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「ワールドマスター」の世界を少しでも分かっていただけたらと思って、小説にしてみました。
1.
日がかなり上まで昇った頃、一郎たちは長い坂道を上りきって森を出た。
森を抜けると、目の前にそびえ立つ白亜の尖塔があった。
塔の基部には三層構造の建物があって周囲が高い塀に囲まれていた。
さらにその周囲は、崖だった。潮風と波の音、そして、塔の背後に立ちこめる濃い霧が、一郎の多難な前途を象徴しているようだった。
森から塔までのなだらかな上り坂は五百メートルほどありそうだったが、その中間まで、粗末な小屋やテントが道の両脇にびっしりと並んでいた。
その中で女性らしき人影が数人動いているのが見えた。
女性がこちらを見て隣の女性に声をかけたようだった。
「お戻りになられたわよ」
そう、高い声が聞こえた。
一斉に人影がこちらを振り向いた。
湧き出るようにテントの中や小屋の陰から人影が現れた。
人影はいっせいに動き出し、道の両脇に整然と並んで、行列の通る場所を作り、その場に平伏した。
一郎たちというより、白い衣の行列が人影の脇を通り過ぎようとしたとき、人影はいっせいに動き出した。
「法師様」
「法師様」
「法師さ」「法師様」
人影はすべて女性だった。
皆一様に、身につけている物は粗末で、汚れていた。
「お供え物に、花を摘んで参りました。どうかお納め下さい」
「私めは、食用にできるキノコを集めて参りました。どうか」
しかし、その口調や、視線は、熱かった。必死の形相をしている女性もいた。涙を流しながら訴えている人もいた。
不意に一郎の着物の裾が引かれた。
その手の持ち主も、必死に何かを訴えようとしていた。しかし。
「お、男!」
一郎と目と目があった瞬間、女性の表情は恐怖に塗り変わった。
「いやあっ!」
女性は弾かれたように後ろに飛び退いた。
「きゃーっ!」
別のところからも悲鳴が上がった。
「男よ。男がいる!」
見れば別の女性がギンガを指さして震えていた。
「きゃあ」
「いやあ」
あちこちから悲鳴が上がり始め、それまで列を囲んでいた女性の環が次第に広がり始めた。
列は再び何事もなかったように、静かに進み出した。
それでも低い声が一郎の耳まで届いていた。
「どうして男がいるの?」
「『白の塔』は男子禁制じゃなかったの?」
一郎が振り向くと、ほとんどの女性は目を逸らせるか、体を隠そうとした。数人が、悪意より敵意より、もっと強い憎悪に満ちた目でにらみ返してきた。
一郎は背筋に冷たい汗が伝い落ちる感覚にとらわれて、前を向いた。
列の先頭は門の脇に立って、中に入る者を誘導していた。
一郎に続いて、フィビー、ローリー、ギンガ、チェリーが中に入ったときだった。
チェリーは視線に気づいて、門の脇に立っている白いマントの女性を見上げた。
マントに隠れて顔はよく見えなかったが、笑ったような口許がチェリーに向けられていたような気がした。
一郎は閉じられようとする門を振り返った。
門の向こうでは、先ほどの女性たちが詰めかけていた。
「お願いです。中に入れて下さい!」
「もう三か月も待っているんです」
「いつになったら入れてもらえるんですか!」
しかし、門は次第に閉じられていった。
さきほど門の脇に立った二人が、中に入ろうとする女性を押しとどめていた。
門を閉めようとしているのは内側に立った列の最後尾にいた二人だった。
「待って下さい!」
「待って! 閉めないで!」
悲痛な叫び声が閉じられつつある門の向こうで小さくなっていった。
門の向こうで門番となった人の声が聞こえてきた。
「今日は、この『塔』にとって大切なお客様をお迎えに出かけたのです。『巡回』はいつも通り行いますので、みなさんも落ち着いて、元の場所に戻って下さい」
よく通る声だな、と一郎は思った。
チェリーはその声をどこかで聞いたような気がしていた。
そして、一郎たちは塔の中に案内された。
〔ここが白の塔か。それにしても、外にいるたくさんの女の人たちは、一体・・・?〕
一郎の胸の中にいくつかの疑問が渦巻いていた。
2.
