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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。


「ワールド マスター 1  〜 マルカム王国編 〜」

ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)


 第六章 「剣術入門」

 

         1,

 

 侍従から渡された地図を元に、一郎は城下町を二時間ほど歩いた。

〔以外に広い町なんだ。この国の首都なんだから、当たり前か〕

 一郎が着いたのは、白い漆喰で塗り固められた蔵のような建物だった。

 その建物は、少し大きめの木製のドアと、木製の窓が上下二段に並んだ少し単純なデザインが特徴だった。

 一郎は木製のドアの大きさに合わせて、大きくノックした。

 中から返事がなかったので、一郎はドアを開けて中に入った。

 ドアの内側は土間だったが、その向こうに体育館を思わせるような広い空間があった。

「ごめんください」

 一郎は、広い空間に響くように声を上げた。

「何か、用か、少年」

 一郎の頭の上から老人の声が聞こえた。

 一郎が振り仰ぐと、吹き抜けになった二階部分に、白髪頭だけが下を覗いていた。

「カンボジ老師ですか」

「いかにも、ワシがカンボジじゃ。おまえさんは」

「国崎一郎と言います。老師に武術を教えていただきたくて、城で推薦状を預かってきました」

「クニ・サキ・イチ・ロー。変わった名じゃな。まあ、よい。そこから上がってこい」

 カンボジは、一郎の脇にある梯子を指差した。

 一郎は梯子を上がって、屋根裏のような狭い場所に出た。小さい換気用の窓だけがあるところで、カンボジは窓から望遠鏡で外を覗いていた。

「お初にお目にかかります。ボ、私、国崎一郎と申します」

 一郎は失礼のないようにと、正座して頭を下げた。

「挨拶などどうでもいいわい。それよりこっちに来て、ちょっと覗いてみんか」

 カンボジは人好きのする笑顔で一郎を手招きし、望遠鏡を手渡した。

 一郎は望遠鏡を受け取るとカンボジが指し示す方に向けた。そこは、二件向こう隣の窓、その中に水浴びをしている女性の姿があった。

「どうじゃ。いい眺めじゃろ」

〔うん。確かに〕

 一郎はうなずきかけて止めた。

「カンボジ老師、お気持ちは分かりますが、覗き趣味は他人から品性を疑われます。今後は自重下さるようにお願いします」

「何じゃ、つまらん男じゃのう。若いくせに妙に大人ぶりおって」

 一郎が推薦状の入った筒を差し出すと、カンボジはひったくるようにそれを受け取った。

 カンボジは推薦状を取りだし、一読した。

 カンボジは一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔を取り戻した。

「なるほど、見どころはありそうじゃな」

 カンボジは一郎をじっと見ると、何かを思いついたのか、「うんうん」と頷いた。

「よし、イチ・ロー、入門を許す」

「ありがとうございます」

 一郎は手を付いて頭を下げた。

「イチ・ロー、最初の修行を申し渡す」

 カンボジも姿勢を正すと、仰々しく言い放った。

「はい」

 一郎は緊張して耳を傾けた。

「風呂へ入って汗と垢を落としてこい。詳しい話はそれからじゃ」

「は、はい」

〔なんだ、風呂か〕

 一郎はほっと胸をなで下ろすと、一礼して立ち上がった。

「風呂は、道場の左奥の突き当たりじゃ」

「はい、分かりました」

 一郎は足早に梯子を下りた。

 その一郎をカンボジはにやにやと笑いながら見送った。

 

         2,

 

