英語の授業で、「アメリカのにわとりは『クッカドゥードゥルドゥー』と鳴くんだよ。」と言った。
すると2寮のI君が、「先生、やべーよ。もし、アメリカのにわとりが日本に来たら、話が通じなくて、しかとされるじゃん」。
私「お、いいことに気が付いたな。そうだよなー。日本のにわとりとアメリカのにわとりじゃ鳴きかたが違うから、話が通じなくていじめられちゃうかもしれないな」。
生徒全員一瞬「なるほど」という顔。
すかさず、5寮のA君「そんなわけないじゃん」。
私「しまった。わかってしまったか」。
A君「本当に困るよ。先生は。マジな顔して、でたらめ教えるから」。
当のI君「なにー、またでたらめかー」。
私、内心で、「I君、本当に分かったのかな」。
授業が終って教務室にもどり、この話を他の教官にすると、爆笑あり、あいつなら言いかねないと、納得するものあり、私は思わず思い出し笑いをするのであった。
ある話をすると意外な展開となることがある。私はなかなか本当のことを教えず、でたらめな説明をもっともらしく、しかし、生徒が気がつくようにする。会話がはずむ。
生徒が私のでたらめの説明に納得してそのまま授業が終ってしまうことも多い。しかし、自分からはなかなか訂正しない。
生徒は、他の教官に聞いたり(中にはとぼけて本当だよ、と言う人も多い)、自分で気がついて後の授業で聞いてくる。そのときは最初は「そんなこと言ったっけ」ととぼけてみせる。
とにかく、生徒の質問には必ず答える。その中で生徒とのやりとりの中で、このようなにわとりの話のように予期せぬおもしろい発想がでてくる。これがまた、私には楽しいのである。自分でイニシアチブをとらずに、生徒にイニシアチブをとらせるとおもしろいことがおこるのだ。教護院での授業の醍醐味のひとこまである。
だから教護院の生徒の学力が上がらないんだといわれるかたも多いかな。
中学校の英語の授業では、大体大文字から勉強する。
教護院に来ている子は、最初につまづいている子が多い。つまり、大文字は知っているが、小文字はよく知らない。
そういえば、暴走族のスプレーの落書きは、大文字ばかり。しかし、実際の英語では、大文字よりも小文字のほうがよく使われる。そこで、私は小文字から教える。
教育委員会主催の中学校の研究授業で、中学校の先生方に、こんなたわいもない話をすると、妙に感心されてしまう。
「退院」と「中学校に帰る」、この二つを天秤にかけて、ほとんどの子は早く退院したいと言う。しかし、退院間近の子になると、心が揺れ動くことが多い。
「中学校に帰っても、勉強がついていけないから」「勉強がわからないと、学校がおもしろくなくて、学校へ行かないで悪いことばかりして年少(生徒は少年院のことを年少という)へ行くの嫌だから退院したくない」という子も多い。
ここでは、教師の授業に生徒がついていくのではなく、反対に生徒の勉強の進み具合に教師がついていく。あまり多くを教えない。だからここでは生徒が勉強についていくという言葉を聞いたことがない。ここの生徒は皆、学校の授業で、消化不良をおこしている。「学習は苦痛なり」という固定観念を持っている。
「中学校に帰って、授業についていけるか、だいじょうぶか」と聞くと、たいていの生徒は「何言ってるの、ついていけるわけないじゃん。でもだいじょうぶだよ。卒業するまで、授業にちゃんと出て、教科書ひろげておとなしくしているから。」こういうようなことを言う。
でも、自分にとってわけの分からないことを一日中聞いて座っているのは苦痛だろうな。でも、実際は生徒を暖たく迎えてくれる中学校がほとんどで、中学校恐怖症の子どもも意外とすんなり適応するケースが多いことには安心する。
登校があれば、下校がある。近年、登校拒否についてにぎやかになってきた。しかし、下校拒否について書かれたものがあるだろうか(ないでしょうね)。私はここに初めて下校拒否(不下校)の問題を論じる(おおげさな!)。