一郎たちが通されたのは、大広間だった。
一郎たちを案内した大勢の神聖術士たちは、一斉に壁際に整列した。
二階部分の張り出した廊下にも、大勢の神聖術士が並んでいた。
整列した神聖術士たちは、顔を覆っていたフードだけはずして、姿勢を正した。しかし、その視線の多くは一郎たちに冷ややかなものを向けていた。
一郎たちがやや戸惑い気味にその様子を眺めていると一際響く声が大広間を満たした。
「宗主様、ご入場!」
一斉に神聖術士たちは、深々と頭を下げた。
体を曲げる角度までぴったりと揃っていた。
広間の右手奥の扉が開き、人影が現れた。
一郎の着物の裾をフィビーが引っ張った。
「イチ・ロー様、皆さんに会わせた方が」
見ると、ローリーもギンガも頭を下げていた。
「あ、ああ」
一郎はフィビーに促されて、軽く頭を下げた。一郎はどんな人が出てくるのかと思い、上目遣いにその扉の奥に視線を合わせた。
先頭はお付きの人らしく、その次に豪華な錦の衣を羽織った、老女が出てきた。
お付きの人に手を引かれ、その老女はゆっくりと中央の台座の上にあがり、その中央にでんと置かれた大きな椅子に、さらにゆっくりと慎重に腰を下ろした。お付きの人はしずしずと後ろに下がっていった。
老女は一郎の方を見た。視線が一瞬合った。
一郎はあわてて視線を床に落とした。
くすっと老女が笑ったのがわかった。
「まあ、そんなに畏まらないでちょうだい。ここは王宮ではないのですから」
お付きの女性が「宗主様」とあわてたような声でささやいたが、老女はそれを手で制した。
一郎はゆっくりと顔を上げた。
年齢を重ねて深くなった皺が顔に刻まれていたが、目の前の老女の顔は人懐こい笑顔をたたえていた。
「皆さん、もうちょっと、近くへ寄って下さるかしら」
「宗主」と呼ばれた老女が手招きをした。
一郎はゆっくりと三歩、進んだ。
他のみんなも同じだけ前へ歩を進めた。
老女はため息とも、含み笑いともつかない息を吐いた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
椅子を離れ台座から降りた。たちどころに周囲でざわめきが起こった。
老女はまっすぐに一郎を見つめながら進んできた。一郎は息を止めて何が起こるのか、待った。視線は老女から、はずせなかった。
不意に一郎から視線をはずし、一郎の脇を通り過ぎ、フィビーの前に立った。
老女はフィビーの手をとり、慈しむようにさすり始めた。
「よく来たね、フィビー」
「そう、しゅ様?」
最初、フィビーは戸惑いを隠せなかったが、その顔にどこか懐かしさを感じていた。
「あの、失礼ですが、どこかでお会いしたことがおありでしょうか?」
絞り出すような緊張した声がフィビーの口からあふれた。
「そうだね。お前はまだ生まれたばかりだったから、覚えていないのも無理はないね」
「え」
フィビーは老女の顔の中に、自分の母親の面影を見つけた。
「まさか」
「あの子は、フィルーは、元気でやっているのかねえ」
母の名前を聞いて、フィビーは唇を震わせながら、老女の手を握った。
「おばあ、様、なのですか?」
老女は、軽くうなずくと、今度はフィビーの肩を抱き寄せた。
「あれから、十六年も経ったんだねえ。よくここまで無事に育ったねえ」
フィビーの目に涙が浮かんでいた。
それがもらい泣きなのでは、一郎が思ったのは、老女の目からすでに涙が溢れていたからだった。
老女は服の下からハンカチを取り出してフィビーの涙を拭った。続いて自分の涙を拭い、椅子に戻った。
「さて、フィビー、何か望みはあるかね」
老女の、宗主の言葉に、再び周りが静まり返った。周囲の視線はフィビーに集まった。
「あの、よろしければ、ここで少し修行をさせて下さい」
その言葉は明らかに一郎に向けられたものだったが、宗主は、満面の笑みをたたえて、うなずいた。
「そんなことで、いいのかい。もっと欲を出してもいいんだよ」
一郎も軽くうなずいた。
フィビーは一度だけ首を横に振ると、笑顔を作った。
「いいえ。まだ、旅の途中ですから、今は十分です」
宗主はお付きの女性に何かを耳打ちした。お付きの女性は一礼してその場を離れた。
宗主は席を立ち上がって声を上げた。
「皆の者、今宵は、愛しい孫が十数年ぶりに戻ってきた祝いの席を設けるぞ。心して準備せよ」
「はい!」
それは、大広間全体が震えるような返事だった。
3.
