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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。


「ワールド マスター 1  〜 マルカム王国編 〜」

ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)


 第五章 「城下町の出会いと別れ」

 

         1,

 

「お姫様」

 ヴィジーは人なつこい笑顔で覗き込むように、フィビーに話しかけた。

「イチ・ローさんて、どこの国の人なの」

 星明かりの下、馬車の荷台に揺られながら、フィビーは星空と広がる麦畑を眺めていた。

 ヴィジーに一郎の名前を出されて、フィビーの胸が一瞬高鳴った。

「確か、ニッポンとか」

「何ですの、そのニッポンとかいう国は」

「イチ・ロー様の話だと、ワールドマスターがいない、平和な国だそうよ」

「ワールドマスターがいない?」

 ヴィジーはぽかんと口を開けた。信じられないといった表情だった。

「少なくともイチ・ロー様は、ワールドマスターのことを全くご存知なかったわ」

「お姫様、それを信じられたのですか」

「ええ」

「確かに変わった服を着てるし、態度が田舎っぽいけど、ワールドマスターがいない世界なんて信じられない」

「でも、わたしの知らないことをよく知っていて、このリアニの実を手に入れられたのも、砂漠を二人で無事に渡ってこれたのも、全部イチ・ロー様の考えなのよ」

「確かに、水鉄砲で刺客を倒すなんて、想像もできませんでした。でも、力の方はちょっと物足りなくありません」

「でも、知恵と勇気で、あのサンドボーラーを素手で倒したの」

 フィビーの言葉にヴィジーは目をむいて驚いた。

「それはすごいですね」

 それきり、ヴィジーは言葉を失ったように黙り込んだ。

 フィビーはそれに満足したように笑みを浮かべた。今のヴィジー以上に、フィビーは一郎にいい意味で驚かされっぱなしだった。その気持ちのひとかけらでもヴィジーに味わって欲しかった。

「じゃ、ずうっと側にいてくれたら、最高ですね」

 ヴィジーの不意の一言が、フィビーを動揺させた。

「だ、だめよ」

「何が、だめなんです」

「イチ・ロー様は、ご自分の国に帰りたがってるの。いつまでも、ここにはいられないわ」

 言い放ってから、フィビーは城へ近づくごとに、一郎との別れが近づいていることに気づいた。気づいて、胸がぎゅっと苦しくなった。

 

         2,

 

 一方、パンコムと一郎も話し合っていた。

 夜道で手綱を握っているパンコムは、前方から目が離せなかった。

「ニッポン? 聞いたことのない国だな」

「そこから来たんです」

「どうやって」

「それが、わからないんです」

「そんなばかな」

「いや、本当なんです。ここに来るまで、自分の家で、勉強していたことまでは覚えているんですが」

「ふーん。じゃ、マルカム王国に来たのは?」

「この世界へ来て、最初に会ったのがフィビー姫だからですね。別の国の人に会っていたら、その人に付いて、その人の国まで行っていたでしょう」

「お兄さん、正直だね。損するよ」

「え、何が、ですか」

「少なくとも、今のセリフはお姫様の前で言うんじゃないぜ」

「なぜです」

「女心ってものを、考えたことあるかい。『お姫様のことが好きで、どうしてもお姫様を助けたくて、付いてきました』というセリフと『最初に会った人だから付いてきました』というセリフ、どっちが感動的だ?」

 とても判りやすい例えに、一郎は胸を突かれる思いがしただった。

 一郎は大きくうなずいた。

 パンコムは、道が少し上り坂になったのを見て、馬に鞭を入れた。

「今度は僕が質問していいですか」

「おう、いいとも」

「この国に来る前は、何をしてたんですか」

 一郎の質問を予期していたのか、それとも聞かれたくないことだったのか、パンコムは短く舌打ちした。

「お兄さんだから、話すが」

 パンコムは少し言いづらそうだった。

「盗賊さ」

 一郎もある程度想像していたので、びっくりすることはなかったが、想像が当たった分どきりとした。

〔それで、家の中や馬車に凝った仕掛けがしてあるのか〕

「じゃ、ヴィジーさんが、ナイフを扱えるのは?」

「小さい頃からオレが仕込んだ。いざというとき、困らないように、な」

「そんな悪い人がなぜ人助けを?」

 「悪い人」と言われてパンコムは苦笑した。

「今のフィルー王妃様、あのお姫様の母上様には、昔、世話になったからな。おかげで足も洗えたし」

「ひょっとして、フィビー姫を知ってたんですか」

「お小さい頃なら、一度会ったことがある」

「それなら、そうと最初に言ってくださいよ」

 一郎はパンコムとフィビーの間に浅からぬ縁があったことに驚いた。

「お姫様が覚えているわけないし、それに元泥棒の言うことなんて、信用できるわけないだろう」

「でも、助けていただいたことを考えたら、絶対信用しますよ」

「ありがとよ」

 パンコムは馬に鞭を入れた。

「で、お姫様を城に帰したら、その後どうする、お兄さん」

「元の世界に、帰る方法を探します」

「どうやって」

「フィビー姫から、ワールドマスターという人なら、帰る方法を知ってるんじゃないかって聞きました」

「そうだな。ワールドマスターは、この世界で最強の剣士で最強の魔法使い、この世界のことを誰よりもよく知ってるお方だからな。お兄さんが帰る方法をご存知かも知れない」

「それで、その、ワールドマスターという人に会ってみようと思います」

「お兄さんの気持ちは分かるが、そう簡単に会えるお方じゃないぜ」

「でも、何とかなるんじゃないんですか」

 それを聞いて、パンコムはふっと笑った。

「じゃ、お兄さん、ワールドマスターがどこに住んでらっしゃるのか知ってるかい」

「それも、これから調べます」

「マスターランド、という島さ」

「へえ。どうやって行くんです」

「クルウアの港から船で、順調にいったとして、二週間と言うところだな」

「そうですか」

〔次の目標ができたな〕

 一郎の目は遠くを見つめるものに変わった。

「どうしても行くのかい」

「他に帰る方法があれば別ですが、今のところそれしかないようです」

「じゃ、一つ忠告するが、はっきり言って、今のお兄さんじゃ、途中でのたれ死ぬのが結末になるのは目に見えてる」

「どうすればいいんです」

「腕を鍛えな。自分の身を守るぐらいの腕がないと、この世界じゃ生きていけないぜ」

〔腕。剣道とか、格闘技のことか〕

「解りました」

 馬車は、三時間ほどして、小さな町に着いた。そこで四人は宿に一泊した。

 

         3,

 