O君という生徒がいた。この子は典型的な下校拒否の子であった。
登校拒否は学校がつまらなくしなければ登校するのである(私はそう思っている)。このケースは、家庭がおもしろくないから下校拒否を起こした。
家に帰っても、親は本人に食事を与えない。親は自分の子なのに、「猫にやるえさはあっても、おまえにやるめしはない」という。親に殴られ続けて、この子の頭は、ハゲだらけ。
親が子を嫌って、子も親を嫌っている。下校の時間が過ぎても学校に居残る。先生に追い回され、学校の中を逃げ回って何とか家に帰るまいとする。この子の学校での楽しみは、給食であった。
親は本人が施設に入ると、「もう帰ってくるな」という。こういう悲惨な関係は、どうやらこの子が小さい時、妹をけがさせたことに端を発し、この子を親が恨むことになったようだ。どちらも自分の子であるのに。
この子は退院して、住み込み就職した。
田んぼのひえ取りをしている時である。1寮のO君がひえを抜いて、根を私に見せて、 「先生、これが毛根でしょ」。
私「おお、そうだ。よく覚えているな。」。
2寮のM君はカラスウリをとってきて、「これ何?」。5寮長「カラスウリだ」。1寮のO君「おまえ、カラスウリも知らないのか」。生活場面すべてが学習の要素に満ちている。
英語に関しては、私の着ているTシャツの英語の文字をアルファベット読みをして意味を聞いてくる。テレビのリモコンスイッチの意味を聞いてきたり。
それなら、ということで、英語の授業で、生徒全員のカンペン(筆箱)に書かれている英語を、そして、ものさしに書かれている英語を、Tシャツに書かれている英語、消しゴムに書かれている英語、鉛筆、シャーペンに書かれている英語を読んで意味を言う。
生徒は、色々なものを出して、「じゃあ、これは」「これは」と聞いてくる。「へー。こういうことが書いてあったのか」。
教師は生徒がどんな小さなことにつまづいてわからなくなっているかということを忘れてしまう。
教師も自分が中学生だった頃を思い出すのが肝要。今は教師でも、中学生当時、試験で常に満点を取り、すべてわかったという人はおられますか。こんな問題も出来ないのかと、怒っては絶対いけない。
生徒は15人でスタートする。生徒に今学期は何をやりたいかと聞くが、ブラジル語とか、フランス語とか答える。
英語というより、外国語は選択教科なのだから勉強しなくとも良いわけだが、「俺がやりたいようにやる」というと、5寮のT君が、「またはじまった、先生の英語の授業は、英語をやらないで中国語をやったり、わけのわからないことをする」という。
教護院運営要領技術編に「意表法」というのがある。これは授業にも当てはめることができる。生徒の意表をつくことで「何だろうな」と生徒は身構えて興味を持つ。
さて、「自分がやりたいように勝手にやる」といって、いきなり黒板に字を書き出す。『外国へどうやっていくか』またもや生徒は、英語の授業なのに、またわけわからんことを始めたという声。
私「ところで、こないだ香港に行ってきた。今香港はいくらで行けるか知ってるか。当ててごらん。生徒は、やれ10万だ、15万だ、先生は給料安いから15万も出して出かけるわけがないとか、わいわいがやがややっている。
黒板におもむろに7万5千円と書く。生徒「えー」という声と、「先生が行くんだから、それぐらいか」という声。夏だからこれでも高い、季節はずれだと5万円で行ける。沖縄に行くといくらかと聞いて、何でこれだけ安いかと円高の話をしだす。今日は『1ドル1〜』と書いたところで、6寮のS君が、「142円だろ」という。当方びっくり。「何でこんなことを知っているんだ」。S君「常識」とのたまう。