それから、一郎たちが案内されたのは、一人一人に用意された部屋だった。
やや狭い廊下に並んだ扉の手前から、フィビー、ローリー、チェリー、ギンガ、そして突き当たりの部屋に一郎が割り当てられた。
さらに部屋まで案内するのに、全員に案内役が一人ずつ付いた。
一郎の案内役は、至極丁寧に部屋まで案内した。さらに、窓の開け方から、灯りの着け方、ベッドの使い方まで、順を追って手取り足取り説明した。しかし、そのよどみない言葉が一郎を寄せ付けないようにしていた。
「最後に」
そう言った案内役の神聖術士は、険しい表情で一郎を睨んでいた。
「本来、『白の塔』は男子禁制の聖地ですが、宗主ルファー様の、格別のご高配で、今回限りの例外として、あなたともう一名の入場を、ご許可くだされたのです」
一郎に口を挟む余地はなかった。
「あなたが、ここで、どんな些細なことでも、勝手な振る舞いをした場合」
案内役の神聖術士はやっと息を付いたが、鋭い眼光で一郎にしゃべらせなかった。
「厳罰が下るものと思って下さい。万一悲鳴などが聞こえた場合、容赦はしませんから」
案内役は一郎を睨み付けたまま、後ろへ下がって部屋を出た。
「今宵は歓迎の宴を催しますが、お迎えにあがるまで、部屋を一歩も出ないようにお願いいたします」
言い終えると、一郎に質問する暇も与えず、勢いよく部屋のドアが閉められた。
「はああ」
一郎は緊張感から解放されて、やっと深呼吸ができた。
「なん、なんだ、ここは?」
まるで親の仇のように、睨み付けられたことが、一郎の気分を憂鬱にした。
一郎は、深いため息を吐いて、ベッドに腰を下ろした。
一郎は左手の指輪に右手をかざした。指輪が光って、右手の中にチャレンジャーの剣が現れた。だが、右手に剣の重さが伝わるだけで、それ以上剣は何も語らなかった。
〔ということは、やはり、ここでいいのか〕
一郎は剣を、指輪の状態に戻すと、ベッドに転がった。
ふと窓に目をやると、ガラスの向こうに灰色の空が広がっていた。
〔天気が良くないな〕
一郎は窓に近寄るとガラス越しに空を眺めた。
〔曇っているのとはちょっと違うみたいだな〕
一郎は窓を開けた。
波の音と潮の香りが部屋の中に入ってきた。
〔そうだ。海の側だった〕
一郎の視界には、崖の向こうに、暗い色の海が映っていた。その海が思ったよりも近くで途切れているように見えた。
〔そうか、霧か。霧が出ているんだ〕
一郎は、昔家族で行った北海道の納沙布岬を思い出した。
〔夏だっていうのに、寒くて、風が強かったっけ〕
一郎は自分の心の中にぽっかりと空いている部分を感じていた。
やがて、ドアがノックされ、先ほどの案内役が現れて、宴の準備ができたことを告げた。
○
その頃、宗主ルファーは、「宗務長」と「官房長」という白の塔の中心的な二人を、自室に呼んでいた。
宗務長は、白の塔の神聖術士の養成から派遣までを監督する役で、官房長は、白の塔の建物とそれに関わるすべての人や物を管理する役である。
「宗主様、ご内密なお話とは?」
二人は、ソファに並んで腰を下ろし、小さなテーブルを挟んで向かい側に宗主が座っていた。
「今日、着いた御孫様のことですか?」
宗主は穏やかな顔を少し引き締めて、二人に自分の考えを説明し始めた。
二人は話を聞き終え、これ以上ないほどに驚愕の表情で、顔をこわばらせていた。
「まさに、世界が変わりますわね」
震える声で宗務長は宗主を見つめた。
「まだ、信じられません。本当に、あの者が?」
官房長は、両手を組みかすかに震わせた。
宗主はまた穏やかな表情に戻って、独り言のように漏らした。
「『白の遺志(こころざし)』を継いで、五十年。今度は十年前とは違います。もしかしたら、我らの悲願は成就されるかもしれません」
4.
