は、チェリー、動けないかも」

「そんなに大変なのかい」

「今回は、チェリー、ちょっと油断したみたいだから」

〔準備していれば多少は何とかなるものなんだろうか〕

 ファレーは一郎の顔を覗き込んだ。

 一郎は驚いて反射的に身を引いた。

「ああ、ファレーさん、今日はどうもありがとう」

 一郎は笑顔を作って言った。

「今度、わたしの家に来るときは、わたしを誘って下さいね、イチ・ロー様」

 ファレーは綺麗にウィンクしてみせると、勝手口から外に出ていった。

 入れ替わり、カンボジが台所からやってきた。

「終わったようじゃのう」

「はい、老師」

 カンボジはチェリーの部屋の扉をノックした。

「はい、どうぞ」

 中から返事がしたので、カンボジは扉を開けた。

 一郎はカンボジに続いて部屋へ入った。

 ベッドの上で上半身を起こしているチェリーは、すっかり雰囲気が変わっていた。

 いつもの稽古着を脱ぎ、黄色い寝巻きに着替えていた。そしていつものポニーテールをやめて髪を自然に降ろしていた。クセのないまっすぐで艶やかな髪が一郎には意外だった。

〔こうしてみると、結構かわいいよな〕

 カンボジはチェリーの側に腰を下ろすと、優しくチェリーを抱きしめた。

「おお、チェリー。大丈夫か」

「大丈夫よ、おじいちゃん。だから、離してくれる?」

 カンボジは体を離した。

「すまんことをした。痛かったかのう」

「それより、もうお昼だけど、食事はどうするの?」

「そんなものは、外でいくらでも食べられるわい。チェリーの手料理ほどおいしくはないが。のう、一郎」

 カンボジに話を振られて、一郎は少しあわてて笑顔を作った。

「まったくです。早くチェリー先輩によくなってもらいたいです」

「そうよね、イチ・ロー」

 後で一郎はお愛想かもしれないと思ったが、そのとき見せたチェリーの笑顔は、一郎の胸をドキリとさせた。

 薬が効いてきたのか、チェリーは眠くなったらしく横になった。

 チェリーの部屋を出たカンボジは、ほうっとため息をついた。

「老師?」

「いや、イチ・ローにまで心配をかけるな」

「気にしないで下さい。それより、お昼はどうします。よろしかったら、作りましょうか」

 カンボジの驚いた表情が一郎には意外だった。

「イチ・ロー、お、おまえ、料理ができるのか」

「そんなオーバーな驚き方をしないでください。チェリーさんが作れないって言ってるんですから、誰かが作るか、食べに出るしかないでしょう。でも、チェリーさんをほっといて外に出かけるなんて、出来るわけないでしょう」

「そ、そのとおりじゃ」

「だから、僕が作りますよ。味はチェリーさんの足元にも及びませんが」

「そ、そうか」

〔信じられん。仕事以外で男が料理を作るとは。異国の男はみんなこうなのか〕

 大きく口を開けたカンボジをよそに、一郎は料理の支度に取りかかった。

 

         〇

 

 マルカム王国の主食はパスタ、それもスパゲッティだった。

 スパゲッティをうまくゆでる自身がなかった一郎は、茹で過ぎにした麺で焼きそばに切り替えることを思いついた。キャベツや、ソーセージに似たもの、卵を一緒に炒めて即席の焼きそばが出来上がった。