 靴を脱いで道場に上がると、右奥と左奥に引き戸があった。左奥の引き戸まで、一郎は武道館を対角線に横切った。

 引き戸を開けてその奥に廊下が続いていて、その突き当たりが浴室のはずだった。

 一郎は浴室のドアを開けた。

 その瞬間、一郎の時間が止まった。

 ドアの向こうには、全裸の少女が立っていた。

 濡れた茶色の髪が肩まであって、スタイルのいい体に少し大きめの胸がのっている感じだった。風呂から上がったばかりの体に水滴が散りばめられていた。

 顔は、鼻筋の通ったスラブ系のかわいい顔だった。見た目には一郎よりも年下に思えた。

「きゃ!」

 驚きの声を上げ、少女の顔が一瞬で真っ赤に染まった。驚いた表情はほんの一瞬で、少女は怒りを露にして一郎に噛みつきそうになった。

「この、痴漢! 変態!」

〔僕が、痴漢?〕

 一郎は急いでドアを閉めようとしたが遅かった。

 少女の握り拳が一直線に一郎の顔をめがけて迫ってきた。

 思わず一郎は後ろに飛び退いた。

 なおも少女の怒りの鉄拳は一郎の体に迫ろうとしていた。

「ご」

 一郎は『誤解だ。待ってくれ』と言いたかった。

 同時に少女の怒りの鉄拳を避けようとした一郎は、足をもつれさせた。そのまま、後頭部を床に強打した。

「が」

 一郎は思わず頭を抱えてうずくまった。

〔痛ーっ〕

 しかし、それで少女の怒りが収まったわけではなかった。

 少女は倒れた一郎の上に馬乗りになると、そのまま一郎の首を締め上げた。

 すさまじい力で締め上げられ、一郎はあっと言う間に呼吸困難になり、気を失った。

「ふん」

 少女は吐き捨てるように言うと、一郎の脇腹に蹴りを入れ、一郎が動かないのを確かめてから、浴室に戻っていった。

 再び浴室から出てきた少女は、中国風の赤い拳法着に着替えていた。頭も後ろだけ左右二つに分けて、ポニーテールを二つ作っていた。

 一郎の側にカンボジが立っていた。

「おじいちゃん、この男、痴漢よ。衛兵に突き出してやる」

 少女の怒りはまだ収まってはいなかった。

 カンボジはにっこり笑うと少女を手で制した。

「チェリー」

 名前を呼ばれて、少女は眉をひそめた。

「この男は、今日からここで修行することになった、イチ・ローじゃ」

「ちょ、ちょっと、おじいちゃん、聞いてないわよ!」

「さっき城から着いたばかりじゃからな。王様の推薦状付きじゃ、断れんじゃろ」

 推薦状には、王妃の添え書きもあったが、カンボジはそれは伏せた。

「まさか、この男、住み込みで修行するんじゃないわよね?」

「そのとおりじゃ」

「いやよ! こんな変態男と一緒なんて」

「すまん、すまん。イチ・ローに入浴するように言ったのは、このわしじゃ」

「おじいちゃんが? まさか、わざとじゃないでしょうね」

 チェリーは柳眉を逆立てて、カンボジを睨んだ。

「イチ・ローは、外国から来たばかりで、女がこの時間に入浴することは知らなかったようじゃ。許してやれ」

「何も知らない男をそそのかしたのは、認めるのね」

「ははは、ちょっとした実験じゃよ」

 カンボジは一郎の脇で屈んだ。

 一郎の上半身を起こし、その両肩をつかむと、カンボジは一郎に喝を入れた。

「う」

 一郎はかすかなうめき声とともに目を開けた。

「どうじゃ、気分は」

「あ、カンボジ老師」

 一郎は側に立っているチェリーに気が付いた。それがさっきの全裸の少女と気づくのには、瞬きが二回ほど必要だった。

