●練習●

 時事通信の厚生福祉第3821号(平成元年11月1日)に谷昌恒北海道家庭学校長が、『練習』という題で一面を飾られていました。もう10数年経つのに、今読み返しても、琴線に響くものがあります。

 「何事も練習だ。人と人との触れ合いも練習だ。世の中便利になって、人と人との触れ
合う練習量が不足している。ろくろく練習もしないで、うまくやれる道理はない。便利な世の中になって子どもの異常さが目立ちはじめてきている。」乱暴に文を縮めると、こうなります。

 世の中、本当に便利になりました。人と人との触れ合いをなくしながら。電車の切符を
買うときは自動券売機、改札を通るときも自動改札機。色々な物が自動販売機に詰め込まれ、いつどもほとんどどこでも、一言も言葉を発せず(機械が言葉を発する場合もありますが)、人を媒介としないで物を買えます。みんなで一緒になって遊ばなくても、プレステやスーファミ相手に遊べます(おとなも大勢やっています)。電話で「ピッポッパ」でインターネットに接続して用事を済ませられる時代です。

 ところで、「〜ちゃん、遊びましょ。」の子どもの大きな呼び声を、私は最近耳にしていません(私がおとなになったから気づかないのかな)。塾に行って不在の場合もあろうから、電話でいるかいないか確認して、「遊びましょ」と誘っているのかもしれません。児童館に携帯電話持参(親から塾の時間ですよ、と連絡が入る)で遊びに来る小学生もいます。人と人との触れ合いを通しての情報量が減ってきているような気がします。

 また、冷暖房完備、冷凍、温室栽培(野菜、果物は、スーパーにいつも並んでいて、いつが旬か私もわからない)などで、季節感をとらえるものがあいまいになって、子どもが感性を磨く機会が少なくなっている気がします。

 そして、直接的な自然との触れ合いも特に都会では少なくなってきているようです。子どもはカブトムシが好きです。実はクワガタのほうがもっと好きです。私も、教護院で、生徒と一緒に木をけとばしたり、木の幹の穴に棒を突っ込んでクワガタを捕まえました。でも、都会の子は、デパート、縁日で商品として購入します(運がよければ、田舎がある家の子、別荘を持っている家の子は捕まえられますが)。私は最近、網を持ってかけまわる子どもの姿を見ていません。

 でも、これは一面的な見方です。都会の中でも、子どもは自然に心を動かしています。自然はなくなることはありません。太陽は昇り、日が沈むと星が見え、雨も降ります。夏は暑い。冬は寒い。環境調べという理由をつけて区役所から許可をもらって神田川で遊ぶ子どももいます。
 私たちの生活は、直接自然と関わりあっています。関わりあっているからこそ、地球の温暖化やオゾンホールなどが問題となってくるのです。「昔は自然の中で遊んだ」と嘆くおとなが、このような状況をつくってしまったのです。

 ところで、平成2年6月2日の厚生福祉に「現場人の視座」と題して、谷昌恒校長は次のようにも言っています。
 「人々に幸せをもたらすという意味で、文化はプラスの概念です。私たちは現代の文化
を非行文化と呼んでいます。マイナスの概念である非行という言葉を、文化に冠するのですから、矛盾した造語かもしれませんが、自分中心すぎること、将来への配慮を全く欠いていること、現代の文化は非行としか言いようがないのです。勝手がすぎますよ、そんなことで将来はどうするつもりと、非行少年をしかる言葉を、そのまま、現代の社会に投げつけたい思いにかられます。」

 昭和33年の母子寮運営要領に、いわゆる施設病の影響として、@物を大切にしない、A進取の気象に乏しい、B感謝の念が薄い、C注意散漫で苦労の多いことを回避する傾向にある、として戒めていますが、今は社会そのものが施設病にかかってはいやしないだろうかとさえ思えてきます。

 ところで、人と人との接触が、極めてわずかな状況で育ったとすれば、人間は人間性(社会性とも言えます)を獲得できません。言葉を変えれば、人間としては全く未分化の状態にとどまります。人間は社会的動物といわれるように、社会から離れては存在しえません。仙人も道を極める以前は、社会に育てられているはずです。これは「アヴェロンの野生児」「狼に育てられた子」からも推測されます。

 人間として、人との接触は、生れてから、模倣学習から始まることを考えても、大事なことです。新生児は泣くこと以外にコミュニケーションの手段はないと思われていましたが、実は母親や養育者の語りかけに、手の動きを同調させるといいます(entrainment)。しかも新生児は人の声の音域に最も反応し、中でも女性の声によく反応するとのことです。

  私は、福祉という言葉は好きではありません。「福祉とは・・・」と語る人でどれだけの人が、非行(教護)も含めて本当に福祉の全体像を念頭においてこの用語を使っているのか疑問に思うことがあるからです。また、福祉という言葉が網羅している範囲が私にはよくわかりません。

 しかしながら、福祉という言葉を使わせていただくなら、親、学校の先生、友だち、近所の人、他人・・・、人との接触が円滑にいくように調整することが、福祉の思想で大事なことだと思うのです。
 「あいつとは遊ぶな」とか「あいつはシカトしろ」(表現が乱暴でごめんなさい。)など、人との接触を断たれるのはつらいことです。江戸時代には、村八分という刑罰にさえなっていたのですから。

 さて、もう1点、、世の中本当に便利になったのでしょうか。大多数の人々にとっては便利になったかもしれません。しかし、障害者にとって、便利になっているのでしょうか。 社会の正しい理解と認識不足、関心の低さ。これが国際障害者年で唱えられた「完全参加と平等」を阻む大きな壁のうちのひとつです。世の中便利になったというとき、障害のある人を視野(考え)に入れていないのではないかと思える場合が多々あります。障害者が視野に入っていない社会を何となく「あたりまえ」と思い込んでしまっていないでしょうか、「あたりまえ」のはきちがえがないでしょうか。

 国連が採択した『国際障害者年行動計画』に、以下の文があります。『ある社会がその構成員のいくらかの人々を締め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。』  また、国連が採択した、『障害者に関する世界行動計画』には、『障害者のイメージは、種々の要素に基づいた社会の態度ーーそれが恐らく参加と平等を阻む最も大きな障害であるかもしれないがーーによって決まる。我々はえてして障害にばかり目を向け人間を見ようとしない』との言葉があります。
 障害のある人が、世の中便利になったといえるときが、本当にだれにとっても世の中便利になったという状態です。ノーマライゼーションの理念が、あまねく社会にゆきわたってほしいものです。

 谷昌恒先生の文章に対する感想文のつもりが、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけたので、脈絡のない文章になってしまいました。


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