「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。
ダウンロードできます。(ただし、一太郎Ver.6形式です。すみません)
〇
夕闇が砂漠に迫っていた。雲一つない空にオレンジ色のベールがかけられようとしている。
そのオレンジ色が次第に濃い闇に変わる部分に一番星が輝いていた。
砂漠を歩き始めて初日、水を用意しなかったことに気づいた一郎だったが、フィビーがオアシスの場所覚えていて、そこでフィビーの持っていた水袋に水を蓄えることができた。
食料は、フィビーの鞄の中に、一週間分入っていた。肉や野菜を乾燥させた保存食の一種らしいが、少量を口に入れるだけで、水分でみるみる膨らみ口の中をいっぱいにした。味付けは、カレーに似ていたがその辛さに慣れるまで、水を我慢しなければならないのが、一郎にはつらかった。
しかし、砂漠での基本的な過ごし方は、一郎の方が上手だった。
一郎はかつて見た映画を思い出し、主人公の真似をした。砂漠を移動する際には朝夕の涼しい時期を選び、昼は砂丘の陰で直射日光を避け、夜はオアシスの植物の葉を敷いて地面からの冷気を避けた。
それが三日続いた。平和な三日だった。
四日目の夜になった。
1,
〔きれいな星空だ〕
一郎は大きな葉の上に寝転がりながら、満天に宝石の詰まった鉱脈のような夜空を眺めていた。
そこに一郎の知った月も星もなかった。星の並びも一郎の記憶する星座と一致するものは一つもなかった。
だが、北極星だけは存在した。フィビーの話によれば北極星ではなく「天の臍(へそ)」と呼ばれているということだった。
夜空にただ一点動かない星があり、その周りに六つの星が輝いている。見ようによっては臍の形に見えないこともない。
たき火を挟んで、フィビーが寝ているはずだった。この三日間はずっとそうしていた。
一郎なりの配慮だった。
今、一郎のいる場所は全く未知の世界だった。元の世界に帰る方法も全くわからない。
一郎が頼りにできるのは、フィビーだけと言える。そのフィビーの機嫌を損ねるようなことだけは絶対に避けたい、と一郎は考えていた。
たき火の向こうで眠っていると思ったフィビーが起きあがった。
その気配を感じて、一郎も上半身を起こした。
たき火を回り込むように、フィビーは一郎の傍らに立った。見れば、肩に一郎の貸したジャンパーを羽織っていた。
「どうしたんです」
何気なく聞いた一郎の声に、一瞬フィビーははっとする。
返事を待っている一郎の目の前で、フィビーはまたもや、膝を付き深く頭を下げた。
「イチ・ロー様、本当にありがとうございます」
「なにを言ってるんです。お国まではまだあるんじゃないんですか。礼を言うのは早すぎますよ」
「いいえ、ここはもう国まであと一日の距離のところ。明日の夕刻には、国の外門に辿り着けると思います」
「え、一週間かかるというお話では?」
フィビーは顔を上げるとやや恥ずかしげに
微笑んで見せた。
「それは、従者を従えておりました往きの話です。皆、わたしの体を気遣って、行程を長めにとってくれたのでしょう」
〔それは、言い換えると、僕の足が速すぎた、ということかな〕
「それに、イチ・ロー様ほど砂漠を熟知された方にお会いしたのは、わたし、初めてです」
「いやあ、そう言っていただけるのはうれしいんですが、僕の知識など、世界の中の爪の垢程度で」
フィビーは強く首を振った。
「いいえ。それでも、どれほどこのわたしの助けになったことか。国に戻りました暁には、イチ・ロー様に精一杯、酬いさせていただきます」
「そうですか」
一郎には曖昧に相づちを打つことしかできなかった。
一郎は、フィビーにはまだ、自分が今いる世界とは全く異なる世界から来たことを告げていなかった。