「あ、君は、さっきの」

 思い出したとたん、一郎の顔が赤くなった。

 それを見て、チェリーの顔も赤くなった。

「ほほう、二人そろって仲のいいことじゃのう」

 二人の顔を見比べて、カンボジはにやにやと笑っていた。

「老師」

「おじいちゃん」

 二人はそろって声を上げた。

〔今、おじいちゃん、って言ったな〕

 一郎は改めて少女を見た。

「イチ・ロー、これが孫のチェリーじゃ」

「チェリー、さんですか」

〔老師のお孫さんか。どおりで、強烈な締め技だったな〕

 チェリーは少し顔を曇らせた。

「『さん』は止めにしてくれる? それから」

 チェリーの顔が、背筋が凍るほど殺気立った表情に変わった。

「とりあえず、さっきのは事故ということで、見たことは全部、忘れるのよ。忘れられないなら、忘れさせてあげる」

 チェリーの目の奥に一郎は炎を見たような気がした。

「はい」

 首を縮めて一郎は短く答えた。

 チェリーはまだ言い足りないという顔で「ふん」と短く言い残すと、廊下の奥を曲がっていった。

「ま、とりあえず、風呂へ入ってこい。話はそれからじゃ」

「はい、老師」

 一郎は首のあたりをさすりながらゆっくりと立ち上がった。少しまだ首筋が熱を持っているようだった。

〔いきなりひどい目にあったな〕

「ま、許してやってくれ。あれでも根は優しい子なんじゃ」

「はあ」

〔老師が風呂に行くように言ったんでしょう〕

 そう言いたいのを一郎はぐっとこらえた。

 一郎はもう一度浴室の扉を開けた。今度は慎重にゆっくりと。

 中に誰もいないのを確かめて入るとると、さらに一郎は周囲をよく確かめた。

 ほっとして一郎は服を脱ごうと脱衣籠を手元に引き寄せた。

 中に赤い布が入っていた。

〔おや、これは〕

 一郎は手に取ってみて驚いた。

〔越中褌じゃないか。こんなもの、使うんだ。時代を感じるなあ〕

 そのとき地響きが近づき、浴室の扉を開けた。

 はっと振り返った一郎の目に真っ赤な顔をしたチェリーの顔が飛び込んできた。

 チェリーは一郎の手の中にある赤い布を思い切りひったくると、返す刀で一郎の右頬を思い切りひっぱたいた。

「いってー」

 そして、チェリーのとどめの一言。

「この、変態! スケベ! 覗き魔! 痴漢!」

「今度は、一体何なんですか」

「あんたこそ、女物の下着を手にとって何しようとしてたのよ」

「へ?」

「おぞましいわ。下着を眺めてニヤニヤしてるなんて、やっぱりあんたは変態よ!」

 度重なる変態呼ばわりに、さすがに一郎はむっとした。

「質問!」

「なによ?」

「その赤い布って、女物なんですか?」

「なに、しらばっくれてるのよ。当たり前じゃない!」

「僕の国では、男のものなんですけど」

「ああ、そうなの。言い訳する気? 見苦しいわね」

〔本当のことなんだけどな。言い訳と取られてもしょうがないか〕

 一郎は叫びだしそうになるのを堪えた。

「どうも、失礼しました」

 一郎は慇懃に一礼した。

「ふん、最低男!」

 チェリーは勢いよく扉を閉めた。

 どたどたと足音が遠ざかっていった。

 ぽつんと残された一郎は脱衣籠をつかむと、床に叩きつけた。

「何なんだ、あの女!」

 一郎にとって最悪の入門になってしまった。

 

         3,

 