最初の大広間は簡単な飾り付けが施され、中央に大きなテーブルが置かれていた。
純白のテーブルクロスに覆われたテーブルの中心には大きな燭台が置かれ、数え切れない蝋燭が灯されていた。
用意された歓迎の宴は、マルカム王国の時と比べれば質素に思えた。しかし、一郎は、旅の途中で久しぶりに満足できる食事に出会った。
ただ、ずらりと並んだたくさんの神聖術士に囲まれ、視線が痛いほど刺さるのがわかった。それは、ギンガも同じようで、意外におとなしく食事をしていた。
静かな食事は、「歓迎の宴」というより、どこかのお寺で精進料理を食べている気分になった。
上座にすわっている宗主ルファーは、上品に微笑んで一郎に向かって言った。
「どうです、お若いの」
一郎は慌てて、手元のナプキンで口の周りを拭いて口を開いた。
「はい、とってもおいしいです」
「そう、それはよかった。ところで」
宗主の笑顔は変わらないように見えたが、目の光が鋭く一郎を突き刺していた。
「フィビーのわがままに手を焼いているのではなくて?」
いきなり名前を出されてフィビーの食事の手が止まった。
「いえ、決して、そんな、・・・。いつも、助けられてます」
「そう」
宗主は一郎の言葉に得心した様子で、食事の手を止め、何か考え込むように、目を閉じた。
「あなたは」
宗主はゆっくりと目を開きながら一郎に向かって言った。
「何がお望みかしら?」
一郎は宗主の目の奥にすべてを見抜くような光を見たような気がした。思わず心の侭に言葉が出てしまっていた。
「この世界のことが知りたいんです」
宗主はにっこりと笑って、
「では、明日から図書室にいらっしゃい。私が何でもお答えしますから」
チェリーの心中を察したように、宗主はチェリーにも言葉を向けた。
「そこのあなた、明日の朝食の後、三階のテラスにいらっしゃい」
「え」
不意にチェリーの後ろに立っていた神聖術士の一人が前に進んで口を開いた。
「お待ちしております、チェリー様」
聞き覚えのある声だった。それは、ここまで道案内をしてくれた神聖術士のものだったが、チェリーはもっと以前に聞いたような気がしていた。
「フィビーはあとで、私の部屋にいらっしゃい。特級の参加資格について説明しますから」
「はい」
フィビーは一郎と引き離されることにかすかな不安を覚えた。周囲の神聖術士がかすかにざわめいたのだ。「いきなり特級」という驚きとも妬みとも羨望ともつかない声が小さな針となって胸を刺した。
「あの、宗主様」
ローリーが遠慮がちに話しかけた。席は宗主から一番離れているが、声がよく通っていた。
「ああ、あなたたちは、ご自由になさって結構ですよ」
ギンガは意外そうな顔をした。
「え、おれも?」
宗主はギンガを一瞥して料理に視線に落とした。
「ギンガさんは、ご自身を律する術を身につけておいでのようですから」
ギンガは照れたような、誤魔化すような笑顔を作って食事に戻った。一郎は心の中で「やっぱり」と呟いた。
その後、宗主ルファーはもっぱらフィビーと雑談をしていた。
歓迎の宴が終わってそれぞれの部屋に戻るときも、一人一人に案内役というより監視役の神聖術士が付いた。まるで一郎たちに話をさせないように、丁寧すぎる案内の仕方だった。
一郎は、部屋に入る前に振り返ってみたが、皆一様に不安げな視線を一郎に向けていた。
みんなそれぞれに不安な一夜を過ごしたのだった。
○
ローリーには初めての経験だった。少なくとも、記憶の中で、一人でベッドに寝たという経験は一度もなかった。
ローリーは今になって自分が三人姉妹の一番下だったことを思い出した。
「怖くて寝られないの? だったら一緒に寝てあげましょうか」
一番上の姉の笑顔が浮かんだ。
「ルルー姉様」
懐かしい名前だった。
〔やっと思い出した〕
振り返るとローラーの顔がそこにあったような気がした。
「ローリーって、本当に甘えん坊さんね」
しかし、先日再会したローラーの顔は、笑顔ではなく、敵意に満ちていた。
背けるように寝返りをうつと、今度は目の前にリーアンの顔があった。
「リーアン、様」
まだ三日と離れていないのに、もう何年も会っていないような錯覚に、ローリーは涙をこぼした。
○
「とりあえず、今日の任務は終了、と」