 翌朝、一郎たちは日が昇り始める頃に町を後にした。

 馬車に積んであった野菜は、いつの間にかなくなっていた。どうやら宿代に消えたらしい。宿屋の主人が笑顔で一郎たちを見送っていた。

 あと半日で城下町というのに、フィビーの顔色がすぐれなかった。

「どうしたんです、フィビー姫」

 一郎が声をかけると、フィビーは元気に笑顔で答えた。

「昨日、興奮して眠れなかったんです。もうすぐ王城ですから」

〔なるほど〕

 フィビーのちょっと無理した笑顔と、その肌のつやと見比べ、一郎は慎重に言った。

「気分が悪くなったら、言ってください」

 一郎は少し心に引っかかるものを感じたが、パンコムの側に向かった。

「ほんとに、大丈夫、お姫様?」

 ヴィジーも少し不安そうにフィビーの顔をのぞき込んだ。

「ありがとう。あともう少しだから、大丈夫」

 笑顔を見せるフィビーに、ヴィジーも引っかかるものを感じたらしい。

 一郎がパンコムの隣に座ろうとしたとき、ヴィジーが駆け寄って一郎に耳打ちした。

「イチ・ローさん、席を変わって」

 一郎はそう聞いて、フィビーの方を見た。

 フィビーは荷台の端で、背中を見せて座っていた。

〔なんだか、元気がないな〕

 フィビーは誰にも知られないようにため息をついた。

〔『もうすぐ王城だから』なんて嘘。ずっと、イチ・ロー様のことを考えてた。王城に着いたら、イチ・ロー様とは、お別れだなんて〕

 フィビーは隣に人の気配を感じて、顔を向けた。ヴィジーかと思ったら、一郎が立っていた。

 急激にフィビーの鼓動が高まった。

「隣に座ってもいいですか」

 一郎の言葉にフィビーはただうなずくだけだった。

 一郎は「失礼します」と短く言うと、フィビーの右に腰を降ろした。

 直接触れてもいないのに、フィビーに一郎の体温が伝わってきた。

「パンコムさん、出してください」

 一郎は振り向いてパンコムに合図を送った。

 鞭を一振りする音が聞こえ、馬車は動き出した。

「いい天気ですね」

「ええ」

「お昼には、城下町に着きますよ」

「ええ」

 フィビーの素っ気ない返事に一郎は簡単に次の言葉が浮かばなかった。

「昨日、一晩寝ないで考えたんですけど」

〔え、イチ・ロー様も〕

 不思議な偶然にフィビーは少しうれしくなった。

「以前、フィビー姫がおっしゃられた、王城に着いたら、僕の希望をかなえてくださるという件ですけど」

「ええ、何でもおっしゃってください」

「剣の修行がしたいんです」

 フィビーは心の中で疑問符を着けた。

〔お国へ帰るために、ワールドマスターに会うというのは、どうなったのかしら〕

 そのフィビーの疑問に答えるように、一郎は続けてしゃべった。

「昨日の件で、自分に力のないことを思い知らされました。これから、この世界で少しでも長く暮らすには、剣の使い方を覚えないと」

〔暮らす、ここで〕

 フィビーの心の中で何かが動いた。

「ワールドマスターに会うまでに、のたれ死んじゃうんじゃないかって、パンコムさんに言われたんです」

「でも、イチ・ロー様が剣技も身につけられたら、怖いものはなくなりますわね」

「そうなるのに、三ヶ月かかるのか、一年かかるか、わかりませんけど」

〔そうよ。剣の修行なんて、そんなに簡単なものじゃないわ〕

「でも、イチ・ロー様なら、きっと大丈夫です」

 フィビーは言っていることと思っていることが正反対だった。しかし、目前の別れが引き延ばされたことに元気が出てきた。

〔よかった。まだ、お別れじゃなかった〕

 そのとき、優しい風がフィビーの方から一郎の方に吹き抜けた。

 フィビーの長い髪の毛が、風に誘われるように、一郎の肩に掛かった。

「あら」

 フィビーは優しい手つきで自分の髪をたぐり寄せた。

 一郎は自分の肩に残された甘い香りに少しどきっとした。

〔あいかわらずいい香りだな。なにか香水を着けてるんだろうか〕

 一瞬、フィビーに見とれていた一郎は、あわてて話題を切り替えた。

「そうだ。フィビー姫のお母さんて、どんな人なんです」

 フィビーが戸惑ったのを見て、一郎は「おや」と思った。

「イチ・ロー様、いきなりどうされたんです」

「いや、その」

 フィビーの表情は明らかに、聞かれて困ることを物語っていた。

「誰だって、母親は大事だと思います。でも、姫には何か特別な想いがあるような気がしたんです」

 無理に聞くことはできないと思って、一郎は言葉を引っ込めようとした。

「変なこと言いましたね。忘れてください、フィビー姫」

「いえ、イチ・ロー様になら、お話しします」

 フィビーは少し悲しげな表情を見せた。

 

         〇

 

「今の母は、二人目の母なんです。最初の王妃である母は、優しくて聡明で、兄やわたし、妹に公平に愛を注いでくださいました」

「子供心に、兄と妹は母と同じ金髪なのに、自分だけなぜ父に似て黒髪なんだろうと思ったりしました。でも、母が公平に扱ってくれたおかげで、そんな疑問は心の中に眠っていました」

「わたしが九歳のある日、母は病に倒れ亡くなりました。半年が過ぎてその悲しみがまだ癒えないのに、父王は二人目の母を娶ったのです」

「二人目の母は、黒い髪で、神聖魔法を使う元僧侶でした」

「兄はもの解りよく、従っていましたが、わたしと妹は、新しい母が大嫌いでした。わたしは母と同じ黒い髪が嫌で、よく絵の具で染めたりしました」

「わたしが十二歳のとき、国に伝染病が広がりました。母は魔法を使って国民すべてを治療しました。その無理がたたって、母は倒れてしまいました」

「そのあと、わたしと妹も伝染病にかかってしまいました。母が最後の力を振り絞って助けてくれたのは、わたしでした。代わりに妹は命を落としてしまいました」

「母に助けられたというのに、素直に喜べなかったわたしは、『妹を殺した』と母を詰りました」

「ついに見かねた父王がわたしに本当のことを話してくれました。二人目の今の母がわたしを生んでくれた本当の母だと」

「わたしは改めて、初めの母の愛の大きさを知りました。そして、二人目の母の愛の深さも」

「その母は今、重病に伏し、明日も知れぬ容態になりました。わたしは二人の母の愛に応えるために、旅に出る決心をしたのです」

 

         〇

 

 つうと頬を涙が伝った。

 それを見て、フィビーははっとなった。

「イチ・ロー様」

 涙を流したのは、一郎だった。

「何と言っていいか。その、つまり、感動しました」

 一郎はあわてて、自分の涙を拭い去った。

「お二人とも、その、素敵なお母さんですね。フィビー姫も、ご立派です」

〔まいったなあ。こういう話に、僕、弱いんだよね〕

 一郎は、努めて明るい笑顔を作ろうとした。

「ははっ、男が涙を流しては、おかしいですよね」

「いいえ」

 フィビーは一郎の左手の上に自分の右手を重ねた。

「イチ・ロー様の流した涙、今のわたしにはどんな宝石よりも輝いて見えました」

 真剣なフィビーの眼差しに、一郎は戸惑った。

 

         4,

 