 風呂に入って、少しは一郎の気分が落ち着いた。

 カンボジに呼ばれて行くと、そこは食堂だった。

 チェリーは一郎と視線を合わせるのを避けた。

「とりあえず、昼飯じゃ」

 大きめのテーブルに三人分の食事が用意されていた。

 カンボジに席を勧められて、一郎は椅子に座った。

 テーブルの上には「海鳥亭」で食べた物の簡略版のような料理が並んでいた。どれも見覚えはあるが、材料の数は少なく見える。

〔質素な料理だな。これが普通の人の食事なんだろうか〕

 カンボジとチェリーも席に着いた。この道場にはこの二人しか住んでいないようだ。

 二人が胸に手を当てて食事の前の祈りを始めた。

〔ああ、そうだった〕

 一郎は思いだしたようにそれに倣った。

 二人が食べ始めたのを見計らって一郎も祈りの真似を止め食べ始めた。

 小さめのスプーンでスープを一口運んだときだった。

〔なんだ、これ。見た目はコーンスープなのに、味は味噌汁そっくりじゃないか〕

 一郎はたまらずもう一さじすくって口に運んだ。

「おいしい」

 一郎が漏らした一言に、チェリーはきょとんとした表情で一郎を見つめた。

「これ、おいしいですよ」

 一郎がうれしそうな笑顔を見せると、釣られてチェリーの顔もほころんだ。

「そお?」

「え、これってやっぱり、チェリーさんが作ったんですか」

「あたし以外の誰が作ると思うの?」

〔確かに、老師が作るとは思えないな〕

「それと、『さん』はやめてって言ったでしょう。これからは、『先輩』と呼びなさい」

「先輩、ですか」

「修行の上では、あたしが先輩でしょ?」

「はあ、まあ」

 一郎は何となく割り切れないものを感じたが、料理のおいしさに誤魔化されていた。

 チェリーも、一郎が「おいしい、おいしい」を連発するので、多少態度が柔らかくなった。

 それを見てカンボジはにやにやと笑っていた。

 食事が終わったあと、一郎は食器を持って洗い場に向かった。

 そこにチェリーが食器をまとめて持ってきた。

「あとは僕が洗います」

 チェリーは一瞬自分の耳を疑った。

「え?」

「いや、後かたづけは、自分がします」

 両親がともに小学校の教師をしているため、食事の準備は母親が手配しているとしても、後かたづけは一郎自身がしなければならなかった。その日頃の習慣が出ただけなのだが、チェリーはそれに驚いた。

「イチ・ロー、あんた、いつも洗い場に出てるの?」

「ええ、両親は家にいないことが多かったものですから。それに」

「それに?」

「家を出て一人で生活するようになったら、全部自分一人でやらなきゃいけないことですから」

 チェリーは感心したように頷いた。

「どう、おじいちゃん? 家事は何も女がやらなきゃならないことでもないのよ。男だって、一人で生きていくなら必要なことなんだから」

 カンボジは、テーブルでお茶をすすりながら、ぽつりと漏らした。

「本当に、異国の男は変わっておるのう」

 カンボジは自分の思惑とは違う方向に事態が運ばれていくのを感じていた。

 チェリーは、一郎に洗い場を任せるとさっさと友人の家に出かけていった。

 洗い場が片づいた一郎に最初の修行が待っていた。

 

         4,

 