あたりが静かになって、ギンガはやっと安心して、ベッドに体を横たえた。
○
チェリーは、例の聞き覚えのある声を必死に思い出そうとしていた。
「だめだ。思い出せない」
チェリーは記憶の糸をたぐって最初から自分がこれまでであった人の声を思い出そうとした。
白の塔から迎えが来たことでうやむやになってしまったが、チェリーはまだ一郎の問いかけに返事ができないでいた。
「ということで、いいんだろ」
〔簡単に言わないでよ。莫迦〕
チェリーは毛布にくるまるともう一度声の主を思い出そうとした。そうしなければ、一郎を助けず沈黙を守り通した自分を責める声が聞こえてくるようだった。
○
フィビーは、宴の後、ルファーに呼び出されて、聞かされたことを思い返していた。
最初は、明日からの修行の大まかな内容だった。そして、その説明が終わった後に、ルファーはこう付け加えた。
「あなたが、なぜここに来たのかは問わないわ。でも、あなたはここではマルカム王国の第一王女で通っています。そして、あなたのここでの試練はまだ始まったばかりです。それを忘れないで、明日からの修行を頑張りなさい」
ルファーも母フィルーと同じように予知能力があるのだろうか。これから起こることを知っているような口振りだった。
〔おばあさまは、きっとご存じなのだわ、私がチャレンジャーズだということを〕
フィビーは自分の右腕に付けられた刻印をそっとさすった。
フィビーはここで起こることが、自分だけでなく一郎にとっても重要なことのように思えた。
○
一郎はベッドの中で明日から何を調べればよいか、何を知りたいか、整理していた。
〔男が女をモノにする、ということがここではオレの知っていることと差がありすぎる〕
〔あのとき、男たちに囲まれたとき、チェリーもフィビーもギンガも、助けてはくれなかった。なんだろう。一種のしきたりのようなものを感じる〕
〔外にいるたくさんの女の人たちはいったい何なんだ〕
〔ここにいる人はどうしてオレのことを親の仇みたいな目で見るんだろう〕
一郎は睡魔に襲われるまで、多くの疑問点を頭の中で整理しようとした。しかし、解らないことが多すぎた。
5.
翌日、一郎は意表をつかれた。朝食が各自の部屋に運ばれてきた。
〔誰とも接触させないつもりなのか〕
運んできた神聖術士は一郎が食べ終わるまでじっと一言も発せず一郎を見守っていた。
食べ終わると、一郎の部屋にまた同じ案内役が訪れた。朝食を運んできた神聖術士は小職を片付けてさっさと部屋を出て行った。
「おはようございます、イチ・ロー様」
「おはようございます。えーと」
「それでは、ご案内いたします」
「え」
案内役は、一郎が名前を聞こうとするのも気にせず部屋を出て歩き始めた。
慌てて後を追って部屋を出ると、案内役は曲がり角で振り返って一郎を待っていた。
一郎は、フィビーとチェリーの部屋の前で一度立ち止まってノックしてみたかったが、案内役に急かされて断念した。
しかし、案内の途中で、窓の下に広がる広いテラスを見たとき、その真ん中で一人練習しているチェリーの姿が目に入った。一郎は少しほっとした。外の天気も青空が見えたわけではないが昨日よりは雲が少ないように感じられた。
さらに、一郎は、十冊以上の本を抱えて前方がうまく見えずに歩いている神聖術士に出会った。それが、よく見るとフィビーだった。
一郎に気づかず通り過ぎていってしまったが、一郎も声をかけようと思った頃には、案内役が部屋の戸を開けて一郎を促していた。
一郎が案内された部屋は、学校の体育館並の広さを持った図書室だった。ずらりと並んだ本棚にびっしりと本が並べられていた。
窓がそれほど大きくなく、暗い感じの部屋だが、不思議とじめっとした感じも、カビ臭い匂いもしなかった。
手前の閲覧用のいくつかのテーブルのうち、真ん中の一つに宗主ルファーが腰を下ろして手招きをしていた。
「おはようございます、イチ・ロー様」
ルファーはにっこりと笑って挨拶した。
「おはようございます、宗主様」
〔そうだな、仮にも『宗主』と呼ばれて奉られてるんだから、校長、いや、社長と同じぐらいに考えておくかな〕
一郎がそう勝手に思いこんでいると、それが解るかのようにルファーは言葉を発した。
