2011年平成23年3月11日(金)東日本大震災
3月11日(金)14:44東日本大震災により、宮古市の田老、鍬ヶ崎、光岸地、末広町、藤原、磯鶏、赤前、金浜、津軽石、重茂音部が特にひどい被害を受けました。
うちの家族は無事です。山口、太田、長町、長根、千徳町、板屋は津波もなく、被災地の海岸線から少し離れている板屋地区では、電気が12日夜回復、水道は13日に回復しました。携帯電話は、ドコモは通じず、花原市まで行ってかけたり、消防署の衛星電話でやっと連絡がつきました。
我々がいつも釣りで、通っていた重茂が立ち直って欲しいです。宮古は観光と漁業の町です。せめて我々と関係ある重茂半島の漁業が復興することを願っています。 息子の宮古高校の同級生も音部で家を流されたようだし、我々がお世話になった幸漁丸も船を流されて大変です。妻のピアノ教室に通う千鶏の2家族とも、無事でしたが、船とワカメ、コンブ養殖が被害を受けています。震災では、うちの家族、三河さん、幸漁丸兄弟家族は無事でした。
幸漁丸は船は一艘のみ残ったそうです。!小型船4隻、弟さん2隻失ったそうです。
釜石の陸中海岸釣り日記の佐々木道典さん生きてました。3月25日声を聞きました!車もなくしたりしています。
田老に嫁に行った、いとこの義父も津波で亡くなり、やっと火葬、葬式を家族だけでしました。
震災当日は、夜9時過ぎに小山田方面は通行止めの中、宮古高校に娘を迎えに行くと、受付で名前を呼んでもらうと、まだ半分くらいの生徒が残っているようで、友達を置いて帰るのが複雑な気持ちだったそうです。実際、山田、田老、赤前、金浜、津軽石、重茂方面の生徒の家は、流された人達が多かったので、迎えに来れなかったのが現実だと思います。
震災から一週間
震災当日から一週間は、灯油、ガソリンが手に入る見込みが無いため、風呂は1週間後に入ったり、出来るだけ家族が一緒の部屋で寝たりして、なんとか灯油とガスを節約して、供給が復活するまで辛抱してました。電気が復旧するまでは、テレビもファンヒーター等もつけられなく、反射式石油ストーブを亡くなった義父の家から運び、それがたった1つの暖房となり、後、小屋のマキストーブでお湯をわかしたりしていました。風呂とかバケツに震災後、水道が止まる前に、水を溜めといた為、トイレの水は確保し、最悪の場合近くを流れる沢水からくみ上げようと決めていました。電気、水道は他の被災地域に比べ、いち早く開通したので、ほっとしましたが、灯油、ガソリンが無いため、いざという時の為、無駄な動きをしないようにして、自転車で勤務先に出勤していました。店が開いても商品はなく、空いていたコンビニはアルコール類と栄養ドリンクしか、店の棚になく、最近まで店を閉めています。
3月29日現在も、コンビニはほとんど空いてません。30日よりやっと弁当等売り始めたようです。
震災で役立つもの(自分の家族に当てはめた場合)
1.LEDの短3電池が型電灯(懐中電灯の単3型は捜索用で消費量が高く、一晩で電池がなくなる)
2.水(飲料用は1年以内に消費する用にダンボールで保管し¥するくせをつけときたい)
3.食料は、普段から、缶詰、米を備蓄を心がけて、みそ汁の具にわかめが良い。
4.電気がこない時の為の反射式ストーブ
5.自転車(車は燃費がよく、2台以上所有の場合は電気自動車1台あればいい)
6.携帯メールを相互にアドレス登録した方がいい(場所により10回に一回ぐらい受診できた。固定電話は1 5日間不通)最初の5日間は、自らの判断で情報を集め、行動しなければ進まない。
7.自衛隊はいつも最前線で、即座に生存者捜索にあたるが、それ以外の公的機関は、2日以上後からの活動で 被災地域がひろければ、救援物資は4日はかかる。
平成23年3月19日(土)磯鶏、藤原
宮古市磯鶏
宮古市磯鶏
宮古市磯鶏
宮古市藤原
宮古市崩落した閉伊川鉄橋
宮古市
平成23年3月20日(日)
3月20日(日)幸漁丸より、報告メールです。
斎藤先生、皆様が米や野菜、その他の生活物資を、わざわざオモエまで、届けて頂きました。それも弟のぶんまで、本当にありがたいです。改めて釣り船やってきて良かったと思います。ありがとうございました。本当にこの場を借りてお礼申し上げます。