 不意に馬車が止まった。

 思わず前のめりに馬車から落ちそうになったフィビーを一郎は両手で抱き止めた。

「着いたぜ、お姫様」

 馬車は坂の頂上で止まった。

 振り返った一郎は小高い丘の上にそびえ立つ西洋風の城を見た。

〔こりゃまた、童話に出てくるようなお城だな。アラビア風の衣装と若干合ってないぞ〕

 城を中心に今まで通過してきた町とは比べものにならない規模の建物が、城の周囲を埋め尽くしていた。

〔さすがに、首都だけのことはある〕

 パンコムは手綱を引き締め、馬をおとなしくさせると言った。

「さあ、ここでお別れだ」

「え、パンコムさん、行かないんですか」

 一郎は疑問の声を上げた。

「ああ、戻ってやらなきゃならないことがあるからな」

〔そうだ。宿は死体が転がったままだった〕

 一郎とフィビーは、馬車から降りた。

 パンコムは馬を巧みに操り、馬車の向きを変えた。

「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」

「パンコムさん、ヴィジーさん、ありがとうございました」

 一郎はパンコムに駆け寄ると、深々と一礼した。

「イチ・ローさん、落ち着いたら、また店に来てね。あと、宿の宣伝もよろしく」

 ヴィジーは茶目っ気たっぷりに一郎にウインクをして見せた。

「は、はい」

〔ヴィジーってよくわからん子だ〕

「パンコム様、ヴィジー様、このご恩は、‥‥」

 とフィビーが言いかけるのを、パンコムはあわてて制した。

「おい、もうよしてくれ。恥ずかしくてかなわん」

 パンコムは、急いで馬車を出発させた。

 しかし、馬車少し動いてすぐに止まった。

 パンコムは一郎に手招きをした。

「なんですか」

 一郎が駆け寄ると、パンコムはそっと一郎に耳打ちした。

「いいか。最後まで気を抜くんじゃないぜ」

 その言葉に一郎は緊張した。

「まさか、まだ」

「当たり前だ。このままお姫様を黙って城に入れるほど、敵はお人好しじゃない」

「じゃ、なんで、パンコムさんは付いて来てくれないんですか」

「お兄さんが油断さえしなきゃ、あとは大丈夫だからさ」

「つまり、派手には襲ってこない、ということですか」

「そういうことだ。うまくいくことを祈ってるぜ」

 パンコムは鞭を一振りし、馬車を動かした。

「パンコムさん、ありがとうございました」

 一郎は大声でパンコムの気持ちに答えようとした。

 ヴィジーは振り返って一郎に手を振った。

 パンコムは片手を上げて応えた。

 パンコムの馬車が坂の向こうに消えるまで、一郎は見送り続けた。

 パンコムがいなかったら、砂漠で干からびて死んでいたかも知れないし、城門の町で襲われ死んでいたかも知れない。何よりここまでたどり着けなかったかも知れない。

 フィビーも一郎と同じ気持ちだった。フィビーも一郎の側に立ってパンコム親子を見送った。

 パンコムの馬車が見えなくなって、一郎はフィビーを促した。

「それじゃ、行きましょうか」

「ええ、イチ・ロー様」

 旅の終点まで、あとわずかだった。そう思うと今まで苦労してきたかいがあったと思う反面、一郎はパンコムが最後に残した言葉に気を引き締めた。

〔百里を行くものは九十九里をもって半ばとす、か〕

 

         〇

 

「どうだ、行ったか」

「ええ、今、城下町に入るところよ」

「よし、じゃ、お芝居もここまでだ」

 そう言うとパンコムの姿は、溶けるようになくなり、ぼろ布にくるまれた球体のようなものが現れた。

 ヴィジーの姿は、少女から大人の女に変わっていった。

 二人が乗っていた馬車も、かき消すようになくなった。

 猿人の森から一郎たちを見張っていたウィズとコンプの姿がそこに残った。

「結局、あのボウヤに関しては、何も解らずじまいということね」

「だが、あの少年の可能性というか、知識は驚異だ。あの異国の服でなぜ電撃が起こるのかは謎のままだ」

「これでますます、あのボウヤから目が離せなくなるわね」

 ウィズの体がふわりと宙に浮いた。

「行くのか」

「ちょっと行って、焚き付けてくるわ」

 ウィズは何か呪文のようなものを唱えると、その場から消えた。

「では、わたしも、マスターにご報告してくるか」

 コンプの姿はあっと言う間に空高く昇って、見えなくなった。

 

         5,

 

 暗い部屋で二人の男が話し合っていた。

「失敗したのか」

「どうやら、異国の男に全員やられたようです」

「甘く見すぎたか。で、その後は、どうなった」

「残念ながら、城門の手駒をすべて使いましたので、監視するものはおりません」

 そこに若い女の声が加わった。

「フィビー姫と異国の男なら、もう城下町に着いてるわよ」

 二人の男は、女の声の方へ振り向いた。

「おお、あなたさまは」

「ウィズ様でございましたか。これはご機嫌うるわしゅう」

「あなた達の思惑通りにはならなかったみたいね」

「いえ、まだまだでございます」

「そうですとも。ワールドマスター様には、我らが必ず御意に沿いますと、お伝えください」

「ふーん。期待していいのね」

「邪魔なチャレンジャーの剣は、我らの手で必ず封印してみせます」

「ですから、マルカム王国の安泰は必ず」

「わかってるわよ。それができたら、マルカム王国の来年の豊作も、保証してあげる」

「おお、ありがたいお言葉」

「じゃ、わたしは、マスターにご報告してくるわ。期待してるわよ」

 そう言うと短い呪文を唱え、ウィズはその場から消えた。

「どうすればいい。フィビーは城下町まで来ていると言うではないか」

「手のものに探させますが、その前に城内に入られる可能性もあります」

「むう、なんとしても、フィビー姫が王妃に近づくのは阻止せねば。城の中の手配はわたしがやろう」

「お気をつけください。リーアン王子も、すでに城内に戻っております。うかつなことはできませぬぞ」

「わかっておる」

 

         6,

 