「まずは、薪割りからじゃ」

 カンボジに案内されて、裏庭に出ると、木の切り株と斧が用意されていた。

 カンボジの指差した方向には、一郎の背丈の倍の高さに薪になる木が山のように積まれていた。

「これを、いつまでにですか」

「そうじゃのう。今日中じゃな」

「え」

「できたら、夕飯にするとしよう」

「は、はい」

 カンボジは道場に戻っていった。

 残された一郎は、高く積まれた木の山を目の前にして、少し入門したことを後悔した。

〔でも、これも、体力づくりとしては、典型的なパターンかな〕

 一郎は一本目を切り株の上に立てた。

 斧を手に持つと、ずっしりとした重さが伝わってきた。

〔五キロ、いや、十キロぐらいありそうだな〕

 一郎は思い出すように、斧を大上段に振りかぶった。

 一郎の最初の一振りは、目標の中心から大きく外れた。それでも、木が柔らかく、最後まで斧が通ったのは救いだった。

 二振り目は、斧が自由落下するように振り下ろして、手に力を加えないでやってみた。

 斧はその刃の半分を木に食い込ませて止まった。

〔やっぱり、力を入れないとだめか〕

 それから一郎はいろいろと力の加減を試して、薪を素早く正確に割るコツをつかんでいった。

 やっとまともに薪が割れるようになったと思ったとき、日が半分傾いていた。

〔だめだ。まだ、三分の一、いや、四分の一も終わってないかも〕

 一郎はまだ自分の身長と同じくらいの薪の材料の山を見て、徹夜も覚悟した。

〔それにしても、本当なら、今頃は、学校にいて授業を受けている時間なんだよなあ。薪割りが無駄なことだとは思わないけど、今年の受験はもうあきらめた方がいいのかな〕

 一郎は学校やクラスメートのことを思い出した。

〔僕が未知の世界でこんな苦労をしてるとは、誰も思わないだろうな〕

 ふと、一郎の頭の中に、先ほどのチェリーのオールヌードが蘇った。同時にすっかり忘れかけていたフィビーのヌードも思い出せた。

〔こんないい経験もできたわけだし、辛いことばかりじゃなかった〕

 しかし、そういった雑念は斧の狙いを微妙に狂わせた。

〔いかん、いかん。ちゃんと集中しないと、本当に徹夜になるぞ〕

 それから、一時間が過ぎた頃、最初の疲れのピークが訪れた。握力がなくなって斧が持てなくなったのである。

〔一休みするか〕

 一郎は、軒下の日陰に入った。

 壁にもたれながら、腰を地面に下ろすと、一郎は静かに目を閉じた。

 優しい風が一郎の髪を揺らした。

〔本当にこれで元の世界に帰れるんだろうか〕

 一郎は何度も自問した。不安がないと言えば嘘になる。しかし、帰る方法が全く分からない今は、自分で帰る方法を探せる力を付けるしかない。結局答えはそこにたどり着いた。

「どうだ、イチ・ロー。今日中に終わりそうか」

 いつの間にか側にカンボジが立っていた。

「老師」

 一郎は立ち上がろうとした。

「よい。しばらく、休んでおれ」

 老師は以外に強い力で、一郎の肩を押さえつけた。

 一郎は尻餅をつくように腰を下ろした。

「イチ・ロー、手を出せ」

 一郎は言われるままに両手を差し出した。

「よいか。手が疲れたときは、こことここを押さえるのじゃ」

 と、カンボジは一郎に手のひらのツボを押さえて見せた。すると手の緊張が嘘のように解けていった。

〔へえ、勉強になるなあ〕

 カンボジは手を放すと、にっこりと笑った。

〔この笑顔がくせ者なんだよな〕

「イチ・ロー、おぬし、何のために武術を覚えようと思った」

「はい。自分が元の国に帰る旅で死なないようにするためです」

「それで、ワールドマスターに会いたいと考えた訳か」

「どうして、それを」

「推薦状の中に書いてあった」

「そうですか」

「イチ・ロー、頼みがあるんじゃが」

「なんでしょう」

「チェリーの前では、ワールドマスターの話をしないで欲しいんじゃ」

「なぜですか」

「あの子の父親、ワシの息子は、十年前に、チャレンジャーに付いてワールドマスターに戦いを挑んだ。チェリーが五歳の時じゃ。そして、帰ってこなかった」

〔十足す五で、十五歳。ということは、やっぱり俺よりも年下だったのか〕

「ワールドマスターを恨んでるんですか」

「おそらくな。あの子の気性じゃ、表には出さんじゃろが」

 カンボジはその場を離れた。

 離れ際、カンボジが一郎に聞いた。

「どれくらいで終わりそうじゃ」

「わかりません。夜中までかかるかも、知れません」

「そうか。それなら、終わるまで、夕食はないと思えよ」

〔本当かよ〕

「はい、分かりました」

 カンボジは、道場に戻っていった。

 残された一郎は、再び、薪割りを始めた。

 

         5,

 