私に来たありがたいメールの紹介をさせていただきたいと思います。
盛岡 斉藤さん
1「宮古にお住まいでご無事でしょうか。もしわかったら教えていただきたいのです。重茂幸漁丸兄弟の人柄に惹かれて10年以上釣りでお世話になっています。ご兄弟の安否が心配で心配でなりません。何か情報がありますでしょうか。最悪の事態を考えると今から涙がとまりません。時々小暮さんのこのページを拝見しておりましたので何かの手がかりでもと思いメールさせていただきました。」
2「ご連絡ありがとうございます。こんな時期に藁にすがる思いで小暮様にメールした次第ですが小暮様や周辺の方々もさぞ大変だった事と思います。後川兄とは直接携帯で話すことが出来ました。私も釣り船によく乗りますが、幸漁丸は格別の存在でした。人柄、誰にも公平親切で、働き者、操船技術も。まだまだ沿岸の方には厳しい日々が続くのでしょう。お身体ご自愛下さいますよう。斉籐」
盛岡 大浦氏
3「電気が通じていないなら、往復のガソリンしかないけれど、いつでも発電機を持って行って電気を起こしてあげるぞ!」男気に感動しています。
こういうメールは一生忘れないと思います。元気が出てきます。
平成23年3月26日(土)東日本大震災 釜石市陸中海岸釣り日記 佐々木道典さん情報
奥州の佐藤さんが、先週26日物資を持って釜石の佐々木さんのアパートまで行って来たそうです。佐藤さんによると、「
アパートは5階なので損壊は免れたもののライフラインの寸断を余儀なくされ、不自由な生活のようでした。当面の食料と足(車)を友人から譲り受け置いてきたとのこと。
かなり緊迫した状況から命辛々高台へ移動し難を逃れたとのこと。奥さんは5階の部屋にいましたが4階付近まで津波が押し寄せ間一髪でセーフ。
だったようです。これからのことを考えると不安でいっぱいのようでしたが仲間が沢山いるので
頑張って下さいと励ましてきました。幸い家財増具(PC含む)が無事だったため電気が復旧すればHPも更新できるとのことでした。5階からの写真は佐々木さんのアパートから写したものだそうです。
2011年3月20日釜石市浜町付近
2011年3月20日釜石市浜町付近
平成23年3月26日(土)東日本大震災 私の周辺の人達とソフトバレー
ソフトバレーでは、磯鶏マリーンの1名がなくなりました。うちは海岸から少し離れているので、家も大丈夫で、電気水道も3日で開通しました。
田老に嫁いだいとこのおやじさんが亡くなり、私の磯釣り仲間の遠野市鱒沢小学校校長の田中英夫が津軽石法の脇で行く不明になり、車が発見されましたが、長靴とスコップで探しましたが、遺体は見つかりませんでした。
現在、東京の長井さんから問い合わせの、わが町の橋本さんは無事です。喜びも悲しみもの灯台守の娘さんのライトハウスの田中春代さんの消息はわかりません。
金浜もひどく、千年に一度の東北大震災です。ひどいところは、泥とがれきの山です。宮古高校陸上部1年の娘の周りも、山田の男の子は、お姉さん、母をなくしお父さんが怪我をして宮古病院に入院していたり、田老の陸上部の男の子と女の子の家は流されて、宮古高校陸上部のウィンドウブレーカーを着たまま歩いていました。着替えもないままだと思います。周辺でもそうな感じです。娘は生協のドラでボランティアをして、朝8時から夜7時まで出かけています。スーパーの職員も出勤できない人が多いため、しっかり役立っているようで安心しています。
支援は、我々がいつも釣りで通っていた重茂の重茂漁協にしてあげて下さい。宮古は観光と漁業の町です。せめて我々と関係ある重茂半島の漁業が復興することを願っています。息子の宮古高校の同級生も音部で家を流されたようだし、我々がお世話になった幸漁丸も船を流されて大変そうです。千鶏の妻のピアノ教室に通う2家族とも漁業で生計を立てています。私と三河さん家族、幸漁丸兄弟家族無事でした。釜石の陸中海岸釣り日記の道典さんは、車もなくしたりしています。田老に嫁に行ったいとこの義父も津波で亡くなり、やっと火葬、葬式を家族だけでしました。
盛岡の釣り仲間で、実家が陸前高田市の秀彦さんは、父を亡くし、(なんとか遺体は見つかりました)
母と祖母はいまだ行方不明だそうです。盛岡で仕事を片づけて、終わり次第、また高田で探すそうです。