そういえば、以前に講堂集会で円高の話をしたことがある。それで興味を持っているのかとあらためて認識。とにかく黒板に『1ドル142円』とかく。「ずっと前に1ドル360円の時があったが、その時に比べたら半分以下の費用で行けるんだと言うと、意外や生徒「へー」とやたら驚く。生徒の驚きように、こちらも驚く。
そして、香港の物価の話し。香港のジュースが50円で、水が60円、ビールが何と50円。フェリーの一等席14円、2等席が10円。タクシーの初乗り運賃が 100円、地下鉄が〜円、バスが〜円と続けているところで、5寮のK君が、「じゃあ、外国の人が日本に来たら円高でお金がかかってしょうがないんだ」と言う。そこのところまで考える生徒がいて、当方感心するばかり。本当にこの子らは、中学でオール1ばかりだった子か。オール5をとるのは難しいが、オール1も同じく難しい。本当にこのこらは中学でオール1の生徒か。
黒板に『パスポートのとりかた』と書く。
「外国に行くにはパスポートがいるんだよね」と言う生徒の声。「そうだよ」と私が言うと、「じゃあ、先生もパスポートを持っているんだ」「そうだ」「じゃあ見せて」「それじゃあ、今度の授業の時に持ってきて見せてあげる」と言うものの「今見せてくれないとやだ」。「官舎に置いてあるから今度」と言うと、「じゃあ、今とってきて」「ダメダメ」。
すると1寮のY君、「パスポートって赤いやつと緑色のがあるんでしょ」。私、驚いて「何でそんなこと知っているんだ。」「寮長先生が前、緑色のパスポートを見せてくれたもん、先生は偉くないから赤いやつでしょ」「そうだよ」。そして、思ってもみなかった公用旅券と一般旅券の話を始めることとなった。
次に、黒板に、『一次旅券ー一回の渡航だけ、数次旅券ー5年間何回でも』と書く。「だったら数次の方がいいにきまっている」と生徒。ここで1寮のI君、話題を変えようと「どこに行ってパスポートもらうの」「おお、そうだ」と『各都道府県庁の旅券課で申請』と板書。すかさず、「いくらかかるの」「ちょっと待て、そのうち書くから」と話をそらして、一次旅券と数次旅券の話。
「まあみんなは外国へ行くことはまずないと思うけど(中学校の英語教師だったら、英語を勉強すると海外へ行くのに役に立つ、英語を勉強せいと言うだろうな)、それに新婚旅行は、奈良、京都ですまして、外国に行かないし、どうせ役にたたないだろうがとか、英語ができなくても、日本語ができればいい所も多いとか、こんな話が続く。
いきなり、数字を書きだす。『 4,000円』。どこからともなく「じゃあ、次は1万円」という声。無視して『 8,000円』と書く。「何だ、安い」という声。5寮のK君が、「先生は 8,000円のほうでしょ」「そうだよ」「いつとったの」「去年」「じゃあ外国に二回行ってるから後3年の間にもう1回いったら得するわけだ」「そうだよ」「来年も行くの」「金が続かない」「そりゃそうだ」。この言葉に一同納得してしまった。あー情けない。
次に必要な書類を書きはじめる。
『@一般旅券発給申請書(2通)』
1寮のI君「この書類はどこにあるの」「ここに書いてある旅券課に置いてある」「ふーん」。さて、くどくどと申請書の説明。
『A戸籍抄本(1通)』
と書いた所で、2寮のS君「この字なんて読むの」「コセキショウホン」「あれ、コセキトウホンじゃないの」。説明するが面倒なので「同じようなもんだ」と答えたものの、けげんな顔をしているので、抄の下に謄の字を書き加える。「先生、またー。こみいっている字だからって、書くのめんどうくさがってちゃダメだよ」「「う、鋭いな、バレたか」。そして、戸籍抄本やら、本籍のことを説明。
『B住民票(1通)』