「そんなに畏まらなくていいのよ。フィビーの『おばあちゃん』なんだから」
〔気さくな人だな〕
「まあ、立ち話も何ですから、座って下さい、イチ・ロー様。ああ、案内役ご苦労様、法師ミルキー。もう下がってもよろしい」
案内役の神聖術士の名前がミルキーという名前だと解って一郎は少しほっとした。
一郎は言われるままにルファーの正面の椅子に腰を下ろした。
「まず、私の方から、改めてお礼を申し上げます。イチ・ロー様、よくぞ、フィビーの命をお救い下さいました。老い先短い身ですが、何なりとお聞き下さい。知りうるすべてでお答えいたします」
ルファーは深々と頭を下げた。
一郎も釣られて頭を下げた。
「いえ、それは、むしろこちらの方でして、フィビーにはいつも助けられてます」
あの何百人といた神聖術士を束ねる存在に頭を下げられて一郎は却って焦っていた。
ルファーは顔を上げ元の人懐こい笑顔を浮かべた。
「本当に、謙虚な方なのね。フィビーの言うとおりに」
一郎は照れ隠しに少し緊張気味の笑顔を作った。
「それで、今は、ご自分のお国に戻る方法を探しておられるのね?」
「は、はい」
ルファーは、おもむろに振り向くと、誰もいないはずの本棚を指さして言った。
「法師サラミー、地図帳をここへ」
一郎は誰かが隠れているのかと思っていたが、返事は一郎の真横からした。
「はい、畏まりました、宗主様」
声のする方には、神聖術士が一人いて、本を取って運んできた。
〔あれ? さっきまでここは無人だったような気がしたんだが、見落としていたのか〕
本を運んできた神聖術士は恭しく一礼するとその場を離れた。一郎はその動きを目で追った。
ルファーは本を開いて一郎にあるページの一部を指さした。
「ここを見てくださいます」
ルファーの言葉に本に目を移してみると、1ページがすべて地図になっているところがあった。
ルファーが指さしたのは、地図の左下、大きな島の右下にある半島の部分だった。
一郎はちらっと視線だけでさっき本を取ってきた神聖術士を探したがどこにもいなかった。
「サ・リッサ、という魔法、ご存じなかったかしら?」
「え、ひょっとして、魔法で姿が消せるんですか?」
「そうよ。それで、話を戻しますけど、・・・」
〔うーん、それじゃ確かに迂闊なことはできないな〕
一郎は、ルファーが指さした地図に視線を戻した。
6.
フィビーは「教室」に案内された。
そこは、指導役の神聖術士一人と、神聖術士になる前の「道士」と呼ばれる神聖術士の見習いが12人、背もたれのない丸椅子のようなものに腰掛け、指導役を扇の中心にして並んでいた。丸椅子のように見えたものは、太い丸太を短く切っただけの、簡単な椅子だった。
教室の中に入り、深く一礼して、フィビーは自己紹介した。
「フィビーと申します。よろしくご指導ください」
顔を上げたフィビーに、13人の視線が突き刺さった。
指導役の視線は厳しかったがまじめな雰囲気があった。
見習い道士の視線は、二人が無関心を装っていたが、他の視線は冷ややかだった。
少しの間、沈黙があった。
「フィビー、空いている席に腰をおかけなさい」
指導役の神聖術士の声は乾いた感じがした。
指導役の指差した先に少しほこりをかぶった木の切り株があった。
フィビーは言われるまま、少し緊張した面持ちで、その切り株の側に行き、手で埃を払うと静かに腰を下ろした。
「フィビー」
腰を下ろしたのもつかの間、指導役の声にフィビーはすばやく立ち上がった。
「はい」
「ここは、みなが神聖術士になるため最後の修練を積む場です。出自や身分の違いは意味をなしません。よろしいですか」
「は、はい。承知しております」
暗に「王女」という肩書きも、「宗主の孫」という立場も捨てるように言われているような気がした。
フィビーの返事に気をよくしたのか、指導役は笑顔を見せながら、フィビーに告げた。
「よろしい。では、フィビー、『白の聖典』の第一章を最初から」
指導役の言葉にフィビーは頭の中がまっ白になった。「白の聖典」という言葉の意味がすでにフィビーには分からなかった。
「白の聖典、ですか?」
「そう」
「『白の聖典』というのはどのようなものなのでしょうか?」
その瞬間、周囲でまばらに失笑が起きた。
「うそ」