3月27日(日)重茂幸漁丸より、報告メールです
今日もお客さんが、家に野菜持って来てくれました。ありがたいですね。わざわざ盛岡から。別のお客さんは、何が必要だ?火曜日宮古に行くからと。こんなに皆さまからの、気持ちありがたいです。震災後皆さまの気持ちに、毎晩涙してます。 ありがたいの気持ちでいっぱいです。本当に幸漁丸は皆さまに、支えられてます。
3月28日(月)長井那智子様よりの食品の贈り物
今帰ってきて、東京のエッセイストの長井那智子様から送られた食品のダンボール箱を開けてました。こちらでは、これらの商品は品切れて、入荷してもお一人様一個しか買えないものまで入っていました。娘はボランティアで、出勤出来ない生協の職員のかわりに、「1人1個でお願いします。」と言う役割をしたりしているそうです。家族で、お菓子を食べながら、自分達は、避難所暮らしの人達に比べて、とても恵まれているの実感し、申し訳ない気分ですです。
本当にありがとうございました。あと1・2週間一週間もすれば、少しは商品も並ぶかと思いますが、まだまだ時間がかかると思います。宮古地区だけが、沿岸で宅急便が届く所なので恵まれています。ありがとうございました。
3月29日(火)千葉と東京の親戚からの電話
固定電話が先週の金曜日からつながり、今度は遠くの親戚から電話がたてつづけに来るようになりました。一応、無事は連絡してましたが、また後でかけるからと一週間そのままでいたら、どうしてその後連絡をくれないと1時間以上も話し続けます。私が大学の時、食事の心配をしてたため、大食い私がちゃんと食べてれるかと心配するしまつ、おふくろの姉と妹には、一番かわいがられた為か、今でもこの歳の私に小遣いをくれる人達のなのでありがたい。日曜からガソリンも入るようになり、徒歩で歩く人も急激に少なくなりました。それでも、歩いたり、自転車はやはり普段より多い。
2011年4月1日(金)
4月になったらいろんなとこでお店が開き始め、ガソリンも食料も出回り、やっと一息つく感じです。
重茂の幸漁丸にお見舞いを持って行こうかとメールしたら、後川さんの100才のおばあさんが今朝亡くなったそうです。そして、三河さんちの100才のおばあさんが危篤だそうです。震災の影響で体調崩しているのかもしれません。妻の父の一周忌も中止になり、とにかく、死亡が多いので、今家族だけでひっそり火葬等すましています。
4月2日(土)午前被災後の田老に叔母を連れて、午後赤前、津軽石、鍬ヶ崎
いとこの嫁ぎ先の義父が古い家の方に居て津波にのまれ死亡後、安全は確認していたので、家族のみで火葬住ましていたので、ガソリンも満点に入れれるようになり、叔母が娘に会いに行きたいというので、一緒に行く。田老では買い物さえままならないので、食料品を積んで行ってきました。入るなり、自衛隊が砂埃の中で交通整理、遺体捜索等をやっている。被害がひどい最前線ほど、自衛隊のもくもくと仕事をこなしている姿をみる。
グリーンピア田老に700人避難しているとのこと。いとこは最近、道の駅やませの丘近くに家を建てていたので被害を免れたが、やはり古い家で、義父が亡くなってしまいました。
午後は、自衛隊が海も探しているというので、白浜まで足を伸ばしたら、昨日から、低空で丹念に海を調べてるヘリコプターに出会う。なんとか田中英夫氏が見つからないかと願う。その後、赤前、鍬ヶ崎を見て回る。相変わらず、どぶ臭い町になってしまいました。家の娘もボランティアでがれきの中で仕事をしているせいか。どぶ臭くなって帰ってくるのである。
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市田老
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市田老観光ホテル付近
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市田老漁港方面
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市田老一中前
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市田老の国道45号