「これ、どこでもらうの」「自分の住んでいる所の役所でもらう」と説明。すると「先生、役所じゃないよ、Y君の所は。山形の山奥だから、役場って言ってあげないとわからないよ」「おお、そうか」。Y君「役場じゃないもん、僕の所も役所だよ」。さて、住民票とは何なのか、生徒一様にワカラナイを連発。説明して納得させるのに、5分もかかった。
『C写真(2枚)』
5cm×5cmと書いた所で、「えっ。大きさが決まってるの」とすっきょんとうな声。写真というとアルバムに貼るような写真しか頭に浮かばないらしい。そこでちゃんと説明して、最後に「犬や猫と一緒に写っている写真じゃダメだから」と申しおく。
すると4寮のT君「そんなの無理だ。うしろに何もない写真なんてとれない」「写真屋でパスポート用の写真を撮ってくれと言うと、ちゃんと撮ってくれるから」と言うと、T君「へー。写真屋で写真を撮ってくれるんだ」、私、思わずあんぐり。
『D印鑑』
どんなはんこでもいいというと、4寮のO君「実印でもいいんでしょ」「いいよ」。5寮K君「シャチハタネームは」「ダメ」。6寮のT君「自分で消しゴムにほったはんこは?」「ダーメ」。またまた4寮のT君「ダイコンのはんこは」「ダメダメ」。
『E官製はがき』
『表に名前と住所を書く』、と板書。
『F身分証明書』
自分を証明するものを持っていくと言うと、5寮のK君「免許証でいいの」「ああ、それが一番いい。ここを退院して働いたら保健証くれるから、それでもいいよ」5寮のK君「生徒手帳でもいいの?」。思わず私は笑っていた、よく思いつくもんだ。「だーめ」
『G預金残高証明書』
ここでベートーベンの第9のチャイムが鳴る。「パスポートを取るには、こうやってやるんだよ」と言いながら黒板を消しだすと、4寮のT君「おれ、手続きがめんどくさいから外国へ行くのはやめておこう」と言う。彼は、親がおかしいから施設にいれてくれと自分で児童相談所に相談に出かけた子どもある。
これが、ある一日の英語の授業である。とんでもない授業とお叱りを受けるか。
後日、退院生が遊びに来て、「先生のおかげで俺、鼻高々だったよ」という。何でも社員旅行でグアムに行って、みんな入国管理で手間取っていたらしいが、この子は私が教えたとおりに開口一番「サイスィーン」と言って、いちはやく入管を通り抜けて、みんなから感心されたそうな。
教護院での授業その8 壁
普通は、わからなくて意欲のない子をどうするか、方策をめぐらすが、私は「わかりすぎて」意欲のない子をどうするか、この壁にぶちあたることがある。
わざとらしく考えさせる、発見させるのは、軽く考えると、一部の生徒だけ考えて、答えを出したり、発見できない子だってでてくる。
「考えたって、どうせわからない」「俺はばかだから自分で見つけられない」と、中学で味わった失敗感を呼び起こさせてしまう。
わざとらしくやってはダメだ。そら、考えてみろ、とか、見つけてみろとかはだめだ。それとなくやらねば。私が考えさせよう、発見させようとしていることに気がつかない生徒は、それでいい。これまた、いいかげんかな。
本当にやるなら、全員が見つけられるまで待たないといけない。つまり、早くわかった子が、「何だ、お前、まだわかんないのかよ。じれったいな」と他の生徒をばかにする生徒が出てくる。
教護院に来てまで、ばかにされたんじゃ、生徒もかなわないだろう。
生徒にとって、楽しい、おもしろい授業とはどういう授業であろうか。多くの書物が、楽しい授業について書いている。
書かれてあるとおりに実践すれば楽しい授業になるんだろうか。さまざまな方法論があるが、私は、「教師も生徒も楽しむ授業が、楽しい授業である」と思う。
卓球を例にとると、卓球はおもしろいぞと、くどくど説明するより、卓球を楽しむ教師と実際に体を動かして球を打ち合えば、楽しみが湧いてくる。