一郎には自分の立場をフィビーにうまく伝えられる自信がなかった。
しかし、フィビーが一郎を見る目には、尊敬と好意の色がはっきりと現れていた。それが分かっただけで、一郎は満足してしまった。
フィビーの目にはそれ以外にも、一郎に訴えているものがあった。一郎はそれに気づかなかった。
「フィビー姫、もう寝ましょう。明日も早いですから」
「イチ・ロー様」
強い意志が込められたような言葉だった。
「お差し支えなければ、イチ・ロー様のご希望をお聞かせ下さい」
一郎は、フィビーの思い詰めたような表情にどう反応して いいか分からなかった。正確には、正しい反応の仕方があるような気がするのだが、別の答えしか思い浮かばない、という気分だった。
「実は、元の世界に帰る方法を探しているんです」
一郎はとりあえず本当のことを話すことにした。
「元の世界、とは?」
「僕がいた世界は、こことは、全然違う世界なんですよ」
フィビーは少し首を傾げる仕草を見せた。
「ごらんの通り、フィビー姫と僕とでは着ているものが違います」
一郎は星空を指さした。
「星空も僕の知っている星は一つもないし、僕の知っている地名はここにはなにもない」
「でも、イチ・ロー様は、わたしの国の言葉を話してらっしゃいますわ」
「それが、唯一の救いというか、大きな謎なんですよ」
しばらく考え込んだあと、フィビーは何かに気づいたように大きく頷いた。
「そうでした。ここはワールドマスターの世界。言葉で不自由はありませんわ」
「ワールドマスター?」
「ええ、この世界の森羅万象、あらゆることを司る万能の人ですわ。貿易に不自由がないように、人の話す言葉を統一なさっているのもそのお仕事のひとつです」
〔なんだ、それは?〕
「この世でもっとも神に近いお方、それがワールドマスターなのです」
「しかし、そこまでフィビー姫が言われるなら、神のように敬うのが普通のような気がするんですが」
「イチ・ロー様は、やはり、別の世界からいらしたのですね」
フィビーは少し寂しそうに目を伏せた。
「ワールドマスターは、もとはわたしたちと同じ人間だったものなのです」
「え、どういうことです?」
「十年に一度、この世界にチャレンジャーと呼ばれるものが現れ、そのものがワールドマスターと戦い、勝ったときは」
「ワールドマスターが、入れ替わる」
「そのとおりですわ」
「この世界のすべてをたった一人の人間が管理しているわけですか」
「すべてではありません。人の心を支配する事はできませんし、生き物の生死は自然に任されています」
「危険じゃないんですか」
「確かに、歴史上何度か、ワールドマスターの気まぐれで、国が滅びかけたこともありますわ」
フィビーは一息つくように、座った足を組み直した。
「でも、そのたびにチャレンジャーが現れて、世界を安定に導いてくれるのです」
「その、ワールドマスターに会うことができたら、僕の世界へ戻る方法が分かるかもしれない」
一瞬、沈黙があった。
「‥‥、ええ、たぶん」
フィビーは立ち上がると一歩たき火の向こうへ歩き出した。
「でも、わたし、イチ・ロー様がチャレンジャーなのかと思ってました」
〔え、それってどういう意味なんだ〕
問い返そうと思ったが、フィビーが横になったので、一郎は言葉を飲み込んだ。
「おやすみなさい」
何かの鈴を鳴らすような声が一郎の耳に届いた。
「おやすみなさい」
反射的に一郎は声を出していた。
横になった一郎の耳に、砂のさらさらと崩れる音が聞こえた。
2,
まぶたに朝の光が感じられた。
「一郎、起きなさい」
寝起きに母親の声は、気持ちのいいものじゃない。だから、目覚ましは、声の録音ができるものを使い、女の子の声を吹き込んで使っている。
それが聞こえなかったらしく、母親が起こしに来たようだ。