東北太平洋沖震災で津波にのまれ、跡形もない家 宮古市田老
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市金浜
東北太平洋沖震災で大被害を受けた宮古市鍬ヶ崎 ひっくり返っている船
2011年4月3日(日)
午前中、山田町に行ってきました。大沢から浜川目へは車を止めて行かなければならないのと、今盛んに作業中とのことで諦めました。盛下さんからあかつき丸はまだ見つからず、船を見てくれるように頼んでいた人も、津波で流されたとのこと。それにしても田老と同じひどい状態でした。
今日は、宮古市西町の生協に行って来たら、あっという間に陳列の棚にものが載っていて、客もまばらになっていました。皆さん食料を溜め込んで、一段落したのと、物の供給が宮古市内は充足し始めた感がありますが、山田町と田老等は、お店が被災して買い物も宮古まで来なければ買えない現実があり、大変です。我が家は、東京と栃木の2カ所から食料が送られてきて、やっと食卓が普段通りになり始めてきました。避難所ぐらしの人に悪い気がします。弟の奥さん老夫婦宅に分けたりして、みんなで助け合っています。家の近くではアパート探しが続き、我が家が大家でないかとの問い合わせが来て、対応に苦慮しています。
ソフトバレーの大船渡に転勤した及川君の無事も確認したり、仙台の八巻さんと直接電話で話したりして安心しました。
山田町大沢
2011年4月3日 大津波震災後の山田町織笠
2011年4月7日(木)23:35宮城県沖地震により停電、8日(金)13時頃復旧
余震としては、最大のもので、またも家族で同じ部屋で寝ました。一生懸命、水道が出ているうちに水をためて備えましたが、水道は出ていたのと1時間半後に津波注意報は解除されました。11日は大津波警報でしたので落ち着きがありました。しかし、風が強く、震災後の泥が舞って大変です。後は福島原発が落ち着けばいいのですが・・・
平成23年4月10日(日)東日本大震災 陸中海岸釣り日記佐々木道典さん電気来てないそうです!
陸中海岸釣り日記 佐々木道典さん は、今日も釜石で片付けです。電気も固定電話も通じず、疲れ切っていました。したがって陸中海岸釣り日記のホームページは更新出来ませんのでよろしくお願いします。幸漁丸が聞いてきた、三陸赤兵衛の良一さんは避難所暮らしだそうです。
我が家が産み方5km離れていますが、閉伊川の近くなので、もし満潮で雨が多い時期なら、被害を受けたかもしれません。でも、7日(木)の余震で8日(金)まで電気が切れましたが、13時に復旧しました。水道はでていました。しかし、8日(金)はまたもガソリンスタンドに行列、スーパーからは品切れが発生しました。すぐ、買いだめに走ったようです。田老、山田のように店がことごとく被災した地域でありませんが、鍬ヶ崎、高浜、金浜、赤前、重茂のように悲惨な地域もあり大変です。西が丘、板屋地区では、夜になると親戚の家に避難してきた車が泊まっています。以前より少なくなってきていますが、未だに多いです。アパート、家は空いていないかとよく聞かれます。親戚からも問い合わせがありますが、初期の段階で空いていないのです。はやく復興して行かないと地域が成り立たなくなります。
平成23年4月15日(金)東日本大震災 宮古市の復興願ってます
青森のアスパム合衆国さんに画像送りましたら、さすが、マスコミの人です。見事とな加工術で綺麗にホームページ飾ってもらいました。ありがとうございます。今回の震災は、身近でも被災した人があまりに多く、個人ででわずかに出来る範囲の協力しか出来ません。
平成23年4月26日(火)東日本大震災 周辺と同級生達の安否と復興への道
田老の親戚でも3月11日に亡くなってから、やっと5月1日の葬式をすることになりました。今回の震災の影響で4月1日に幸漁丸後川さんの100歳のおばあさん、4月3日三河さんの99歳のおばあさんがなくなり、4月21日葬式をしたそうです。今亡くなった人が多く、火葬を家族だけでし、葬式は落ち着いてからします。避難所から行かなければならなかったり、あまり集まれる環境になく、悲しいばかりです。親父も、1ヶ月に1回医大で点滴をしていますが、今度の震災で体調を崩さずきたのが救いです。