「やだ」
「知らないの」
フィビーが羞恥の色に顔を染めたとき、指導役は、意味不明の笑みを浮かべながら、別の見習い道士を指名した。
「リラー」
「はい、教師様」
指名された見習い道士は立ち上がって、暗唱し始めた。
「初めに暗黒ありき。其れは、無音、無色、無風の領域にして、無人、無魔、およその生きるもののなき世界なり。上下の別、方位、表裏の別なく、位置定め難き場所なり。天の父、初めに訪れ『こともなし』として去り。しかし、天の父の足跡、微かな光となりて残り。光は天の父を慕いて動き、軌跡を残し、軌跡は『空』を生み出す」
フィビーの表情が明るくなったのを指導役は見逃さなかった。
「リラー、そこまで。では、フィビー、続きを」
「はい」
〔よかった。お母様に教えていただいた、神様の言葉って、ここでは『白の聖典』というんだわ〕
「二たび、天の父、訪れ、空のみの世界を哀れに思い、光を受け止める大地を作りたもう。天の父去りてのち、大地は光を受け止めること適わず。三たび、天の父、訪れ、光を受け止めるものを残す。これを大地の母という。やがて、光は一つとなり、太陽となる。大地の母、太陽の光を受け、天の父に似せて、二人の男の子を産みたもう。名づけて『兄』、『弟』という」
「よろしい」
指導役の言葉に、フィビーは内心ほっと胸をなで下ろした。
しかし、その後の暗唱で、フィビーは全十七章からなる『白の聖典』の最初の二章しか覚えていないことがわかった。
早速指導役から残りをすべて暗唱するように言われ、フィビーは図書室に『白の聖典』全十三巻を取りに行かされた。
その帰りに一郎とすれ違ったのだが、フィビーは本に視界をほとんど奪われていて一郎に気づかなかった。
7.
チェリーが案内されたのは、道場よりも広そうなテラスだった。
しかし、そこには誰もいなかった。空もすっきりと晴れてはいなかった。ところどころ青空がのぞいている、といった風情だった。
仕方なくチェリーは一人でできる『型』の練習を始めた。それが半ばになった頃、チェリーは一郎がいないことで少し寂しくなり、練習を切り上げ、誰か人を呼んで一郎のことを聞こうと思った。
テラスの扉に向かって歩き出そうとしたとき、チェリーの背後から例の聞き覚えのある声がした。
「型の練習を途中でやめるなんて、いつからそんないい加減な練習をするようになったんだ?」
振り向くと、例の神聖術士がテラスの端の柵の前に立っていた。
〔いつから、そこに?〕
そう聞くより先に、その神聖術士の顔を一刻も早く見たかったチェリーは、勇躍、その神聖術士に飛びかかった。
「おお、さすがに、速いな」
チェリーの突進を悠然と眺めていたその神聖術士は胸の前で腕を組んだ。
20メートル以上離れていた距離があっという間に縮んで、チェリーの拳が神聖術士の顔に迫った。
それをそよ風を受け流すように神聖術士がかわした。
一瞬かっとなったチェリーは、拳の速さを上げて神聖術士の顔を狙った。
それを神聖術士の右手が受け止めた。
〔わたしの拳を受け止めた〕
チェリーは軽い驚きの後、目を見張るほど驚くことになった。
拳の風圧が神聖術士のフードを払いのけた。その下には、茶色い髪とチェリーの知った顔があった。
「ラ、ラマミー姐(ねえ)さん」
「久しぶりだな、チェリー。結構、女っぽくなったじゃないか」
懐かしい笑顔に出会って、チェリーの表情も自然に明るくなった。
「お姐さん、どうしてここに?」
ラマミーは、一郎がカンボジに弟子入りする前に弟子入りして修行を一通り終えた、チェリーにとっては兄弟子であり、チェリーがカンボジに引き取られる前からカンボジに師事している旧知の仲であった。
チェリーの心の中に、ラマミーと一緒に修行した日々がよみがえってきた。辛いこともあったが楽しい思い出が多かった。実の姉妹以上に仲良く暮らしていたのだった。
「わたしの質問のほうが先だぞ」
少したしなめるような口調だったが、チェリーにはそれさえも懐かしい感じがした。少し低くてハスキーな声も、男のような口調も、昔のままだった。
「ごめんなさい。一人で練習しているのもなんだから、相手を探そうと思ったの」
「じゃ、ちょうどいい。わたしが久しぶりに相手をしてやろう」
「え? は、はい」