釣りの好きな教官がいる。理科の授業で、自分が釣ってきた魚を教材に授業をしている。彼の後に授業をすると、生徒は、「今日、理科の授業でこれをやったよ。さとせんが釣ったんだよ。水槽にナマズがジーとしている。事細かに授業の内容を楽しそうに教えてくれる。さとせんも教務室に入ると、今日授業でこれをしてと、楽しそうに授業のことを話すのである。
職場の人間で香港に行った。夜10時にホテルに到着。いきなりどこかへ行くかという話になり、新界のホテルからシャトルバスに乗ってネイザンロードへ。フェリーに乗ってみようというので、75セント(約14円)を払ってフェリーの一等席へ。そして香港島に到着。夜景がよく見えない。それじゃあということでガイドブックを見ると(この時午後11時)、ビクトリアピークの夜景が名所らしい。じゃあ、行ってみるか。そこに何とビクトリアピーク行きのバスが。運賃50円なり。それ、と走ってバスが停ったところで飛び乗る。
二階建のバスに乗るのは初めてだ。二階へ上る。さあ、ここで不安になった。帰りのバスはあるのだろうか。大丈夫、大丈夫、タクシーがあるさ。でも上のてっぺんにこんな時間にタクシーなんか停っているんだろうか。バスの窓から眺めると、上からタクシーが下りてこないか探す。ほっ、どんどん下りてくる。おっと、バスがすごいスピードでカーブに突っ込む。すごい運転だなあ。そういえば現地のガイドがバスの運転手は最低何往復と決まっていて、それ以上往復する分は歩合制になっているから、飛ばすと言っていたが、なるほど、生活がかかっているんだ。
山頂で、タクシーが列をなして客待ちをしているのを見て、ひとまず安心。時刻は11時50分。
さて、展望台で夜景を楽しんでいると、いきなり電気が消えた。何のまえぶれ(ホタルの光りとか)もなくだ。人がぞろぞろ帰る。
私たちも帰ろうとトラム(登山電車)の最終便に下山のため乗る。さあ、麓に到着。タクシーの列が目の前。帰る場所が遠いので、運転手に英語で(日本語をしゃべると、日本人だとばれてぼられはしないかという無用の危惧から)新界のリバーサイドホテルに行ってくれと言うと、OKという。
さあ、これで一安心と思った瞬間、運転手がしきりに無線のマイクを持って、広東語でまくしたてている。どうもホテルの場所がわからないらしい。英語で説明するも通じない。この運転手には、OKとホテルぐらいしか通じていない。無線のマイクを突き出すので、マイクに向かってリバーサイドホテルに行きたいというと、英語で返事が返ってきた。住所を言えという。住所を言って何やかんや無線局の女の人とお話をする。すると今度は、無線局の人が運転手に広東語でホテルの場所を教えている(多分そうだろう)。
運転手、OKという。海底トンネルをくぐって、新界へのライオンロックトンネルを抜け、ホテルに無事到着。運転手が「HERE?」と聞く。はい、ここです。
メーターに出た金額と、有料道路代を合わせた金額が、何と2千円。こんな長い距離を走って、メーターの数字が一回りしてしまうのではないかと思ったが、これまた、安い。
こういう話をして、生徒に、英語も中国語も出来なくても日本語ができれば無線局の人には日本語ができる人もいるだろうから、タクシーに乗ってもだいじょうぶだよと言うと、生徒「そうか、英語ができなくてもタクシーに乗れるなあ、よかった」と答える。
本当にこの時間は英語の授業であったのだろうか。
辞書を引くのは疲れる。自分で辞書指導をやるのは疲れるから、生徒はもっと疲れるだろう。自分が楽しくやっていなければ生徒も楽しくない。楽にと楽しくとは必ずしも直線的に結びつかない。
授業の準備でも同じ時間の準備で大変だと思いながらやるのと、自分で楽しみながら準備するのとでは違う。でも本当はいいかげんだと自分では思っている。
この辞書を引くことの指導で、最初は意気込んでプリントまでつくって、国語辞典の引きかたまで丁寧にやったがその後やめてしまった。