「まったく、受験勉強かと思ったら、朝までなにやってたの。早く起きないと、学校遅刻するわよ」
一郎は重い目をこじ開けるように開いた。
「あー、もー、うるさいなー、朝っぱらから」
一郎は、肩を揺する手を、払いのけようと少し力を入れた。
一郎の手に当たった母親の手は妙に細く柔らかかった。
「母さん、子供じゃないんだから、一人で起きれるよ」
言い終わって、一郎は、いつもの朝とは違うことに気づいた。
〔何か今、若い女の手だったような〕
ハッとなって起きあがった一郎の顔に、目を丸くしたフィビーの顔が飛び込んできた。周囲の砂漠と、青い空という単純な景色に、一郎は自分がまだ、異世界にとどまっているのを知った。
フィビーの右手が少し引かれた。それを見て、一郎は肩を揺すったのがフィビーであると知った。
「ハハッ。つい、いつもクセで。ハハッ」
一郎は照れた笑いを作った。
〔うーん、なんだか、とても恥ずかしい〕
ちらっと見ると、フィビーは手を口に当ててプッと吹きだした。
〔えっ〕
今度は一郎の方が呆気にとられる番だった。
フィビーは一郎に顔を背けながらも、肩を震わせ、クックと吹き出すような笑いが止まらないようだった。
一郎は、フィビーのその姿がクラスメートの女子の誰かに似ている気がした。
〔お姫様って、こんな笑い方をするんだろうか。時代劇だと、くすっと笑っておしまいだったと思うんだが〕
よく考えれば、ここは一郎の知っている世界ではないのだから、一郎の価値観が当てはまるはずはない。だが、フィビーの反応に一郎は親近感を覚えた。
「イチ・ロー様、ごめんなさい」
やっと笑いを抑えた様子で、フィビーが振り向いた。
振り向いたフィビーの表情に、一郎はどきっとした。
〔きれいだ〕
それは、胡蝶蘭のような美しい花が開く様によく似ていた。
〔そうか。女性の笑顔を花が開くように表現する小説が多いのはこういうことか〕
一郎は別の意味でフィビーの笑顔の美しさに納得していた。
「でも、よかった」
笑い疲れたのか、一息つくように、フィビーが漏らした。
「なにが」
一郎はうっかり敬語を使うのを忘れた。
あわてて、一郎は言葉をつないだ。
「ですか」
「イチ・ロー様にも、お母様がいらして、ご家族がおありなんですね」
「それは、以前にも申しましたとおり、‥‥」
一郎はあわてたのと慣れない敬語の使い過ぎで、「とおり」の部分の声が少し裏がえった。
「でも、異世界から来られた方の、ふだんの生活というものが、想像できなくて。おかげで少しだけ、イチ・ロー様の暮らしぶりが分かりましたわ」
「いやあ、お恥ずかしい限りです」
一郎は作る表情に困って、顔を太陽に向けた。すでに、地平線と天頂の四分の一にまで日が昇っており、気温もすでに暖かさを通り越そうとしていた。しかし、それほど暑さが感じられないのは、やはりフィビーの国が近いからだろうと納得していた。
「それじゃ、フィビー姫、出発しましょうか」
「はい」
一郎は荷物を肩に担ぐと、フィビーが立ち上がるのを待った。
「イチ・ロー様」
フィビーは立ち上がりながら、衣服の砂埃を払い落とした。
「なんでしょう」
「イチ・ロー様のお国のこと、もう少し詳しくお聞かせ下さい」
「喜んで」
一郎は、自然に笑顔が出せるようになったことに気がついた。
〔異世界というのも悪くはないか〕
見知らぬ世界の人とも心の交流ができたという自信が、一郎の心を軽くしていた。
その一郎たちを見つめる目が空の上にあった。猿人の森で一郎を助けたウィズとコンプだった。
ウィズは何かに寝そべるような姿勢で空中に浮いていた。
「あーあ、ほのぼのとしちゃって。いいムードよねー、コンプ」
コンプと呼ばれたものは、ウィズの傍らで布のようなものにくるまって浮いていた。その大きさはウィズの体の半分ぐらいの大きさで、大きなビーチボールが布にくるまれているようだった。