 日が傾きかすかに空の色が淡くなったとき、チェリーが帰ってきた。手に、夕食の材料が入った籠を持っていた。

「あんた、まだ、やってたの?」

 薪割り以外目もくれない一郎にチェリーの言葉が聞こえるはずはなかった。

「ふん」

 無視されたことに少しむっとなったチェリーは、家の中に入った。

 やがて、チェリーが夕食の支度をする音が外に響いてくるようになった。それも一郎には聞こえていなかった。

 一郎は手の中に焼けるような痛みを覚えて斧を置いた。

 開いた手のひらに肉刺ができて、それがつぶれていた。

 一郎は迷った。

〔手の肉刺がつぶれたんだから、これなら老師も許してくれるだろう。だが、まだ体力は残っている〕

 一郎の頭の上にタオルが振ってきた。

 一郎はタオルを手にとって、振り返った。

 勝手口の扉の前にチェリーが立っていた。

「そのタオルなら、好きに使っていいわよ」

 表情は無愛想だが、タオルの心遣いが一郎にはうれしかった。

「あ、ありがとう、チェリー、‥‥、先輩」

 チェリーを先輩と呼ぶには、一郎には若干の戸惑いがあった。

〔慣れるまで時間がかかりそうだ〕

 チェリーはそんなことは気にせず一郎に注文を付けた。

「ありがとうございます」

「え」

「仮にも先輩に対する言葉遣いなんだから、もっと丁寧に。当然でしょ?」

「は、はい」

 一瞬の沈黙に、一郎はチェリーが言い直しを期待していることに気づいた。

「ありがとうございました、先輩」

「よろしい」

〔なに偉そうに言ってんだか〕

 一郎は心の中で肩をすくめた。

 チェリーは白いテニスボールのようなものを投げた。

「おじいちゃんには内緒よ。いい?」

「これは」

 一郎は手の中の産毛に覆われたボール状のものに記憶がなかった。

「あんた、桃を見たことがないの?」

「え、これが、桃」

 一郎は手の中でチェリーが言う「桃」を転がしてみた。桃特有の割れ目がなく、きれいに球状をしていて、ボールの空気を入れるための臍のようなものが付いていた。

 ボールの臍のように見えるのは、木の枝からもぎ取った跡だった。

 親指で皮を強く押してみると、皮は滑るようにめくれ、みずみずしい果肉が現れた。そして、おいしそうな甘い香りが漂ってきた。

 一郎はたまらず一口かじった。

〔甘くて、少し冷たい〕

 桃と言うよりは、梨に近い味だった。

 一郎は思わずむしゃぶりついた。

 気づいたときには、中心の種だけしか残っていなかった。

「あー、ごちそうさまでした」

「じゃ、一つ、『貸し』にしとくから、後でちゃんと返してね」

 チェリーは余裕たっぷりの笑顔を浮かべると、扉を開けて中に入っていった。

〔抜け目のない女の子だな〕

 一郎は薪割りを再開しようとして、すでに空が茜色になっているのに気づいた。

 しかし、桃で体力と気力が回復した一郎は斧を握るのが苦にならなかった。ただ、つぶれた肉刺が気になり、一郎は斧の柄にタオルを巻いた。

 薪の材料の山はまだ一郎の肩ほどまで残っていた。

 

         6,

 