 今までとは比べものにならないほど、にぎやかな町だった。

 通りを歩いている人、道に店を出している人、みな明るい表情でやりとりをしている。

〔この国は結構うまくいってるんだ〕

 しかし、その明るい表情もなぜか一郎をちらっと見ると曇ってしまった。

〔そうか。僕が目立ってるのか〕

 一郎は自分の服装が周りから浮いているのに気づいた。

「すみません、フィビー姫。こちらへ」

 一郎はフィビーを促すと、一本裏側の通りに入った。

「イチ・ロー様、どうなさったのです」

「僕の服装が、目立ちすぎるようです。目立たないように、裏通りを行きましょう」

「でも、なぜですの」

「パンコムさんに言われたんですよ。敵はまだあきらめていない、そうです」

「まさか、この城下で」

 一郎の言葉にフィビーは思わず周囲を見渡した。

「わかりません。敵は城の中にもいるかも知れません」

 にぎやかな通りと平行に走っていると思われる道を一郎たちは城に向かっていた。

 道も狭く、人通りも減って、一郎にとってはありがたかった。これなら、尾行してくるものがいても、隠れようがない。

 二時間ほど歩いて、王城が一郎たちの目の前にそびえていた。周囲は高さ五メートルほどの城壁に囲まれていた。

〔今度は、正面から入るか。敵がいても、もう迂闊なことはできないだろう〕

 一郎が考えをまとめようとしていたそのとき、フィビーが一郎の手を引っ張った。

「イチ・ロー様、こちらです」

 正門とは反対の方向に、フィビーは一郎を案内した。

 ほぼ城を半周するほど歩いて、着いたのはやや小さな扉の前だった。扉にはノブと鍵穴があって、鍵穴の脇の隙間から鍵がかかっているのが見えた。

「よく城を抜け出して、町へ遊びに行ったんですよ」

 フィビーはすぐ側の城壁に手を伸ばした。

 石を削って作ったような煉瓦が積み重ねられた城壁だったが、フィビーはそのうちの一個の煉瓦を引っぱり出した。煉瓦の上部は削られたようなくぼみがあった。

 そのくぼみに埋め込まれるように鍵が納められていた。

 フィビーはその鍵を取り出すと、素早く鍵穴に差し込んで回した。

 扉が内側に開いたのを確かめ、フィビーは鍵を元通りに納めた。

〔かなり慣れてるな。ということは相当遊んでると言うことか〕

 一郎は一瞬、不良っぽいフィビーを想像して吹き出しそうになった。

〔こんなお姫様としか思えない人が、髪を染めたり、夜遊びしたり、か。とても想像付かないね〕

 フィビーに先導されて、一郎は扉をくぐった。

 扉の向こうは茂みだった。城の中からは茂みが邪魔でこの扉は見えないようになっていた。

 茂みに続く食料庫を通り抜け、厨房の脇を走って、中庭の入り口にたどり着いた。中庭の向こうに、白い壁の豪華な三階建ての建物があった。

 一郎はその建物を見て、アメリカのホワイトハウスを思い浮かべた。

 その奥に三つの塔が並んだ高い建物があった。

 ここまでは順調だった。

「あの、宮殿の二階が、母の寝室です」

 フィビーの声が弾んでいる。

 そう、ゴールまでは約三十メートル、この広い中庭を走り抜けた向こうに、長かった旅の終着点があるのだ。

 はやる心を抑えられないフィビーは、中庭に駆け出した。一郎はそれに続いた。

 一郎はフィビーの足元を見て、また砂漠の時みたいに転ばなければいいが、と思っていた。

 その一郎の目の前で、フィビーの足下に矢が刺さった。しかし、フィビーは何も知らずに走っている。

〔姫、危ない〕

 一郎は心の中で叫んで、フィビーを後ろから突き飛ばした。同時に、一郎の右腕に矢が突き刺さった。

「うっ」

 一郎は右腕の激痛に声を上げた。

「きゃっ」

 短い悲鳴を上げて、フィビーは前向きに倒れた。

「イチ」

 抗議しようとしたフィビーは自分の顔をかすめて矢が地面に突き刺さったのを見た。

 フィビーは凍りついた。

 そのフィビーに覆い被さるように、一郎がフィビーの視界を奪った。

 二本目の矢が、一郎の左肩に刺さった。

 フィビーの目に醜く歪んだ一郎の顔が映った。

 一郎は激痛に気を失いかけて、フィビーの声に呼び戻された。

「イチ・ロー様」

 一郎は空を見上げた。宮殿の屋根で弓を構える男の姿が見えた。

 一郎は力を振り絞るように笑顔を作った。

「フィビー姫、あと少しの辛抱ですからね」

 一郎は上体を起こすと、右腕でフィビーの上半身を起こした。

 三本目の矢は、一郎の右足太股の裏側に刺さった。一郎は痛みをこらえつつも、右足が動かなくなったことを自覚した。

 一郎はさっと周囲を見渡した。十メートル左前方に身を隠すのに適当な高さの木が植えてあった。

「よく聞いてください。斜め前に木がありますよね」

「ええ。それより」

「黙って聞いてください。あの木に向かって走って、直前で建物の中に向かってください」

「でも」

「何のためにここまで長い旅をしてきたんですか」

 四本目の矢は、一郎の首をかすめて地面に刺さった。首に傷ができ、そこから血が流れた。

「行けない。イチ・ロー様を置いては、行けません」

 泣き出しそうなフィビーの表情が一郎にはうれしかった。

〔僕のために泣いてくれる初めての女の子か〕

 一呼吸、置いて一郎は怒鳴った。

「フィビー、行け。早く」

 フィビーは、ビクッと体を震わせたが、うなずくと、素早く立ち上がり、木に向かって走り出した。

「今だ」

 一郎の合図でフィビーは直角に向きを変え、宮殿の中に飛び込んだ。

 フィビーが向きを変えた直後の地面に、矢が突き刺さった。次の矢はもう飛んでこなかった。フィビーが宮殿の中に飛び込んだからだった。

 一郎はそれを見届けると、木に向かって、転がるように走り出した。木まであと三メートルのところで、一郎に五本目の矢が、背中の真ん中に刺さった。

 一郎は勢いで、木の影に飛び込んだ。

 一郎が宮殿の方を振り向くと、まだフィビーがこちらを見ていた。

「早く、行くんだ」

 一郎の声に、フィビーはうなずくと建物の中に消えていった。

 一郎はほっとため息を付くと、静かに目を閉じた。矢の刺さったところに鈍く熱い痛みを感じたが、何かをやり遂げた満足感が痛みを鈍くしていた。

〔暗殺が目的なら、矢に毒でも塗ってありそうなもんだが〕

 そう思った瞬間、一郎は急に胸が苦しくなった。

〔やっと毒が効いて来たのか〕

 一郎は背中の矢を抜くと、仰向けに転がった。

〔ここで死んだら、目が覚めて元の世界に戻ってるとか。だったらいいな〕

 一郎は目を閉じて助けを待った。呼吸は次第に苦しくなり、窒息するかと思われた。

 

         7,

 

 宮殿の中に入ったフィビーの目に最初に飛び込んできたのは、兵士と話をしている兄のリーアン王子だった。

「お兄様」

 フィビーに呼ばれて短い金髪の頭が振り返った。

「おお、フィビー、体はもういいのか」

 話がかみ合わないものを感じたが、フィビーは続けた。

「リアニの実を持って参りました。それと、中庭にイチ・ロー様が」

「そうか。リアニの実が戻ってきたのか」

 フィビーはリーアンの声に耳を傾けず、階段を上がろうとした。それをリーアンは腕をつかんで呼び止めた。

「おい、『イチロー様』って、誰だ」

「わたくしの恩人なの。わたくしをかばって、矢に当たって。お母様にお願いして、助けてもらわないと」

 フィビーはこれ以上説明するのが面倒と言わんばかりに、リーアンの手をふりほどいた。

「わかった。中庭だな」

「お兄様、急いで」

「よし」

 リーアンは側にいた兵士に声をかけた。

「おい、一緒に来い」

「はっ」

 兵士は短く返事をした。

 リーアンは中庭へ向かおうとした。

 フィビーは階段を一歩上がろうとした。

 そのフィビーの後ろで、剣のぶつかる音が聞こえた。

 フィビーが振り返ると、兵士がフィビーに向かって剣を振り下ろそうとしていた。それをリーアンが剣でくい止めていた。

 兵士は、リーアンが中庭に向かったものと思って、驚愕の表情だった。

「何のつもりだ、貴様」

 リーアンが涼しい顔をしている分、兵士には恐怖が加わった。

「王族に剣を向けて、ただですむと思っているのか」

 兵士ははじかれるように後ろへ飛び退いた。

 リーアンは剣を構え直すと、兵士と向かい合った。

 一瞬の間をおいて、兵士は剣で自分の胸を突き刺した。

「なに」

 兵士は床に倒れるとそのまま息絶えた。兵士を中心に血溜まりが広がっていった。

「フィビー、こっちだ」

 あまりの出来事に動きを止めていたフィビーは、リーアンに促されて階段を上がった。

 

         〇

 

 リーアンに先導され、フィビーはついに母の眠る病室にたどり着いた。

 部屋の中心に天蓋付きの大きなベッドが据えてあり、その中に沈み込むように王妃が眠っていた。ベッドの周りには、医師や侍従、侍女たちが控えていた。

 部屋には、父カンパミ王もいた。

「フィビー、体は、もういいのか」

 カンパミ王もリーアンと同じようなことを聞いた。

「お父様、リアニの実を持参いたしました」

「おお、そうか」

 フィビーは首に掛かった袋から、件の実を取り出し、控えていた医師に渡した。

 医師は恭しくその実を受け取ると、両手で縦に割った。

 リアニの実の中心には大きな種があった。

 医師はその種を取り出し、眠る王妃の口元に運び、指で挟んで潰した。

 種の中から、朱色のとろりとした液体が、王妃の口元にしたたり落ちた。

 朱色の液体は、王妃の唇に染み込むように消えた。

 忽ち、王妃の顔に血色が戻った。

 二、三度まぶたを震わせると、王妃はゆっくりと目を開けた。

「お母様」

「母上」

「王妃」

 王妃はゆっくりと笑顔をフィビーの方に向けた。

「お帰りなさい、フィビー」

 そのゆっくりとした母の口調に、フィビーは次第に胸の奥が熱く満たされていくのを感じた。

 差し出された王妃の手をフィビーは両手でしっかりと握った。

「お母様」

「ありがとう、フィビー。よく頑張りましたね」

 フィビーの目から、一筋涙がこぼれ落ちた。

 その一言にフィビーは今までの苦労がすべて報われた思いだった。

〔そうだ。イチ・ロー様〕

 フィビーは一郎のことを思いだして、気を取り直した。

「お母様、申し訳ありません。早速ですが、お願いがあります」

 王妃はにこっと笑って、「わかっています」と言った。

「中庭に倒れている少年のことですね」

 王妃は上半身を起こすと、呪文を唱え始めた。

 