ウィズの言葉には応えず、コンプは抑えた声でいった。
「奴の135ヨット(1ヨット=2メートル、約270メートル)前方に、サンドボーラーが一匹」
「また、あの砂漠だんご虫なの。はいはい、退治しますわよ」
「いや、今回は様子を見るように、ワールドマスターから命令が出ている」
ウィズは驚いて上半身を起こした。
「えっ? だってあのボーヤたち、武器もなにもないのよ」
この四日間、一郎たちが砂漠を無事に通過できたのは、ウィズとコンプが邪魔になりそうなサンドボーラーなどの野生生物を排除していたからだった。
「マスターの命令だ」
「あのボーヤの実力を見るという訳ね」
コンプは答えない。
ウィズはそれを見て、意味ありげに笑顔を浮かべた。
「電撃魔法以外には無敵のサンドボーラーに、武器もない魔法も使えないボーヤたちか。おもしろいわね」
一郎たちの位置からは、砂丘が三つ連なっていて、サンドボーラーの位置はつかめなかった。しかし、薄いグレーで光沢のある殻に覆われた巨大な昆虫はゆっくりと静かに、一郎たちに向かっていた。
3,
歩きながら一郎は、自分のいた現代日本のことをフィビーに説明していた。学校、町、車、鉄道、飛行機、テレビ、ラジオ、ビデオ、現代のあらゆるものがフィビーにとっては未知のものだった。
「たとえば、フィビー姫が肩に掛けておられるジャンパーは、特殊な糸が使われているんですよ」
「特殊といいますと」
「今わたしが着ているものもそうですが、植物から取り出したものでも動物から取り出したものでもないんですよ」
「え、それはどういうことです」
「薬品を使って合成したものなんですよ」
「薬ですか」
「ええ、ナイロンとポリエステルという」
「ぽ、れす、てる」
一郎は、フィビーが現代の知識で混乱しそうになったのを見て話題を変えた。
「この砂漠には、生き物はいないんですか」
「砂トカゲや、砂毛虫、あと、サンドボーラーが」
「サンドボーラーとは」
「巨大な虫です。固い殻に覆われて、砂漠を渡る生き物の水分を吸って生きている、凶暴な生き物ですわ」
フィビーの顔がかすかにこわばった。
「そのサンドボーラーに、わたしに付いてきたみんなは」
フィビーは声を詰まらせた。
「砂漠を越えて、猿人の森にたどり着いたのは、わたしとマティーだけ。そのマティーも」
フィビーの胸に熱いものがこみ上げてきて、最後の言葉を震わせた。フィビーの足が止まった。
「マティー。小さい頃から、ずっと、わたしの、世話ばかりで」
フィビーは人差し指で、涙を拭う仕草を見せた。
マティーの名前は、一郎の胸も熱くした。
この世界へ来て初めて出会った女性で、一郎の腕の中で息絶えた初めての女性だった。
〔もし、彼女に会っていなかったら、フィビー姫とこうして会うこともなかったのだろう〕
そして、当てもなく砂漠を彷徨っていたかもしれない。
「そのマティーさんは、最後に僕と姫を引き会わせてくれた。そして、姫はリアニの実を手に入れ、僕はもとの世界に戻る手がかりをつかんだというわけです」
力無くフィビーは頷いた。
「悲しみで時間を止めないで」
一郎は、フィビーの慰めになるかどうか分からないが、言葉をかけてみることにした。
「みんな、きっと、フィビー姫の、明るい顔が見たかったはずだから」
それは一郎が知っている歌詞の一節をもじった言葉だった。
「ずいぶん気障な言葉ですわね」
「えっ」
涙をためた目ににらみ返されて、一郎は思わずひるんだ。
〔いかん。調子に乗りすぎたかな〕
一郎を横目にフィビーがすたすたと歩き出した。
〔うーん、元気が出たようだから、これでいいのか〕
そのフィビーの足がぴたりと止まった。
「サンドボーラー」