 味はまあまあの出来だった。

 カンボジは焼きそばを見るのが初めてだったらしく、最初はびっくりしていた。食べてみて意外といけることが判って、二度びっくりした。

「これが異国の料理なのか」

「本当は、炒めることが目的の麺で作るんですが、うまくいったでしょうか」

「うまく行くと言うより、こいつは結構おいしいぞ。これで料理屋を始めてもいいぐらいだ」

「お褒めに与り恐縮です、老師」

 カンボジは焼きそばの皿の中にフォークを置いてため息をついた。

「どうかしました、老師」

「おまえを見ていると、男とか女とか区別をするのが難しくなるな」

「僕はれっきとした男ですよ」

「それはそうじゃが」

「僕の国では、男と女には同じ権利が与えられているんですよ。同じ人間ですからね」

「なるほど。男でも料理は作るし、女でも力仕事をする国ということか。まさか、男でも子供を作ることができるとか」

「いや、そこまでは」

 破顔一笑。一郎とカンボジは声をあげて笑った。

 それから、一郎はカンボジの協力で薪割りを夕暮れまでに終わらせた。

 夕食はちゃんとしたパスタに挑戦しようとした一郎だったが、スパゲッティに芯が残って残念ながら失敗に終わった。

 日が落ちてしばらくしても、チェリーは目が覚めなかった。

 

         9,

 