         8,

 

 一郎は夢の中で思った。

〔今度、目が覚めるときは、元の世界だといいな〕

〔美人の女の子と一緒に冒険の旅っていうのも悪くないけど、やっぱり普通の食事がしたいなあ〕

〔うどんも食べたいし、学校の帰りによく食べた、アレ、何だったっけ。思い出せない〕

 やがて、目を覚ましてあたりを見渡すと、まだ異世界にとどまっていることが解った。

〔やっぱり、夢じゃないんだな〕

 一郎は上半身を起こした。

〔俺、こんな痛い目にあって、ここで何してるんだろう〕

 一郎は思わずため息をもらした。

 一郎は着ているものが変わっていることに気づいた。シルクでできたパジャマのようだった。

 見渡すと、緑色の絨毯が敷き詰められた広い部屋の真ん中に、一郎の寝ているベッドがあった。ベッドも今までとは違う、とても柔らかいベッドだった。暖かい陽の光が部屋の半分まで入ってきていた。

〔そういえば、あれだけ矢に刺されたのに〕

 体の痛みは何処にもなかった。イチ・ローは袖をまくってみた。

〔腕に矢の刺さった痕がない。どういうことだ〕

 一郎がベッドから降りようとしたとき、部屋の扉がノックされた。

「はい」

 反射的に返事をする一郎に、ドアの外から声が応えた。

「王女様のおなりでございます」

 ドアを開けて入ってきたのは、明らかに侍女と解る女性だった。その女性は一郎に向かって一礼し、向きを変えてドアの外に向かってお辞儀をした。

〔王女様ってことは〕

 一郎は開け放たれたドアを見つめた。

 真珠色の光沢があるドレスが入ってきた。その瞬間、一郎は部屋の空気が薔薇の香りに満たされたような気がした。

 そのドレスを着ている顔は、フィビーだった。

 首に真珠のネックレスを巻き、白く長い手袋の手首に銀色の鎖のようなものを巻いていた。頭にはティアラとでも言うのだろうか、宝石をはめ込んだヘアバンドが添えられていた。

 正装したフィビーを見るのはこれが初めてだった。

 ただ美しいと表現するには、あまりにももったいなかった。優雅で、気高く、かつ、神聖な、美の化身がそこに立っている、一郎はそう実感した。

 それに対して、ぽけっと見とれているだけの自分を自覚した一郎は、目を反らそうとした。しかし、体は言うことを聞かなかった。

 フィビーはしずしずとすり足で、一郎に歩み寄った。その動作も一郎を驚かせた。

〔体が左右にぶれてない。いや、上下にも弾んでないぞ。どんなスーパーモデルだって、こんなことはできないだろう〕

 フィビーの唇が動いた。

「イチ・ロー様、お加減はいかがですか」

 つやつやとした赤い唇だった。まるで薔薇の花びらが水に濡れて光沢を放っているようだった。

「気分はどうか、と、姫の仰せです」

 傍らの侍女が、通訳のように言葉を繰り返した。

「はい」

 一郎はやっと我に返った。

「もう大丈夫です」

 侍女は一郎のセリフをそのままフィビーに伝えた。

「『もう大丈夫です』とのことです」

 フィビーは軽くうなずくと、また、優雅に唇を動かした。

「イチ・ロー様、宴の用意ができております。客間までお越しください」

 フィビーは軽く会釈した。

「は、はい、判りました」

 釣られて一郎も深く一礼した。

「父も、母も、兄も、イチ・ロー様とお話しできることを楽しみにしております」

 フィビーは晴れやかな笑顔を見せると、再び会釈をして、しずしずと部屋を後にした。

 一郎はドアの向こうにフィビーが消え、ドアが閉じられた後もそのドアをじっと見ていた。

「おほん」

 咳払いの声がして、一郎はびっくりした。

 先ほどの侍女は部屋にまだ残っていた。

 侍女は一郎に床の上の衣装箱を指し示して言った。

「イチ・ロー様、お召し替えでございます」

「あ、はい」

 一郎は衣装箱の蓋を開けてみた。

 中には中世のスペイン貴族を思わせるフリルがあしらってある白いシャツと、紺のズボンが入っていた。

〔これを着て、人前に出るのか〕

 一郎は侍女に自分の着ていたTシャツやスエットのパンツがどうなったか聞こうと思って、止めた。

 一郎が振り返ったのを見て、侍女は愛想良く笑顔で言った。

「よろしければ、お手伝いしましょうか」

「いや、一人で着替えますから」

 一郎は少しあわてながらも、丁重に侍女を部屋から追い出した。

 それでも、着替え終わった一郎は、外に待っていた侍女に服の着方が間違っていないか確かめてもらってから、フィビーたちが待つ宴の間に向かった。

 

         9,

 

 一郎は自分が国賓待遇で迎えられているのを知った。

 フィビーに客間と言われたとき、一郎はどんなに広くても二十畳ぐらいのリビングを想像していた。

 侍女に案内されたところは、まるで体育館のように広々としたパーティー会場だった。そこには百人以上の招待客が集められていた。

 床に絨毯が敷かれ、会場に集まった人は床の上に座っていた。それぞれ目の前に、お膳が置いてあり料理が盛ってあった。人々は、会場の中心で音楽を演奏する楽隊と踊り子を囲むように座っていた。

 一郎が会場に入ったとたん、盛大な民族音楽が奏でられ、拍手が一斉に沸き起こった。

「あの方が、姫を救った異国の英雄、イチ・ロー様か」

「猿人どもを滅ぼし、サンドボーラーも素手で倒す剛力だそうな」

「あの細い体でか」

「いやいや、剛力などではない。長老どもも舌を巻く知略の主で、策にはまった猿人どもはイチ・ロー様に滅ぼされたそうだ」

 会場の噂話の一部は一郎の耳に届いた。

〔なんだか、噂話に尾鰭が着いているようだ〕

 一郎の席は、フィビーたち王族が座る上座のすぐ脇だった。一郎の斜め前にフィビーが座っていた。

〔フィビーの隣が、お母さんの王妃様。確かに、フィビーによく似ている。その隣が王様。その隣の金髪のお兄さんが王子様か〕

 一郎が席に着いたのを見計らって、カンパミ王の合図があった。

 音楽は止み、カンパミ王が演説を始めた。王は、王妃の全快とフィビーの帰還を神に感謝する言葉を述べた。最後に、協力者として一郎の名が挙げられ、お礼の言葉で演説は締めくくられた。