フィビーがぽつりと漏らした。
「え、どこに」
フィビーの前方に視線を移したが、一郎の目には、砂漠と空しか映らなかった。
「こっちに来ますわ」
フィビーの指した指がかすかに震えていた。
フィビーのやや緊張した表情から、震える指先、そして指し示す方向へ、視線を移したとき、一郎は思わず声を上げた。
「砂丘が、動いている」
「なに、呑気なことを。逃げるのよ」
フィビーの厳しい声が一郎の緊張を呼び覚ました。
「サンドボーラーに、みんな殺されたんだから」
〔そうだった〕
しかし、そのサンドボーラーの動きは、人が歩くより少し速い程度で、ちょっと走れば逃げ切れるようだった。
「イチ・ロー様、早く」
フィビーに促され、一郎は走りだそうとして気が付いた。足下が砂地で、ちょっと踏み出すと砂の中に踝あたりまで埋まりそうになるのだ。
一郎は不安を覚えたが、今は逃げるしかなかった。
高見の見物を決め込んでいるウィズはまた寝そべる姿勢に戻って、一郎たちを見下ろしていた。
「走って逃げ切れるモンじゃないんだけどなあ。それに」
ウィズは何かを予想したように一郎たちを見つめた。
「ほら、転んだ」
ウィズはフィビーが倒れたのを見て、ケタケタとにぎやかに笑い出した。
フィビーが倒れた瞬間、一郎は彼女の右足首が九十度以上ねじられたのを見た。
「痛っ」
フィビーの顔の半分が苦痛で歪んだ。
「大丈夫ですか」
一郎がのぞき込むと、フィビーは平気そうに笑顔を浮かべて見せた。
「足をひねったみたい」
しかし、その言葉は正直だった。
「立てますか」
一郎は手を差し出した。
「大丈夫よ。これくらい」
一郎の手を握りながら、フィビーはゆっくりと立ち上がった。
フィビーは厳しい表情で、サンドボーラーとおぼしき砂丘を見つめた。
「イチ・ロー様」
フィビーは思い詰めた表情で言った。
「リアニの実をお願いします。わたしを置いて、逃げて下さい」
「なにを、言ってるんですか」
一郎にはフィビーほどの緊迫感がなかった。サンドボーラーが近づいているとはいえ、まだ百メートル以上も離れているように思われた。その移動速度もそんなに速くは見えない。フィビーを背負って逃げれば、まだ何とかなると思った。
それが、自分の無知ゆえの過ちと、一郎は頭を殴らがるような衝撃とともに覚えた。
「来るわ」
フィビーが悲鳴に近い声を発した。
砂の下を何かが一直線に一郎に向かってきた。その早さは敏捷な小動物、ネズミかゴキブリを思わせた。
「危ない」
フィビーは一郎を突き飛ばした。
「えっ」
事態をつかみかねている一郎は、同時に砂の下から黒光りする鎖が飛び出すのを見た。
〔なんだ、今のは〕
その鎖状のものはフィビーの体にあっと言う間に巻き付いた。フィビーの肩に掛けてあったジャンパーが宙に舞った。
「きゃっ」
巻き付いた鎖がフィビーの体を引きずり倒した。
鎖は砂の下からその全体を現した。鎖の元は、サンドボーラーから発せられたもののようだった。
〔そうか。カメレオンやカエルの舌のように素早く動く、自分の体以上に長い触手を持っていたのか〕
そうと知っていればもっと早く逃げ出していたのに、と思ったがあとの祭りだった。
鎖が巻き取られ、フィビーの体は砂漠を引きずられていく。その速さは人の走る速さに近かった。
〔まだ、間に合う〕
一郎はフィビーに駆け寄ると、ポケットからナイフを取り出した。
〔こんなもの、引きちぎってやる〕
一郎は鎖をつかもうとして、手のひらに激痛が走った。
鎖のような触手の表面には、細かな堅い棘がびっしりと生えていた。
〔こんなものに巻き付かれたら〕
一郎はフィビーの苦痛に歪んだ表情を見て慄然とした。
フィビーの声は激痛に耐えるため、かすれがちになっていた。
「イチ、ロー様、だめ。逃げて」