 日が沈んで二、三時間が経った頃、一郎はもう一度チェリーの部屋をノックしてみた。

 中から返事はなかった。

「チェリー先輩、失礼します」

 ドアを開けたが部屋の中は静まり返っていた。

〔よほど熟睡しているんだな〕

 一郎は手にコップとおしぼりの載ったお盆を持っていた。

 一郎はお盆を机の上に置くと、チェリーの顔色をうかがった。

〔特に異常はない、か〕

 チェリーの額に少し汗が浮かんでいた。

 一郎はお節介と思いつつも、冷えたおしぼりでその汗をふき取ろうとした。

 チェリーが目を覚まさないように、力を入れず、おしぼりに自然に吸い取らせるように汗を拭くつもりだった。

 おしぼりが額を離れた瞬間だった。

 眠っていたと思ったチェリーの手が一郎のおしぼりを持つ右手首をつかんだ。

「ご、ごめん。起こすつもりはなかったんだ。た、ただ、汗、かいてるようだったから」

 一郎は次の瞬間平手打ちが飛んでくるかと思って目をつむった。

「‥‥」

 チェリーが何か言ったようだった。

 一郎は目を開けてチェリーを見た。

 薄く開けた目に涙をためて、チェリーは何かを訴えようとしていた。

「チェリー、先輩?」

 チェリーの口が動いた。

「行かないで」

 か細い声が聞こえた。

「え」

「お父さん」

〔なんだ。寝ぼけてるのか〕

 チェリーは目を閉じた。涙が滑り落ちてシーツを濡らした。

「お父さん、行かないで」

 小さな声だがはっきりと聞こえた。

 一郎はしっかりと握られた手を見つめて考えた。

〔お父さんか。確かチャレンジャーと一緒に今のワールドマスターと戦って、帰ってこなかった、とか。やっぱり、死んじゃったのかなあ〕

 一郎の手を握る力が強まった。

〔このままはまずいよなあ〕

 一郎はゆっくりと、指を一本ずつ外そうと試みた。しかし、食い込みそうなほどしっかり握った手は簡単にははずせなかった。

〔押して駄目なら引いてみる、か〕

 一郎は、チェリーの手に左手を重ね、抑えた声でささやいてみた。

「大丈夫。どこにも行かないよ。チェリーの側にずっといるよ」

〔うーん。自分で言ってて恥ずかしくなるなあ〕

 だが、効果はあった。チェリーの手の力がゆるんだように感じられた。

〔よしよし、いい子だから、手を放してくれるかな〕

 一郎は祈るように心の中で言った。

 一郎が握ったチェリーの指を剥がそうとすると、再び力が込められた。

〔失敗か〕

 一郎は強引にふりほどこうかとも考えた。しかし、チェリーの握る力でも、ヒビの入った腕にかすかな痛みが走っていた。

〔どうするか〕

 悩んでいる一郎の背後からカンボジが声をかけた。

「どうした、イチ・ロー?」

 一郎は体をビクッと震わせ、振り向いた。

「ろ、老師、驚かさないで下さい。いつの間に入ってきたんですか」

「ふぉっ、ふぉっ。そんなことより困っておるようじゃが」

「チェリーさんが手を放してくれないんですよ」

「なるほど」

 カンボジは一郎の手をしっかりと握ったチェリーの様子を観察すると、大きく頷いた。

「待っておれ」

 カンボジは部屋を出た。

 カンボジの言葉に一郎はほっと胸をなで下ろした。

 カンボジが戻ってきたとき、両手に抱えていたのは、どこから持ってきたのか、背もたれのない長椅子だった。

「老師、まさか」

「今日はここで眠るとよい」

「そんな。明日、チェリーさんが目を覚ましたら殺されるかもしれませんよ」

 殺されないまでも、平手打ちの十ダースは食らうかもしれない、一郎はそう考えてぞっとした。

「そのときは、自分のお節介を後悔することじゃ」

 カンボジは長椅子を一郎の背後に置いた。

「それじゃ、おやすみ、イチ・ロー」

 低く含み笑いを残して、カンボジは部屋を出ていった。

 残されたイチ・ローは呆然と長椅子に腰を下ろした。

 一瞬、チェリーの手を強引に剥がそうかとも考えたが、一郎はあきらめて長椅子に横になった。

 右手を掴まれてはどうしてもチェリーと顔を合わせる体勢になってしまう。

 チェリーの寝顔を見て、一郎はこれでいいのかもしれないと思った。

 まだ涙の跡は乾いていなかった。

〔ねぼけててもなんでも、彼女がつかまりたかったのなら、それでいいや〕

 一郎はあきらめて目を閉じ、眠りに入った。

〔おやすみ。いい夢を、ね〕

 

         10,

 