チェリーは一瞬戸惑った。
「どうした? わたしでは不足か?」
意味深な笑みを浮かべてラマミーはチェリーに顔を近づけた。
「いえ、そんな、お姐さんがお相手してくださるなら、十分です」
ラマミーはそれを聞いて軽く目を伏せた。
「ずいぶん自信があるんだな」
「自信だなんて、そんな」
心を見透かされたようなラマミーの言葉にチェリーはかすかに動揺した。
上目遣いに送るラマミーの視線がチェリーには痛かった。
「そうだな。チェリーが、わたしを倒せるほど力を付けたかどうか、試してみるのも面白いな」
「え?」
チェリーはラマミーの視線の奥に悪意のようなものを感じた。
「まあ、それはあとの楽しみにとっておくとして、実はチェリーに頼みがある」
一転してラマミーは人懐こい笑顔になった。
「なんでしょう、お姐さん」
チェリーは少し慎重な物言いをしていた。
「あれだ」
ラマミーが指さした方向にドアがあって、そこから白い大きな荷物を抱えた神聖術士が何人もやってきた。
「ここも結構人が多いから、洗濯が大変なんだ。今日はシーツだけだが、ひとりでやってると結構時間がかかるんだ」
「え、ひょっとして」
「そうだ。干すのを手伝ってくれ」
神聖術士たちはチェリーの目の前に、白い洗い立てのシーツが山のように積まれた大きな洗濯かごをいくつも並べた。
〔こんなにあるの〕
チェリーは目を丸くした。
8.
一郎は、この世界の大まかな歴史を聞いていた。
「まとめて言いますと、昔、人と魔とあらゆる生き物が混在した時代があって、人は魔に虐げられてきた。人はやがて知恵と力を付け、二本の剣を作り出し、魔を封じることに成功した」
「それが、マスターソードとチャレンジャーソードの始まりですか」
「そう。魔と戦って平和な時代が訪れたというのに、人は、人と争うことを覚えてしまったのです」
一郎は自分の持つチャレンジャーの剣に壮大なドラマが隠されているのを知った。それは脳を熱くさせるのに十分だった。一郎の口からため息が漏れた。
宗主ルファーは笑みを浮かべると、優しく一郎に言った。
「とりあえず、ここまでにしましょうか。続きは、昼餉の後ということで」
ルファーが立ち上がろうとすると、その背後から手が現れてルファーの椅子を引いた。手に続いて神聖術士の全身が浮かび上がるように現れた。
ルファーが立ち上がったのにつられて、一郎も席を立った。
「イチ・ロー様、本を読むのにご不自由なさったことはありませんか?」
「もう大丈夫だとは思うんですが、まだ、自信はありません」
「それでは、お困りの時はここにいる誰かを呼んでくださいな。ここにある本は自由に読んで下さってかまいません」
「はあ、ありがとうございます」
一郎は立ち去るルファーに深くお辞儀をした。
一郎は正直に言って、受験問題集や参考書以外の本を開く気にはなれなかった。やや気の抜けた返事をしてしまったのは、壮大なドラマよりそちらの気持ちの方が強かったからだった。
ルファーが立ち上がろうとした瞬間、その椅子を後ろに引く手が現れた。一郎が目を見張ると、すっと浮かび上がるようにルファーの背後に神聖術士が二人現れた。
〔これが、サリッサとかいう魔法か〕
その二人を従えて、ルファーは部屋を出た。
一郎は席を立つと、ぶらぶらと広い図書室の中を見て回った。背表紙に本の題名が書かれているものは全体の半分で、しかも手書きだった。残りの本は半分が書棚から引き出しても、題名の書いていないものがあった。図書館で見かけるような分類記号の書かれたシールが貼ってあるわけではなかった。
本がどういう風に分類されているのか、一郎が聞いてみようとしたとき、一郎は他とは違う薄い本を見つけた。本自体が薄いだけでなく、紙自体も薄いようだった。
その本は他の本と比べても製本の方法も違っているようだった。なにより、赤い紙が挟まっているように見えた。
〔何だ、この本?〕
思わず手に取った一郎は、懐かしい感触に心が震えた。そして、本を見て心臓が爆発しそうになるほど驚いた。
表紙は、有名な日本人メジャーリーガーの写真で、本のタイトルは『TIME』だった。
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