 日が沈んでから二時間ほどが過ぎた頃、一郎の体力も限界が近づいてきた。斧を振り上げる力が腕に残っていなかった。

 パンパンにはれた両腕を見つめて、一郎は途方に暮れた。

 残った薪の材料も何とか数が数えられるまで減ってきた。

〔だめだ。もう腕が上がらない〕

 先ほど桃を食べたが、空腹はそんなことで押さえられなかった。

 何度か休憩も繰り返してきたが、効果も長続きはしなかった。

〔あきらめるか。いや、初日からそんな弱気でどうする。あと少しなのに〕

 斧から手を放すと、一郎はその場で座り込んだ。

〔動かせそうな筋肉と言うと、足と、腹筋と背筋か〕

 一郎は残った力のすべてを使い切る方法を考えていた。

〔やってみるか〕

 一郎は考えをまとめると立ち上がった。

 まず、薪の材料を切り株の上に載せる。材料自体はそれほど重くないので、その作業は苦にならなかった。

 一郎は斧の側に屈んだ。斧を右の脇の下に挟み、左手で脇のすぐ側の斧の柄を押さえ、右手の肘から先を柄に沿って支えるように伸ばした。

 それから、屈伸運動の要領で、一郎は素早く体を沈め、斧を気に向けて打ち下ろした。

 斧の当たったところから、木はきれいに裂けた。ただ、中心からは大きくずれていた。

〔あとは狙いを付けるだけか。体重をうまく乗せて、勢いもつけないと〕

 四回の挑戦で、木はきれいに二つに割れるようになった。

 カンボジとチェリーは、食卓の前で一郎が来るのを待っていた。

「チェリー、おまえまで付き合うことはなかろう」

「はん、冗談でしょう、おじいちゃん? 冷えてまずくなった料理を出すなんて、あたしのプライドが許さないのよ」

「ほほう、一郎のことが気になるのか」

「まあね」

 チェリーは意味深な笑顔を浮かべた。

「あいつ、あたしの料理なんかより、もっとおいしいものを食べたことがあるのよ」

「よその国から来たんじゃ。この国の味に慣れていないだけじゃよ」

「だったら、あたしの名にかけて、あいつの国の料理よりもおいしいものを作るまでよ」

〔たまに男に興味を持ったかと思えば、男を屈服させることしか思いつかんのか〕

 そのとき、勝手口を開けて一郎が入ってきた。

「老師、終わりました」

 一郎ははっきりそう言うと壁にもたれて、そのまま尻餅を付いた。カンボジに向けられた笑顔は満足そうだった。

 カンボジも満足そうに、笑顔を浮かべた。

「それじゃ、夕食にしよう」

「え、おじいちゃん、確かめないの?」

「イチ・ローが、『終わった』と言ったのじゃ。それで十分じゃよ」

 一郎は力を振り絞るように立ち上がると、席に着いた。

「食べる力は、残ってるわよね? それとも、食べさせて欲しい?」

 チェリーは一郎の前にスープを置いて言った。

「自分で食べます」

 一郎はきっぱりと言うと、スプーンを左手で持った。持ち上げたとたん、スプーンが震えてスープの入った皿を鳴らした。

「イチ・ロー、あんた」

「大丈夫です、チェリー先輩」

「そう? 今度、皿鳴らしたら、皿ごと口に突っ込むわよ」

「はい」

〔まさか、夕食が最後の重労働になるとは〕

 一郎は最後の最後に残った力で夕食を食べることになった。

 当然、「おいしい」など料理の感想を言う余裕はなかった。

 食べてる間に体力も多少は回復しかけていたが、気力は尽きかけていた。

〔疲れた。ああ、早く、眠りたい〕

 それが一郎の正直な気持ちだった。

「食べ終わったら、食器の片づけでしょ?」

 一郎はチェリーの言葉に逆らうのも面倒になっていた。

 食べ終わった一郎は、のろのろと食器を洗い場に持って後片付けを始めた。

 食器を洗いながら、一郎は半分眠りかけていた。

「眠るのは洗い終わってからよ」

 チェリーの拳が一郎の頭を軽くノックした。

 一郎は眠気と戦いながら、やっとの事で食器を洗い終わった。

 チェリーに案内されて、一郎は自分の眠る場所にたどり着いた。それが道場の隅だったとは、一郎は翌朝起きてから初めて知ることになった。

 朦朧としながらも、一郎はカンボジとチェリーが遅くまで待っていてくれたことを悟った。

「遅くまで待っていてくれたんですね。ありがとうございました」

「あんた、見込みはあるわよ。前に来てたリーアン王子は、最初の薪割りが夜明けまでかかってたから」

「へえ、あの王子様が」

 一郎は床に敷かれた毛布の上に腰を下ろした。

「おやすみ、イチ・ロー」

 背中を向けたチェリーに一郎は、頭の中に浮かんだ最後の言葉を投げかけた。

「おやすみなさい、チェリー先輩。料理、おいしかったですよ」

「へえ、なにがおいしかったの?」

 振り返ったチェリーの目にはもう寝息を立てている一郎の姿が映った。

 返事がなかったことにチェリーは苦笑してその場を後にした。

 ともかく、一郎の長かった入門初日はようやく終わった。

 

         〇

 

 最初の一週間、一郎に与えられた課題は、薪割りだけだった。一週間後には、日が沈むまでに薪割りが終わるようになっていた。

 


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