 目が覚めたチェリーは、目の前にある顔を見て、夢の続きを口にした。

「お父さん?」

「え?」

 返事をした男の声は若かった。

 その声にチェリーはあっという間に現実に引き戻された。

「イチ・ロー?」

 それに対する返事はどこか間延びしていた。

「はい」

 チェリーは一郎の手を放したが、チェリーは一郎に手を握られていたと勘違いした。

 チェリーは飛び上がるように上半身を起こした。

 チェリーの顔が熱く真っ赤になった。体を揺すられるような恥ずかしさを感じたあと、猛烈な怒りが湧いてきた。

「あんた、恥ずかしくないの?」

 チェリーの声は震えていた。爆発寸前のチェリーはまだ怒りのエネルギーを限界まで溜めようとしていた。

 対する一郎はチェリーの怒りを察するどころか、まだ寝ぼけ眼だった。

「この変態色魔!」

 チェリーは怒りを爆発させ、右足で一郎の横たわっている長椅子を蹴り飛ばした。

 あっけなく長椅子は横倒しになり、一郎は投げ出され、壁際まで転がった。

 椅子から落ちた衝撃で、一郎もやっと目が覚めた。

 チェリーはベッドを下りて、床に転がった一郎の腹を踏みつけた。

「ぐっ」

「薬で動けなくなったあたしに、なにをしたの? 言ってご覧なさい。正直に言ったら、ご褒美をあげるわ」

 怒りを抑え無表情に見下ろすチェリーに、一郎は寒気を覚えた。

「ほら」

 声とともにチェリーは一郎を踏みつける足に力を込めた。

「何か言ってごらん」

 一郎は苦しさに顔を歪ませた。

 そのとき、ばんと扉を開けてカンボジが入ってきた。

「おじいちゃん?」

 チェリーは初めてカンボジの怒りの表情を見た気がした。

「チェリー、その足を離しなさい」

「いやよ! 今日こそ、この不潔な男に思い知らせてやるんだから」

「チェリー、おまえこそ一郎に何をしたのかよく見るんじゃ」

「当然でしょ。この男はあたしが薬を飲んで動けないのをいいことに、‥‥」

「よく一郎の右腕を見るんじゃ」

 カンボジの言葉にチェリーは一郎の包帯の巻かれた右腕を見た。

 包帯が肘に向かってずれていた。その手首のあたりに紫色の手の形をした痣があった。指先が食い込んで内出血をしたようなあとがあった。

〔まさか〕

 チェリーは飛び退くように、後ずさりした。

 一郎は腹の辺りをさすって上半身を起こした。

「老師、もう少し早く助けに来て下さいよ」

 一郎はある程度覚悟をしていたので、不思議に怒りが湧いて来なかった。

「無理言うな。ワシも今起きたばかりじゃ」

 一郎はゆっくり立ち上がった。その顔は安堵感から笑みを浮かべていた。

「でも、おかげでこの程度で済みました。老師、ありがとうございます」

 一郎は右手の跡を左手でさするように覆い隠した。

 一郎はチェリーの方を振り向いて深々と一礼した。

 チェリーは不審の眼差しで一郎を見た。

 顔を上げた一郎はばつの悪そうな顔をしていた。

「チェリー先輩、朝早くからお騒がせしてすみませんでした」

 チェリーは一郎の視線を避けるようにさっと視線を床に落とした。

 一瞬、チェリーの視線が一郎の右腕を求めて動いた。

〔あれは、あたしがやったこと、なのね〕

 朝日が昇って明るくなって、一郎の右腕は一層鮮やかな紫色を浮かび上がらせていた。

 チェリーは振り上げた拳の行き場を失い、唇をかんで堪えていた。

 ぱたんとドアが閉まった音がした。

 チェリーが視線をあげると、一郎とカンボジは部屋を出ていったあとだった。

「なによ」

 ドアを見つめてチェリーはぽつりと漏らした。

〔悟ったように澄ましちゃって〕

 チェリーは体ごと投げ出すように、ベッドに腰を下ろした。

〔どうして怒らないのよ〕

 チェリーは机の上の水差しとコップをつかんだ。コップにたっぷりと水を注ぐと、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

 コップと水差しを机に戻そうとして、チェリーははっと気づいた。

〔あたし、昨日、こんなの用意したかしら?〕

 机の上に目をやると、丸いお盆があって、おしぼりが載っていた。

 チェリーは手の中のコップと水差しを見比べた。

 チェリーでないとしたら、答えは一郎しかない。

 コップにもう一杯水を注ぐと、チェリーはまた一気に飲み干した。

 

         11,

 

