人が育つのを見ることは、植物が育つのを見るのと同じように、楽しいものです。
植物、農作物は、毎日見ていないといけません。風で倒れていないか、虫が付いていないか、雪で倒れていないか、何事がなくても、毎日見守って愛情を注がないといけません。子どもの場合も同じことです。
谷昌恒先生は、「私たちの仕事の眼目は、物を与えるに先んじて心を与えることです。物を与えるだけではどうしても満たされないとすれば、私たちの心を子どもたちに与える、心をしっかりむすびつけることによって、初めて子どもたちを幸せ感あるいは満足感が得られるんじゃないでしょうか。」と言っていました。
飼い犬が人を咬むことがあります。犬は餌をくれる人が飼い主とは思っていません。遊んでくれる人、散歩をしてくれる人、叱ってくれる人を飼い主だと思っています。そうしなければ犬は絶対に言うことをききません。人間も躾られて初めて人間になる。ただご飯を与え、こづかいを与えるだけでは決して親にはなれない。
よく私は見学者に「怖くないですか。」と聞かれ、「非行少年は犬と同じです」と言って、人間を犬扱いしていると怒られることがありました。しかし、非行少年も愛情をもって接していれば、咬みつかれることはないのです。
教護院では退院生がよく遊びに来たり、よく電話がかかってきます。正月に行き場所がないからと遊びにくる子もいます。
予後の悪い子からも連絡があります。少年院に面会に来て下さい、裁判があるので傍聴に来て下さいとか。
退院後も精神的よりどころとなっている場合も多いのです。
仕事は仕事、個人の生活は個人の生活というのが、現代の新しい生活様式となりつつあると思われます。でも、個人の生活、プライバシーを生徒に見せるのが教護院の仕事です。
はた目にはきつくて、つらそうに見えるかもしれない。しかし、そのことと、それをやっている本人が「楽しく」やっているかどうかは別問題です。
糸賀一雄先生が「福祉の思想」で、知的障害児のことについて「彼らについて何を知っているか、彼らに対して、また彼らのために何をしてやったかということが問われるのでなく、彼らとともにどういう生きかたをしたかが問われてくるような世界である。」とおっしゃっておられます。教護児も同じことなのです。石原登先生がWITHの精神を強調したのも物の道理なのです。
教護院には「足の裏の哲学」という考え方があります。
山内豊徳氏が「明日の社会福祉施設を考えるための20章」において、開かれた社会福祉施設の重要性を述べる一方、「長い歴史を通じて、ひたすら入所者の処遇に徹することによって、その人たちの健康な生活の姿を住民に知ってもらい、ただそのことによってのみ、他に追随を許さない社会性を発揮してきている施設がある。」と言及しています。これこそ足の裏の哲学をうまく表現しています。