 王の演説が終わると、一郎は挨拶を求められた。

 一郎は立ち上がって一礼した。

「日本から来ました、国崎、一郎です。お見知りおきください」

 挨拶を求められたことなど初めての経験だったので、一郎は短く自己紹介ですませた。深々と一礼すると、どこからともなく拍手が沸き起こった。

 一郎の名前が珍しいのか、会場内で初めて一郎の名前を聞いた者が、「イチ・ロー」と繰り返しつぶやいていた。

 その直後、カンパミ王が無礼講を宣言したので、会場はどっと沸きかえった。

 再び、人々の話し声と、音楽で会場は賑やかになった。

 一郎はY字型のフォークにも慣れ、料理を突き刺しては口の中に運んだ。

 ステーキを焼いて細切れにしたような肉料理は甘い肉汁が絶品だった。

〔やっぱり、王宮ともなると、食べてる物が違うな〕

 一郎の側に侍女の一人が来て、王の側に来るように告げた。

 見ると、王は一郎に向かって手招きをしていた。

 一郎は静かに席を立つと、王の前から少し離れて座った。

 カンパミ王はなおも手招きをした。

 一郎は座る位置を王に近づけた。

「イチ・ロー殿、この度の活躍には本当に感謝しておる。まずは一杯、いかがかな」

 王は酒瓶を持ち一郎に注ぐ仕草を見せた。

 侍女が素早くコップを一郎に手渡した。

 周囲の男たちがどよめいた。

「王が手ずから、お注ぎになる」

 その言葉に、一郎は、これは大変名誉で重要なことなんだと、緊張した。

「喜んで、いただきます」

 一郎はコップを両手で捧げた。

 王が傾けた酒瓶から、黄色い液体があふれ、一郎のコップに注がれた。

 一郎はおそるおそるコップに口を付けた。

 一口含んで、中の液体を味わってみた。

〔これ、梅酒だ〕

 少し安心した一郎は、コップの中身を一気に飲み干した。

「ごちそうさまでした、王様」

 王は安心したようにうなずいた。

「なんでも望みを言うがよい。多少の無理も許そう」

「はい」

 一瞬だけ、一郎はフィビーを視界の中に確認した。フィビーに話したことが伝わっているのかどうか判らなかった。

「お言葉に甘えさせていただければ、ここで武術の修行を積みたいと思います」

「本当にそれだけでよいのか」

「それだけで十分です」

「わかった」

 カンパミ王はリーアンの方に向き直った。

「リーアン、カンボジ老師はどうかな」

「老師が、また弟子をとるかどうか判りませんが、尋ねてみます」

 リーアンは、一郎を見ると意味ありげに笑みを浮かべた。

 席に戻った一郎は他の出席者から、ご返杯を求めるお酒責めにあった。

 それを断ろうとしない一郎にも問題はあったが、見かねたフィビーは出席者の列を遮って、一郎を外に連れ出した。

 外は、いつしか日が暮れ、夜風が入り込んでいた。

 少し足に力が入らなくなっているが、まだ完全に酔ってしまったわけではなかった。しかし、一郎があのまま飲み続けていたら急性アルコール中毒に陥るのは必至だった。味は梅酒かも知れないが、アルコール度数はウィスキーに近かった。

「助かりました、フィビー姫」

 一郎は柱にもたれながら、やや疲れた表情で言葉を絞り出した。

「断ってもよろしかったのに」

「そうは言っても、どうしていいか判らなくて」

「あのようなときは、形だけでお願いします、とおっしゃればいいのですよ」

「次があったら、そうします」

 一郎は、夜空を見上げた。

「ここは、月が出ないんですね」

「ツキ、ですか」

「元の世界では夜空に、親指の先ぐらいの大きさの丸い星が出るんですよ」

「やっぱり、イチ・ロー様は、お国に帰りたいのですね」

 一郎はそれに答えなかった。

「そう言えば、僕の名前を聞くと、みんな、変な顔をしているんですけど、なぜです」

「ああ、それはですね」

 言いかけたフィビーの言葉を、王妃が割り込んだ。

「イチ・ローは、女性の名前だから、ですよ」

「お母様」

 一郎は声のする方を振り返った。

「王妃様、座を外しましてすみません」

「そのようなこと、気にするほどのことではありません」

 王妃は短い呪文を唱えると、一郎を指さした。王妃の人差し指の先が光ったと見えた瞬間、一郎は体がすっと軽くなるのを感じた。

「え」

 一郎は王妃が何をしたのかよく分からなかった。しかし、体調は元に戻った。

「酒を抜いてさしあげたの。少しは楽になったかしら」

〔これがフィビーの言っていた、神聖魔法の力か。じゃ、矢の傷も〕

「ありがとうございます。矢の傷も王妃様が、治してくださったのですね。おかげで、救われました」

「よろしいのですよ。なんと言っても、わたくしたちの恩人なのですから、これぐらいでは、まだまだ足らないぐらいですわ」

 王妃は優しく微笑んだ。

「先ほどの話の続きですが、この国では、女の名前は最後を伸ばし、男は詰まる音を入れるのがしきたりなのです」

〔そう言えば、フィビー、ヴィジー、マティー、フィルー、みんな、そうだ〕

「ですから、イチ・ロー様の様の名前を初めて聞く者は、不思議な感じがするのですよ」

〔なるほど〕

「お国では、お名前はどういう意味なのですか」

「イチは、数字の一で、ローは男。つまり、最初に生まれた男というありふれた名前の付け方なんです」

 しかし、フィビーと王妃の反応はありふれた者ではなかった。

 二人とも、最初は驚き、次に納得したように見つめ合ってうなずいた。

「お母様、やはり」

「そうですね。イチ・ロー様が、『外つ国の初めに生まれしもの』かも知れませんね」

 フィビーは真剣な表情で、一郎を見つめた。

 フィビーだけでなく、王妃も真剣な眼差しで一郎を見ていた。

 急激な状況の変化に、一郎は戸惑った。

「イチ・ロー様、こちらへ」

 フィビーは一郎に会場から続く回廊を指し示した。

 

        10,

 

 フィビーに案内されて、一郎が着いたのは、中庭のさらに奥、木に囲まれた岩の前だった。

 岩のすぐ向こうは城壁だった。岩が木に囲まれていると言うよりは、木が植えてあった場所に、岩が突き出してきたような雰囲気があった。

「あれ」

 岩を見た一郎は思わず声を上げた。岩の頂上に剣が突き立てられていたのだ。

「イチ・ロー様、あれがチャレンジャーの剣ですわ」

「あれが」

 周りに篝火が焚かれ、槍を持った二人の兵士がそれを守るように立っていた。

 王女とそれに続いて王妃までが現れたことに驚いた兵士は、すぐさま跪いた。

「よい。おさがりなさい」

 フィビーは兵に命じて、岩の前から離れさせた。

「イチ・ロー様、あの剣を抜いてください」

 王妃の澄んだ声が一郎の体を捕らえた。

「抜くと、どうなるんです?」

「あなたが、この世界を救うチャレンジャーとなるのです」

「え、そんな」

「この国にはチャレンジャーの剣の出現とともに、一つの予言がもたらされました」

 フィビーがその後を続けた。

「外つ国の初めに生まれし者、チャレンジャーとなりて世界を救う。その予言を信じて、わたしたちはこの剣を守ることにしたのです」

「これまで、この予言に惹かれ、外国から様々な者たちがこの剣を引き抜こうと試みましたが、皆失敗に終わりました」

「イチ・ロー様、お願いです。あの剣を抜き、この世界を救うチャレンジャーとなってください」

 一郎は予言を信じる方ではなかった。しかし、フィビーと王妃の真剣さから、万一剣を抜いてしまった場合、一郎にどんな責任と試練が押しつけられるのか、想像しやすかった。

 そんな一郎の心を見抜くかのように、王妃が言った。

「イチ・ロー様はすでに、この国のため、多大な働きをなさいました。これ以上、そのご温情に甘えるのは許されないことかも知れません。ですが、チャレンジャーはこの世界を変えることのできる唯一のお方、私たちの最後の希望なのです。もし、あなたがチャレンジャーであるなら、私どもは娘を差し出してお願いする覚悟ができております」