 チェリーがおしぼりを手に持って見つめていると、ドアがノックされた。

「どうぞ」

 チェリーの返事で入ってきたのは一郎だった。

 一郎は大きなお盆を抱えるように持っていた。

「朝食にしませんか、先輩」

 一郎は何事もなかったように笑顔を見せた。

 一郎の持ったお盆は、机の上に置かれた。

 目の前の料理はどれもチェリーの見たことのないものだった。

 一つはスープ。透明で少し赤みがかかっていた。海草がふんだんに使われていて、大根と人参の千切りが浮かんでいた。

 もう一つは麺を茹でただけのもの。

 最後の一つは黒が透き通るスープだった。

「なに、これ?」

「あり合わせのもので作ってみたんですけど」

 チェリーは驚いて一郎を振り返った。

「あんたが作ったの?」

「はい」

 チェリーはもう一度一郎の作ったという料理を見た。

〔これがさっきの仕返しだとしたら、結構せこいわね〕

「ちゃんと、自分で、食べてみたんでしょうね?」

「もちろん。でも、おおざっぱな舌をしてますから、細かな味までは作れませんけど」

「ふーん」

 チェリーはスープの入ったお椀を両手で持ち、匂いを嗅いでみた。

〔いい香り。食欲を刺激するわ。少し魚の匂いが混じってる〕

 チェリーは慎重に口を付けた。

 一郎は少し緊張した面もちでチェリーを見守っていた。

「あ、おいしい」

 そのチェリーの声で一郎はほっと胸をなで下ろした。

 チェリーはお椀を置くと、スパゲッティのはいった皿を指差した。

「これは?」

「そっちのソースに浸けて食べてみて下さい」

 チェリーは一郎の言うとおり、スパゲッティをフォークに巻き取りソースに浸した。

 スパゲティを口に運んだチェリーは思わず顔をしかめた。半ば強引に飲み下したチェリーの次のセリフは、こうだった。

「なに、これ? ちょっと、酸っぱいわよ」

「少しさっぱりとした味付けがいいかと思って、夏ミカンの汁を垂らしてみたんだけど、多すぎましたか」

「こんな味付けを思いつくとは、異国から来ただけあるわね」

「だめ、ですか」

 チェリーはスープに口を付けてから言った。

「合格よ。異国の味付けも悪くないわね。ちょっとびっくりするけど」

 チェリーの和やかな表情に一郎は満足そうな笑みを浮かべた。

「あっさりした味付けの方でよかったですか?」

「うん」

「お代わりを持ってきましょうか?」

「もう一杯、お願いするわ、イチ・ロー」

「解りました。待っててください」

 一郎は笑顔で部屋を出た。

 チェリーも釣られて一郎を笑顔で見送っていた。

 しかし、部屋の中でまだ長椅子が転がったままになっているのを見て、チェリーははっと気づいた。

〔さっきまで、あたし、あんなに怒っていたのに〕

 チェリーは、ベッドから下りて長椅子を立て直した。それからベッドの端に腰を下ろして、長椅子を眺めてじっと考えた。

〔もう一度、確かめてみよう〕

 

         12,

 