「フィビー姫、あきらめないで」
一郎は幸いすぐ側に落ちていたジャンパーを拾い上げると、もう一度フィビーの側まで走り寄った。触手にジャンパーを巻き付け、左脇にジャンパーごと触手を挟み込んだ。そのまま、全体重をかけて触手のスピードを鈍らせようとした。しかし、二人分の体重がかかっても、スピードは衰えなかった。
体勢が整ったところで、一郎はナイフを触手に突き立てた。
「この」
一郎は何度もナイフを触手にたたきつけた。
「この、くそ」
しかし、ナイフでは触手の表面に傷を付けるぐらいが精一杯だった。
一郎が左の脇の下に痛みを覚えるのと、ジャンパーが破れるのと同時だった。
〔ジャンパーも限界か〕
ジャンパーの裏地が破れて一郎の左腕の中でズルッと滑った。その瞬間、パチッとはじけるような音がした。同時に触手が震えた。
不意にフィビーに巻き付いていた触手が、フィビーの体を放り出した。
一郎はなぜそうなったのか分からなかったが、倒れているフィビーに駆け寄ると、その体を抱き上げた。普段運動らしいことをしていなかった一郎だが、必死になると力が出るようだった。フィビーの体をすくい上げると、わき目もふらず、一直線に走り出した。
4,
そのまま五十メートルほど走って、一郎は後ろを振り返った。
動きを止めたかに見えたサンドボーラーは、再び、一郎たちに向かってきていた。
〔逃げ切れないかもしれない〕
だが、フィビーを置いて逃げるという考えは全く一郎の頭には浮かばなかった。「猿人の森」の時のように何とかなるような気がしていた。
「イ、チ、ロー」
腕の中で激しい息づかいながら、フィビーが口を開いた。
「大丈夫ですか、フィビー姫」
「逃げて」
一郎はとりあえず、フィビーを砂の上に降ろした。
「姫、落ち着いて聞いてください。きっと何とかします」
フィビーは首を横に振った。
「もう、だめよ。あなただけでも、逃げて。リアニの実を、母に、届けて」
弱々しい声だったが、決意の固さがあった。
「それだけは聞けません」
一郎は強い調子で言い返した。
「姫がいなくなったら、僕は困ります」
「わたしといたら、サンドボーラーからは逃げ切れないわ」
「きっと何とかなります。姫、落ち着いてください」
一郎はフィビーを落ち着かせようと、笑顔を見せた。
「あのサンドボーラーの弱点を、教えてください」
「だめよ。どんな武器もあれには通じないわ」
「いいえ、何かあるはずです。でなければ」
一郎の「でなければ」は、科白の勢いから出た言葉だった。しかし、それに触発されたように、一郎の中でひらめくものがあった。
「そう、でなければ、サンドボーラーが姫を放すはずが、ありません」
一郎の真剣な表情に、フィビーも希望を持ったようだった。
フィビーは目を閉じて深呼吸をした。
ひとつ、ふたつ、息を吐き終えるとフィビーは、目を開けた。その目に輝きが戻っていた。
「ひとつだけ。雷撃の魔法なら」
「雷、ですか」
「ええ、雷なら、どんな弱いものでも、動けなくなります」
〔雷。電気か〕
一瞬、一郎は考え込んだ。砂漠の真ん中で、乾電池の一個も持っていない状態でどうやって電気を起こすか。持ってきたペンライトは猿人の森で失われていた。
〔そうか〕
さっきの出来事を考えれば答えはすぐに浮かんだ。
「フィビー姫、何とかなるかもしれません」
「え」
フィビーは驚きよりも、喜びに満ちた表情を見せた。
一郎はにっこりと笑って、立ち上がった。
「姫は絶対にここで動かないでください」
一郎は颯爽とサンドボーラーに向かっていった。
上空から高見の見物を決め込んでいたウィズは、ことの成り行きをおもしろそうに見ていた。
「あら」
一郎とフィビーが何かを相談していたのは分かったが、その内容まで聞き取っていたわけではなかった。