宮高26回生の同窓生でも、被災した釜石の鵜住居小学校の校長も、宮古の鍬ヶ崎小学校の卒業式でも涙を拭いている同級生が映像に映っていました。同級生での死亡はありませんでしたが、田老、鍬ヶ崎、津軽石、赤前、山田町の同級生の家は流され、家族が亡くなっているようです。宮高の同級会を開催した田老の田老観光ホテルの松本君は一人ホテルに残り、津波を見てたそうです。あの怖い波をどんな気持ちで見ていたのか思うと悲しくなります。鵜住居の親戚も家が流され、今度市営住宅があたりそこに落ち着くことになりました。
釜石の陸中海岸釣り日記の道典さんは、来るべき釜石での再開に備えて、今遠野市で勤務しています。5月に真鯛釣りに行かないかとお誘いしましたが、まだ、無理なようです、あの釣り好きの道典さんも4月開設予定の調剤薬局が被災し、釣りにも行けない状況になっています。三河さんも消防団で、がれきの下で遺体を発見していたり、悪い微生物のほこりを吸い込んで体調が思わしくないようです。
平成23年4月29日(金)東日本大震災 周辺の情報と復興への道
妻の叔母は、生まれ育ち、昔実家のあった宮古市鍬ヶ崎の被災状況を見たいと言っています。測候所近くの実家は既に昔に引っ越ししていますが、子供の頃の思い出の鍬ヶ崎小学校前の無惨な景色を見ると、体調を崩してしまうのかもしれないと周りの心配で鍬ヶ崎に行くのを押しとどめています。以前亡くなった旦那の実家の山田町からの来訪者からの話で、山田の大沢と長崎の悲惨な様子、目の前で位牌が流されて行くのを悔しい思いで見ていたこと等を聞いて、生まれた鍬ヶ崎に行きたいと言っているのだと思います。
平成23年4月30日(土)東日本大震災 釜石の陸中海岸釣り日記さんお見舞い
陸中海岸釣り日記釣り日記の佐々木道典さんを訪ねてきました。途中、大槌町、釜石市鵜住居、両石の悲惨な津波の痕を見ながら行ってきました。道典さん夫妻の顔を見て少しほっとしました。3月11日の津波で、奥さんはビリに取り残され、翌日の昼まで道典さんと連絡も取れなかったそうです。それで、後から、道典さんの無事だけが確認出来て、奥さんの消息がわからなかったようです。つくし薬局の水留さんの奥さんと娘さんが亡くなったそうです。最初の一週間は、釜石と宮古はすっかり寸断されていましたので、盛岡や水沢経由での情報しか入ってきませんでした。つくづく大変だったと感じるのみです。
被災した時は、結局、自衛隊がいち早く駆けつけてくれ、自衛隊の人達の接し方がよかったとの話を聞きます。私もそう思います。被災後の三日間は、自衛隊と、避難所の学校しか頼りにならないから、後は、自分達で、情報を仕入れて行動しなければならないとつくづく互いに思いました。
平成23年5月1日(日)東日本大震災 田老の葬儀、廃墟の鍬ヶ崎
震災後、田老の親戚でも3月11日に亡くなってから、やっと5月1日の葬式をすることになりました。火葬だけは家族で済ましていたのですが、やっと葬式ができるようになりました。今回は私の家の近くの長根の長根寺でした。叔母とついて行き参列しました。家族と近親者のみでしたが、家が流されていいるのに、皆さん喪服に着替えてきました。今まで、葬式にも人が集まれなくて、ひっそりとした葬式ばかりです。あまりに死んだ人が多過ぎるのです。
横浜から帰省中の妻の弟夫妻が、生まれ育った鍬ヶ崎小学校周辺を見に行って、ショックだとの電話がきて、しっかりがれきの中の鍬ヶ崎を見といた方がいいというので、妻を連れて鍬ヶ崎、藤原、磯鶏、金浜、赤前、津軽石を見せに行ってきました。映像では見ていたが、鍬ヶ崎小学校から海が見えるほど、家がなくなっているのに、がっくりしてました。私は何度か見ていますが、がれきとかした故郷に言葉も出なかったようです。この後は、何故か、震災後再開した近くの回転寿司に行きました。寿司に飢えていて、盛岡に行っても寿司が食べに行ってました。鍬ヶ崎の寿司店の「魚正」がに行ったのが昨日のことのようです。再開してくれればいいのですが・・、
震災後いまだにがれきの山の宮古市鍬ヶ崎小学校前
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