 一郎は湯気が昇るスープを持ってチェリーの部屋に戻ってきた。

 チェリーはベッドの上で上半身だけを起こしていた。

「お待ちどうさま」

「待ってました」

 チェリーは一郎からスープの入ったお椀を受け取ると、すぐに口を付けた。

 一郎の目の前でスープは一気に飲み干された。飲み終わったチェリーは満足げな笑みを浮かべていた。

「あー、おいしかった」

 空になった皿を机の上に置くと、チェリーはシーツの中に潜り込んだ。

 一郎はその皿を片づけようと手を伸ばした。

「待って」

 チェリーは、一郎の手をつかんだ。

〔今度は寝ぼけてなどいないはずだが〕

 一郎はやや不思議そうにチェリーを見つめた。すると、チェリーは恥ずかしそうにうつむいて喋った。

「一眠りするから、眠るまでここにいて」

〔俺の料理が利いたのかな〕

 起き抜けにすごい剣幕で一郎を罵倒したときとは大違いに、チェリーはおとなしくなっていた。

 チェリーはいったん一郎の手を放すと、右側を下にして、一郎の方を向いた。そして、シーツの下から左手を伸ばした。

「イチ・ロー、手を出して」

 長椅子の上に腰を下ろすと、一郎は言われるままチェリーの目の前に左手を差し出した。

 チェリーの視線が一郎の顔と左手の間で何度も往復した。

「手」

 チェリーはおずおずと切り出した。

「握っててくれる」

 一郎は左手をそのまま横へ動かし、チェリーの左手と重ねた。そのまま優しく包むように一郎は左手を閉じた。

「こう?」

 チェリーは目を閉じて頷いた。

 一郎はこのときチェリーの寝巻きの胸のボタンがはずれているのに気づいた。少しはだけられた寝巻きはチェリーの肌を覗かせていた。

 寝巻きの上からでもチェリーの胸の膨らみは判るし、そのカーブが作り出す谷間も寝巻きの開いた部分から確認できた。

〔役得かな〕

 一郎がそう考えたのは一瞬で、訪れた静寂の中、体は完全に固まっていた。

〔何してるのよ。さっさと本性を現しなさいよ〕

 チェリーは待った。一郎が自分の体に何らかの興味を示していたずらをするのを。

〔男なんて、スケベな生き物なんだから〕

 一瞬別の声がチェリーの心の中に浮かんだが、チェリーはそれを胸の奥底に追いやった。

 だが、静寂は破られなかった。

 目を閉じながら眠った振りをするのも辛いものがあった。本当に眠気が起こってチェリーはうとうととしかけた。

 チェリーがはっと気づいたのは、一郎の手が離れたからだった。

 一郎は皿に手を伸ばして片づけようとした。

 一郎が椅子から腰を浮かせようとしたとき、チェリーはあわてて声をかけた。

「待って」

「なんだ。まだ、寝てなかったんですか」

 チェリーは上半身を起こして不思議そうに一郎を見つめた。

「一つ聞いていい?」

「どうぞ」

 浮かしかけた腰を一郎は椅子の上に落ち着けた。皿は膝の上に引き寄せられていた。

 チェリーは一郎に積もりに積もった疑問をぶつけた。

「その、薬とか、水とか、ファレーの件とか、なんでそんなに詳しいの?」

「妹がいるんですよ。先輩と同い年の」

 言ってて不思議な気がしたが、一郎は構わず続けた。

「以前チェリー先輩と同じように家にかつぎ込まれたことがあって、それを思い出したんです」

「どうして料理ができるの?」

「前にも言ったとおり、家を出て一人で生活することが決まってましたから、困らない程度に母から習ったんですよ」

「そう」

 チェリーは、納得したように頷くと、またシーツをかぶって横になった。

 今度は一郎に背を向けるように、チェリーは左側を下にした。

 一郎は立ち上がると、盆を持って部屋を出ようとした。

「ねえ」

 チェリーは背中を向けたまま声をかけた。

「何ですか」

 一郎はお盆を持ち直した。

「どうして怒らないの?」

「怒った方がよかったんですか」

「年下の、それも女に、『先輩』って呼ばさせられて、好き放題に言われて、殴られて、蹴られて」

〔改めて列挙すると、ひどいと思える〕

「あたしが男だったら、絶対にやり返してるのに」

「そりゃまあ、確かに腹の立ったときもありましたよ。でも」

「でも?」

「僕にとってこの国は見知らぬ土地ですから、習慣というか、礼儀作法みたいなものは全然判らないんですよ。だから、ここで生活していく上にはできるだけ知らなきゃいけない」

 そこで一郎はすまなさそうに頭をかいた。

「というのは、甘い考えでした。ここへきてそれがよくわかりました。なんにでも興味を示すのは例え一度きりでも許されないことがある。チェリー先輩はそれを教えてくれました」

 一郎は頭を軽く下げた。

「ありがとうございました。また、明日からもよろしくお願いします」

 チェリーは返事をしなかった。

 ぱたんとドアが閉められたとき、チェリーはぎゅっと唇をかんだ。

〔なんで、そこでお礼が言えるのよ〕

 チェリーは脳裏に赤い帯を手にとってにやけている一郎を思い浮かべた。

〔あいつは、ただのスケベで、変態な男なんだから、気にすることなんてないのよ〕

 そう思いつつ、チェリーは別の想いが過ぎった。

〔お礼を言うのは、あたしの方じゃないの?〕

 二つの思いがチェリーの中で交錯した。

〔変態男に何を言っても無駄よ〕

〔あたしをここまで運んでくれた。腕を怪我してるのに〕

〔男なんてスケベですぐ鼻の下を伸ばすんだから〕

〔夢の中で握ってたお父さんの手、本当はイチ・ローの手だったんだ〕

〔男は女のことをモノとしか思ってないんだから〕

〔あたしのために料理を作ってくれたんだ〕

〔男なんて〕

 そのとき、フィビーの顔が浮かんだ。

〔わかったわ。お姫様の勝ちよ〕

 チェリーはフィビーとの約束を思い出した。

〔明日、イチ・ローに会ったら〕

 チェリーは心の中でほぐれた糸を一つに縒り合わせるように気持ちを落ち着けると、深い眠りについた。

 