 静かな口調の中に、王妃の気迫が込められていた。

 一郎は、フィビーの方を見た。

 フィビーは視線を地面に落とし、軽く下唇をかんでいた。

〔ここで抜くことを拒否したら、どうなるのかな〕

 一郎は王妃とフィビーをもう一度見つめ直した。

〔最後の希望か〕

 しかし、一郎の心の中で何かが王妃の言葉と反発していた。なんとなくではあるが、フィビーが可哀想に思えたのだ。

 一郎は考え方を変えた。

〔しかし、剣が抜けても、フィビーのことは拒否すればいいんだ。それに抜けるかどうか判ってない〕

「わかりました。やります」

 一郎は、岩の上に上がった。

 もう何十人という挑戦者がこの岩の上に立ったのだろう。足場が自然に削られてできていた。

 剣が突き刺さっているように見えていたが、よく見ると剣も岩でできていた。

 一郎は両手を剣の柄に伸ばした。

 フィビーは祈るように両手を胸の前で組んでいた。

 一郎は思い切り柄を握って引っ張った。その瞬間一郎の目の前で信じられないことが起きた。

 剣の柄は赤く輝き信じられない高熱を発した。一郎にはかつて経験したことのない高熱だった。熱さは一郎の両手首から先の感覚を全くなくしていた。

「うわっ」

 驚いた一郎は、飛び退くように岩から転げ落ちた。両手は赤く焼けただれ、香ばしい臭いさえしていた。

 すぐさま、王妃が魔法をかけて一郎の両手を治療した。

 痛みは去ったものの、一郎はあまりの熱さに呆然としていた。

「過去幾度となく挑戦する者が、手を焼かれ断念しております」

 まさにこの剣に関してはみんな手を焼いているだろう。一郎は妙な納得の仕方をした。

「イチ・ロー様、会場に戻りましょう」

 一郎がそうでないと判ったとたん、王妃の態度が冷たくなった、ような気がした。反対にフィビーは安心した笑顔を見せていた。

 

         〇

 

 またしてもそれを上空から、ウィズとコンプが監視していた。

「ちょっとどきどきしたけど、残念だわ」

「おかしい。マスターの言葉に間違いがあるわけがない」

「マスターは、あの少年かも知れない、とおっしゃっただけで、断定はしてなかったわよ」

「いや、マスターが言われた以上、何かあの少年にはあるはずだ」

「ここで議論してても、仕方ないわ。とりあえず、マスターのところに戻りましょう」

 二人はまたしても、空中でかき消すように消えた。

 

         11,

 

 宴が終わって、一郎は自分の寝室に案内された。

〔目まぐるしい一日だったなあ〕

 宴の後、挨拶を交わしたとき、王妃はひどく落胆しているように見えた。反対にフィビーは何かほっとしてるようだった。

〔予言がはずれたことが、そんなにショックなのかな。フィビー姫は逆にうれしそうだったが〕

 案内された部屋は、一郎が手当を受けて眠っていた部屋とは別だった。

 広さは少し狭くなったが、赤い絨毯が敷き詰められ、大きなベッドが真ん中にあった。

 女性が一人、深々と頭を下げて一郎を迎えてくれた。服装は明らかに侍女の物でなかった。

 細い肩紐と膝まで一枚の布でできただけのドレスで、しかもかなり薄い生地で、体の線がはっきりと判った。

「お待ち申し上げておりました」

 持ち上げた頭は栗色で、雪のような白い肌と、端整な顔立ちに目が奪われた。

 体を起こしたとき、彼女の胸の頂上が尖っているのを見て、一郎は思わず目を反らした。

〔下着を着けてないのか〕

「ローリーと申します」

 少しハスキーな低い声だった。

「あの、着替えでしたら、僕、一人でできますから」

「いいえ」

 ローリーはそう言うと、体を一郎に預けてきた。

「今宵のお相手に参りました」

 柔らかいからだの感触に、一郎はあわてた。

「ごめんなさい。聞いてませんでした」

 一郎は、そう言い残すと、部屋を飛び出した。

 その一郎を部屋の外で、リーアン王子が待ち受けていた。

「お客人、どちらへ」

 振り向いた一郎の顔が、あまりにも赤かったので、リーアンは思わず吹き出した。

〔ええと、この人は、確か〕

「リーアン王子」

 誤魔化すような笑顔を作って、一郎はその場を去ろうとした。

「いや、部屋を間違ったようなので、正しい部屋を聞いてきます」

「イチ・ロー殿の部屋はここしか用意していないのだが」

「じゃ、あのローリーとか言う女の人は」

「イチ・ロー殿の一晩の慰めになるかと思って手配したのだが、黒髪の女が好みだったかな。それとも金髪」

「せっかくのご厚意ですが、辞退させていただきます」

 一郎がきっぱりと言ったので、リーアンは意外そうな顔をした。

「ほう、女じゃなくて、男を用意した方がよかったのか」

「まじめそうな顔をして、そんなことを言わないでください」

「すまん、すまん」

 リーアンの態度は、急に親しくなった。

「しかし、フィビーの言うとおりだったな」

「え」

「妹を信じなかった訳じゃないが、一度も妹に手を出さなかったと言うのが不思議でね。普通の男ならこういう風にされると、女に手を出すんじゃないかと思って試してみたんだ」

〔受験生が受験を控えてて女遊びを知ったらとんでもないことになるぞ〕

「なるほど、イチ・ロー殿はまだ、女の扱いをご存知ないわけだ」

 一郎はリーアンに説明してやろうかとも思ったが、面倒くさくなりそうなので断念した。

〔ま、間違ってないから、しょうがないか〕

 その後のリーアンの行動がまた、一郎を驚かせた。

 リーアンは部屋からローリーを呼ぶと、いきなり抱きしめキスをした。

「どうした、ローリー。お客人に振られてさみしかったかい」

「はい、王子様」

 ローリーはうっとりとした目でリーアンを見つめていた。

「これで少しは落ち着いたかな」

「はい」

「お客人は、決して君の美しさが分からなかった訳じゃない。君が気高すぎて、気後れしただけなんだ」

「はい、王子様」

「後で、部屋においで。たっぷり、かわいがってあげるから」

「はい、失礼します」

 一郎には信じられない光景だった。

 今の日本でこんな気障なことをする男がいるだろうか。

 ローリーは一礼すると、廊下の奥へ消えていった。

 一郎は凍りついて動けなかった。

〔できれば関わりたくない人種だ〕

「お子さまなイチ・ロー殿には、刺激が強かったか」

 優越感にひたりながら笑顔を見せるリーアンが何となく今は好きになれない一郎だった。

「カンボジ先生のところへ行ったら、この程度じゃすまないかもな。あの先生、元気だから」

〔別に、女の修行に行く訳じゃないんだから〕

 反論したかったが、一郎にはその元気はなかった。リーアンの毒気にすっかり冒され、一郎は疲れがどっと吹き出すのを感じた。

「じゃ、お休み。よい夢を」

 ぽんと一郎の肩を叩くと、リーアンもまた、廊下の奥に消えた。

 一郎はよろよろと、部屋に戻って、ベッドに潜り込んだ。

〔なんて兄貴だ。自分の女を人に勧めるとは〕

 一郎には宴の席では王子が結構まじめそうに見えた。

〔人のよさそうな王様、厳しそうな王妃、気障で女たらしの兄王子、フィビー姫も苦労するだろうな〕

 一郎は自分の家族を思いだした。

〔いつも帰りが遅い父親、料理がうまい母親、要領のいい妹。みんな、今頃どうしているだろう。この世界に来てもう六日が経ったのか。みんな、心配してるだろうな〕

 そして、今日一日の出来事を思い浮かべた後、一郎は、妄想と戦いながら、眠りについた。

 