その一郎が、立ち上がってフィビーの側を離れたとき、ウィズはてっきり逃げ出すものと思っていた。
一郎は逆にサンドボーラーに向かっていた。
「しかも、素手で。どうする気だろ、あのボウヤ」
「わからん」
「あら、珍しい。コンプが会話に加わるなんて」
「雷撃魔法が有効なのは分かったようだったが」
「ふーん」
ウィズは一郎に視線を戻した。
〇
サンドボーラーは一週間ぶりの「獲物」に喜んでいた。いつものように触手を使って、「獲物」を捕獲できたと思ったとき、一番嫌いな電気が触手を走ったような気がして思わず「獲物」を放した。
しかし、それはごく弱いものだったので、サンドボーラーは気を取り直して逃げた「獲物」を追いかけることにした。
サンドボーラーは、地面の震えと砂の崩れる音で「獲物」を探した。しばらくなにも動きがなかったので、サンドボーラーは逃げられたのかと思いあきらめかけた。
やがて、「獲物」が動き出した。しかも、「獲物」はこちらにまっすぐ向かってくる。
サンドボーラーは狂喜して、触手を急いで巻き戻した。これで一週間ぶりに飢えと渇きをいやすことができる。
しかし、触手を巻き戻すよりも早く、「獲物」の方がサンドボーラーにたどり着いた。すると、不思議なことに、「獲物」はサンドボーラーの背中を駆け上がると、何かで背中の表面をこすり始めた。
「獲物」が至近にいることでサンドボーラーは安心して、触手を巻き戻し続けた。もう少しで巻き終わるというとき「獲物」が背中を滑り降りてきた。
そして、「獲物」が背中から離れた瞬間、サンドボーラーの体を電気が走った。
〇
「えっ?」
ウィズは思わず身を乗り出した。
「むっ」
コンプも大いに興味をそそられたようで、思わず声を漏らしていた。
一郎がなにをしたのか、正確にはわからなかったが、サンドボーラーに対して電撃を行ったように見えた。その直前に一郎が行った着ているものでサンドボーラーの表面を磨くような動作が電撃を呼び起こすとは、ウィズもコンプも思いも寄らなかったらしい。
その時、大地が震えた。
電撃を食らって、サンドボーラーは一瞬身震いすると、その巨体をくるくるっと丸めた。
その勢いで飛び散る砂を浴びながら、一郎は一目散にサンドボーラーから逃げ出した。
まさに土砂降りの中、砂に埋もれかけながら、一郎はもがくように逃げ出した。
「やったか」
文字通りの土砂降りが止んで、やっと一郎はサンドボーラーを振り返ることができた。
一郎からは逆光になっていることもあって、サンドボーラーは黒い球体に見えた。直径二十メートルの巨大な球体が一郎の目の前に横たわっていた。
サンドボーラーがぴくりとも動かなくなったのを確かめて、一郎は駆け足でその場を離れ、フィビーの元に向かった。
一歩一歩砂を踏みしめるたび、一郎は達成感を覚えていた。
「やった。やった」
一郎は、難しい入試問題を解いたとき以上に、小躍りして喜んだ。
〔答えは、静電気だったんだ〕
5,
フィビーは砂の上に上半身を起こして待っていた。
「イチ・ロー様」
フィビーの顔は緊張のためか、やや蒼白になっていた。それでも、一郎が無事に戻ってきて、泣き出しそうな笑顔を見せた。
「立てますか」
駆け寄った一郎は手を差し出した。
「はい」
フィビーは一郎の手を握ると、すっと立ち上がった。
しかし、立ち上がってすぐに、足下がおぼつかなくなり、フィビーは一郎にもたれかかった。一郎は思わずフィビーの体を抱きとめた。
「あ」
という言葉が二人から同時に発せられた。
そのあと、微妙な沈黙が生まれた。
フィビーの柔らかな体の感触とぬくもりが伝わってきたとき、一郎は体の奥から煩悩が蘇ってくるのを感じた。
〔いかん。理性を取り戻すんだ〕
一郎は首を動かして、サンドボーラーの姿を探した。