         13,

 

 翌朝、一郎の最初の日課は、洗濯だった。

 この世界に何の荷物も持たずにきた一郎には、着替えの少なさが悩みの種だった。どうしても洗濯が毎日必要になってしまっていた。

 右手を負傷していては洗濯も思い通りにはかどらなかった。当たり前のことだが、この世界には洗濯機がない。もちろん電気を使うような器具もない。

 大昔のたらいと洗濯板を使った洗濯スタイルが全てだった。洗濯板と言ってもただの平らな板で、たらいも木製の大きな桶という感じがした。

 一郎は裏庭の隅でたらいの前にしゃがんで洗濯物と格闘していた。

〔しかし、右手が使えないというのは、ホントに不便だよなあ〕

「全く、見ちゃいられないわね」

 一郎の背後でチェリーの声がした。

 振り返ると、いつもの稽古着を着たチェリーが立っていた。

 すっかりよくなったのか、チェリーの顔は明るく輝いていた。

「おはようございます、先輩」

「おはよう、イチ・ロー」

 チェリーは一郎の肩を軽く押した。

「ほら、替わって」

 一郎は、一瞬耳を疑った。疑いつつも、体はチェリーの手の動きに抵抗することなく横へ移動した。

 チェリーはたらいの前にしゃがむと、慣れた手つきで洗濯の続きを始めた。

 一郎は呆気にとられて、チェリーのすることを見つめていた。

「これで全部?」

 チェリーは洗濯籠を指差した。中に入っているのは下着だった。

「ええ。だけど、これは」

「いいから、やらせて。薪割りでもしてたら?」

 それは信じられないほど優しい口調だった。

〔逆らわない方がいいかな〕

 一郎は立ち上がるとその場を離れた。

「じゃあ、お願いします」

 一郎は薪割りに向かった。

 薪を百本割ったところで、チェリーがまた声をかけてきた。

「イチ・ロー、ちょっと、いい?」

「なんですか」

「いいから、ちょっと来て」

 チェリーの手招きで一郎は、家の中に入った。

 チェリーが案内したのは、道場とチェリーの部屋の中間にある部屋だった。

〔そう言えば、この部屋、まだ一度も入ったことがなかったな〕

 部屋の中の作りはチェリーの部屋とほぼ同じだった。簡単な机と椅子、ベッドが置いてあった。

「今日から、ここの部屋を使ってくれる?」

「え、いいんですか?」

「いいわ。ここ、お父さんが使ってた部屋なんだけど、もう誰も使わないから」

「じゃ、お父さんの思い出とか、詰まってるんじゃないんですか」

「いいのよ。それに、もう夏だから、道場で寝てると虫に刺されるわよ」

〔確かに〕

 しかし、一郎にはチェリーの態度の変貌ぶりがまだ信じられなかった。

「シーツと毛布はあとで持ってくるわね」

 一郎は素直に自分の疑問をチェリーにぶつけてみた。

「どうしたんです、急に。まるで別人みたいですよ」

 チェリーははにかんだように一郎の視線を避けた。

「一晩、考えたのよ」

〔何を〕

「一郎は動けなくなったあたしをここまで運んでくれたし」

〔結構大変だったな〕

「あたしの代わりに料理を作ってくれたし」

〔おいしいって言ってくれたよな〕

「あたし、一郎の胸で吐いちゃったでしょう」

〔ちょっと気持ち悪かったかな〕

「だから、この借りは、結構大きいと思うのよ」

〔だから、洗濯してくれたり、部屋を提供して、罪滅ぼしのつもりかな〕

「なのに、あたし、イチ・ローのこと、ぶったり、蹴ったりして、われながら、ひどいとは思うのよ」

「もういいですよ、先輩」

 一郎が話を打ち切ろうとした気配を察したのか、チェリーは声を大きくした。

「お願い。最後まで聞いて」

〔はいはい、わかりました〕