         12,

 

 今日が「その日」だと、フィビーは全く思わなかった。

 宴から一夜が明けて、また、退屈な宮廷生活が始まるとも思えた。ただ、少し違うのは、一郎が宮廷の中にいることだった。

 朝食を一郎と一緒にとれなかったのは残念だったが、昼食を一緒に食べて、夜は賑やかなことが好きな父王がまた宴を催すのだろう、と考えていた。

 侍女が、正装の用意を告げてきたのに、フィビーは戸惑った。

〔変だわ。今日は何も行事の予定を聞いていなかったのだけど〕

 不審に思いながら着替えていると、侍女は謁見の間に行くように伝えてきた。

〔誰か、外国の方が見えたのかしら。それとも、外国の大使が国に帰ることになったのかしら〕

 フィビーは侍女の出したドレスに袖を通しながら、胸騒ぎを覚えた。

〔まさか〕

 着替え終わり、謁見の間に着いたフィビーは、嫌な予感が的中したことに気づいた。

 謁見の間の下座に控えていたのは、一郎だった。

〔イチ・ロー様が王宮を出る〕

 フィビーは、今日が「その日」、一郎と別れる日だと知った。

 一郎は、Tシャツにスウェットのパンツにスニーカーと、城へ着いたときの服装にもどっていた。

 謁見の間に入ったフィビーは自分の席に座るのを忘れ、下座に下りようとした。それを傍らにいた、王妃が厳しくたしなめた。

 これは、国に重要な人物が王宮を去るときの儀式の体裁だった。

 カンパミ王とリーアン王子が席に着いて、儀式が始まった。

 侍従長が声明文を読み始めた。

「さて、異国より参りし、イチ・ローよ。この度の貴殿の活躍、まことに天晴れであった。ここに褒美の品として、剣を一振り、王より下賜される。心して受け取られよ」

 侍従が剣の入った箱を持って、一郎の前に進んだ。

 一郎は箱の中から剣を慎重に取りだし、捧げ持つと、一礼して、脇へ置いた。

 侍従が下がると、侍従長は次の声明文を読みあげた。

「さらに貴殿の希望を叶え、老師カンボジへの推薦状を賜る」

 再び侍従が一郎の前に進み出て、卒業証書を入れるような筒を手渡した。

 一郎は両手で捧げ持つようにそれを受け取った。

「では、王様、お言葉を」

「うむ」

 カンパミ王は、席から立ち上がると短く言った。

「イチ・ロー殿、感謝する」

 王はまた席に着いた。

「では、イチ・ロー殿。お礼の言葉を」

 侍従に促されて一郎も、押さえた口調で言った。

「この度は、格別のご配慮を賜り、感謝の極みでございます。王家の皆様も、これからもご健康であらせられることを祈念いたします。以上です」

 一郎は深々と一礼すると、剣と推薦状を、脇に抱え持った。

〔イチ・ロー様が王宮を出る〕

「では、これで、謁見を終わり」

「待って」

 思わずフィビーの声が出た。

 一身に注目を浴びたフィビーは、周囲の空気を察知した。

 王妃が厳しい目を向けているのが判った。

 迂闊なことは言えない、いや、言わせない雰囲気があった。

「イチ・ロー様、ありがとうございました」

 フィビーが軽く会釈すると、王妃がフィビーを促した。

 王室の四人が退室した後、一郎は荷物をまとめる布袋を受け取ると、それに剣と推薦状を入れ、謁見室を出た。

 

         〇

 

「お母様、ひどいわ」

 謁見室を離れたフィビーの最初の一言がそれだった。

「どうして言ってくださらなかったの」

「言ってどうなるの。彼はチャレンジャーではなかったわ。なら、彼がここにいるべき理由はないわ」

「チャレンジャーじゃないから、城に置いておけないなんて。イチ・ロー様が、わたくしを助けるためにどれだけ苦労をされたか、知らないから、そんな薄情なことが言えるのよ」

「わたしじゃないわ。『イチ・ロー様』が言い出したのよ」

「うそ」

「これで、あなたも元の生活に戻ったのだから、自分がいるのは不自然だろう、と、今朝ほど、城を去ると言われたのよ」

「そんな」

 フィビーは力無く首を振った。

「分かってあげなさい。彼は少しでも早く、家族の元に帰りたいのよ」

「わたくし、まだ、イチ・ロー様に十分お礼を、言ってなかった」

 フィビーは歩みを止め、柱にもたれかかった。

「フィビー、今なら、まだ、城門を出ていないでしょう。テラスからお見送りぐらい出きるわよ」

 王妃の言葉に、フィビーはドレスの裾を持ち上げ、駆け出した。

 フィビーの頭の中を、今まで一郎と旅をした日々が走馬燈のように駆け抜けていった。

 どんな苦しい状況でも、笑顔で「大丈夫ですよ」とか「何とかなります」と、一郎が言っていたのを思い出した。そして、その通り、どんな苦難も乗り越えてきた。

 ヴィジーが言ったように、一郎がもし、ずっと側にいてくれたら、どれだけ心強いことだろう。

 階段を上がってテラスに出たフィビーは、一郎が正門に近づくのを見つけた。

 声をかけようとして、フィビーはためらった。自分の胸の中に適当な言葉が見つからなかった。

〔お願い。イチ・ロー様、振り向いて〕

 フィビーが強く念じたのが聞いたのか、一郎は足を止めて、振り向いた。その瞬間、二人の視線が重なった。

 距離は五十メートル以上離れていたが、フィビーには一郎の笑顔が判った。

 一郎は右手を挙げ、フィビーに向かって振った。一見細く見える腕だが、あの腕は自分を抱えて、森を、砂漠を、町を駆け抜けた力強い腕だった。

〔よかった。通じた〕

 フィビーも右手を挙げ、応えた。

 一郎は手を降ろし、体の向きを変えた。

〔待って〕

 声を出しそうになってこらえたとき、フィビーは心臓がぎゅっと縮んだような気がした。

 一郎が一歩一歩遠ざかるごとに、フィビーの胸の中は何かが満たされるように苦しくなっていった。

「好き」

 フィビーの胸の中からあふれ出た言葉は、その短い一言だった。言葉と一緒に涙もこぼれた。

 フィビーは自分で自分の言葉に驚き、思わず周囲を見渡した。今の言葉を聞いた者は誰もいなかった。

 フィビーは、今初めて自分の胸の中を占めているものの本当の姿を知った。

〔そうだ。わたしは、こんなに、イチ・ロー様のことが、好きになっていたんだ〕

 目から涙があふれても、フィビーはもはや拭おうとはしなかった。

〔もっと早く気づいていたら、きっとイチ・ロー様を止めていた。いえ、イチ・ロー様と一緒に城を出ていたかも〕

 一郎の姿は正門をくぐり城下町の中に消えていった。

「イチ・ロー様、好きです」

 フィビーは小さな声で自分だけに聞こえるように口に出してみた。

 フィビーは少しだけ、心の中が軽くなったような気がした。

 


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