一郎は体を丸めたサンドボーラーの姿を見て、団子虫を思い浮かべた。
〔サイズが全然違うけど〕
気分が落ち着いたところで、一郎は視線をフィビーに戻した。
つぶやくような声で、フィビーが顔を上げた。
「よかった」
フィビーの一郎を見上げた目に大粒の涙が浮かんでいた。
一郎はどきっとするよりもずしりと胸に重いものが載せられたような気がした。
〔やっぱり、責任、感じるなあ〕
今回も、たまたま、うまくいったから良かったようなものの、もし失敗していたら、二人とも砂漠の中で終わっていたかもしれない。そんな想いが一郎の頭の中に浮かんだ。
「すみません。ご心配かけました」
一郎は、すまなさそうな表情を作って、話しかけた。
「足、大丈夫ですか」
フィビーは何かを言おうとして、口を開きかけていた。
「お腹も、大丈夫ですか。あのサンドボーラーの触手、痛かったでしょう」
フィビーは戻ってきた一郎がいきなり謝るとは想像していなかった。手柄を自慢するようなら、砂漠にフィビー一人置き去りにしたことで詰ってみようかと思っていた。
フィビーは開いた口を静かに、言葉を飲み込むようにして、ゆっくりと首を振った。
一郎はフィビーの右足首が赤く腫れているのを見て言った。
「でも、その足じゃ、もう歩くのは無理ですね」
一郎はフィビーに背中を向け、そして屈んだ。
「乗ってください」
逡巡しながらも、フィビーは一郎の背中に捕まった。
「しっかり掴まっててくださいよ」
一郎は右手に鞄を持つと、フィビーの足の位置を確かめ、すっと立ち上がった。
フィビーの体重はそれほど気にならなかった。しかし、まだ砂漠が続いているのを見ると、少しだけ自分の体力に不安を感じた。
「不思議な人」
フィビーがぽつりと言った。
「え、今何か言いました」
すぐに一郎は聞き返した。
「何でもありません」
「気分が悪くなったら、言ってくださいよ」 が、フィビーから返事はなかった。
結局、気分が悪くなったのは一郎のほうだった。一時間の間、推定体重四十キロの女の子を背負って炎天下の砂漠を歩くことが、一郎の体力の限界だった。
本来なら、日中に砂漠を歩く予定はないのだが、一郎はフィビーの足首が気になっていた。
〔早くちゃんと手当をしないと〕
一時間ごとに休憩を取って、一郎はフィビーの様子を観察した。フィビーの言葉が少なくなって元気がなくなっていくが一郎には分かった。
それでも、休憩のたびにフィビーは一郎に話しかけ少しでも元気に振る舞おうとしていた。
夕闇が始まるのと同時に一郎が体力が尽きかけていた。二回前の休憩で飲み水もなくなった。
ほとんど足下しか見ていなかった一郎だが、顔を上げたとき、薄暗がりの地平線にいくつもの明かりが見えた。
「フィビー姫、見えてきましたよ」
しかし、返事はなかった。
「もうすぐ町に着きますよ」
それでも返事は返ってこなかった。
「姫、返事をしてください」
一郎は体を軽く揺すってみた。
返事はなかった。代わりに、一郎の肩を掴んでいたフィビーの両手がずり落ち、だらりと垂れ下がった。
ハッとなった一郎は、急いで屈むとフィビーを背中から降ろした。
「姫、しっかりしてください」
一郎はフィビーの肩を揺すってみた。
反応は全くなかった。
〔まさか〕
一郎は思わずフィビーの手首を取って脈を調べた。
〔脈はある〕
次にフィビーの額に手を当ててみた。
〔わずかに熱がある〕
急いで町まで運ばねば、と一郎はすっと立ち上がった。周囲を見渡そうとしたとき、一郎はくらっと何かを意識を吸い取られるような感覚に襲われた。
〔まずい。俺まで意識を失うわけには、‥‥〕
しかし、重力に負けたように、一郎はその場に倒れ込んだ。
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