「だから、イチ・ローの修行が終わるまでの間、イチ・ローの洗濯をするわ」

〔なんだ、そういうことか〕

 一郎は一瞬承諾しかけた。

〔でも、人に謝る態度じゃないよな。『するわ』なんて、勝手に決められても困るよな〕

 一郎は心の中でチェリーにそうつっこみを入れていた。

 それが口から出なかったのは、チェリーの表情が真剣に訴えていたからだった。

「わかりました。お願いしますよ」

 一瞬の間はあったものの一郎が快諾したので、チェリーは少しほっとした表情を見せた。

 それから無言の間が続いたので、一郎は話が終わったものと、背を向けて部屋を出ていこうとした。

「イチ・ロー」

 チェリーは呼び止めた。

 一郎はチェリーの唇が動くのが見えただけで聞こえなかった。

「なんですか」

 チェリーの唇がもう一度動いた。今度は小さい声だがはっきりと聞こえた。

「ありがとう」

 言い終えた直後、チェリーの顔は真っ赤になった。

 一郎は間をおかずに言った。

「どういたしまして」

 一郎はチェリーの態度の急変ぶりが何となくわかったような気がした。

〔ありがとう、を言うために、こんなに苦労した訳か。それだけ男を警戒して生きてきたのかな〕

 部屋を出ていこうとする一郎をチェリーはもう呼び止めなかった。

 チェリーは心に溜まっていたものをやっと吐き出して、安心していた。

 

         〇

 

 一方、城の中ではフィビーの修行が行われていた。

 その修行が一時休憩となって、フィビーは自分の部屋に戻ってきた。

 一緒に付いてきた侍女がフィビーにお伺いを立てた。

「姫様、何か、冷たいものでもお持ちしましょうか」

「そうね。よいようにして」

「かしこまりました」

 侍女が部屋を出て戻ってきたとき持ってきたのは皮をむいた桃だった。

 桃の載った皿を置いて、侍女が下がろうとしたとき、フィビーが呼び止めた。

「あなた、通ってるのよね」

「はい」

 侍女は頭を下げたまま応えた。

「あなたの家はカンボジ師範の近くかしら」

「お城までの通り道の途中に、師範の道場を存じ上げております」

「それでは、ひとつ、お願いを聞いてもらえるかしら」

「畏れ多いことです。何なりと、お命じ下さい」

「その道場で若いお方が修行をしていると思うのだけど、そのお方に見つからないように、そのお方の側に桃を置いてきて欲しいの」

 侍女の返事が遅れたので、フィビーは念を押した。

「難しいかしら」

「いえ。大丈夫です。ご安心下さい」

「そう。お願いね。ああ、それから、このことは他言無用よ。誰に聞かれても誤魔化すの。いいわね」

 侍女は納得したように頷き、深々と一礼して部屋を出た。

 侍女が部屋を出ていったところで、フィビーは一郎からもらったテレホンカードを取り出した。

〔わたしも、連れていって下さるかしら〕

 カードの中の景色を見つめて、フィビーは一郎の世界に思いを馳せた。

 こうして、一郎は稽古の途中にいつの間にか置かれた桃を口にするようになった。

 

         〇

 

 二週間が過ぎ、一郎の右腕はすっかり元通りに治った。

 ある程度の体力が付いたところで、一郎は型を覚える修行に入った。

 それも一ヶ月が過ぎると、実際に相手と組んで実践に近い修行に変わった。相手はカンボジよりもチェリーとすることの方が多かった。

 それから二ヶ月が過ぎた。

 夏も終わりに近づき、作物の収穫の話が多く聞かれるようになると、人々の空気がそわそわと落ち着かなくなってきた。

 「収穫祭」が近づいているからだった。

 


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