国語辞典の引きかたから教えなきゃならない。国語辞典でさえ、引いていないのに、英語の辞書を引かせようということが大胆だった。
でも待てよ。この子らは国語辞典を引いたことがなくても、日本語をしゃべり、新聞のテレビ欄を見、今日はこれ見たいなとかしゃべっている。
新聞の折り込み広告を見ては「先生、マルエツで今、卵の安売りをやってるよ。買いに行けば、先生。新聞とっていないから知らないでしょ」。これ、このとおり。
英語は辞書を引かなくてもできる、と自分で納得して、辞書指導は2回でやめてしまった。
ところがどっこい、辞書は役に立つことがわかった。世界青年の船に乗船して、メキシコに寄港した時のことであった。メキシコのホテルで買った、英西・西英トラベルディクショナリーが大いに役立ったからだ。
メキシコのタスコで地元の中学生と話をした時だ。私はスペイン語ができない。相手は英語も日本語も囲碁もできない。話が通じない。ボディラングィッジは疲れる、もどかしい。
隣の人が、スペイン語会話帳を出して一方的に話しだした。おお、この手があったか。私も、おもむろに辞書を出して、ボディラングィッジでこの辞書使えと手まね。相手に辞書を引かせるのである。彼女が言いたいことを彼女が辞書を引いて指差す。
僕が見て、ああ、そうか。そして僕が英語からスペイン後の単語を探して指差す。こうして会話が30分以上続いた。僕がスペイン語を十分にしゃべることができたら、5分で終る内容であった。
自分が辞書を引けなくても、相手に引かせてしまう方法もあるのだ。
わからないことがわかる楽しみは、誰しも幼い時代に持っていたはずである。「なんで、なぜ。おしえて。」と大人に聞きまくる時代があったことを、人は大人になると忘れてしまうらしい。
わからなかったことが急に霧が晴れてよくわかる、喜びを伴った感動的体験だ。クイズ番組でもわからないことがわかるから楽しいのであり、新聞も知らないことを知るから読む。読書も新たな世界が開けてくるから楽しい。人間が情報を求めるのも、知的満足を得るのが根本的に楽しいからだ。
教護院の生徒に対しては、自分で生涯学び続ける学習の喜びを覚醒させることこそ重要である。
授業中に生徒がこんなことを言うことがある。「こんなの簡単だよ。おれは全部わかるぞ。俺って頭いいよな。」
すると私はすかさず「あのなー、ここではそうかもしれないけど、中学校に帰ったらどうなんだよ。」
生徒一同、過去の中学校での体験を思い出してか、お通夜のようにシーンとなる。
なかには私に食い下がる生徒もいて「ここでぐらい、勉強ができるのを自慢させてくれてもいいじゃないか。」
今の状態ですべてわかったつもりでとどまらず、常に進歩してわかることの喜びを持ち続けてほしいから、わざと意地悪なことをいう私であった。
研究生の研究授業の反省会で、「生徒が騒がしく静かにしていなかった。失敗した。」と言う人がいた。
するとI教官が「静かであればいいというもんじゃない。静かにしていても授業の内容がわかっていない時はわかっていない。うるさくても、内容をわかっているのとどちらが良い授業と考えますか。」と語った。
静かであっても、黒板に書かれた内容を見てもわからず「見れども見えず」、話の内容もわからず「聞けども聞こえず」の状態に生徒をもっていってはいけない。
板書の時に、わかりやすいように色分けをする教師は多い。教師がチョークの色を変える。生徒も、それ!と、かんぺんからおもむろにマーカーを取り出す。マーカーの色を取り替えるのに精神が集中する。
その点、うちの教官たちは、板書ではほとんど色チョークを使わない。なぜか。理由はいたって簡単、生徒が鉛筆としゃーぺんしかもっていないから。色チョークを使うときは、生徒が鉛筆としゃーぺんしかもっていないことを念頭におく。
研究生(院内では職員養成所の生徒のことをこう呼んでいる)が研究授業(中学校での教育実習に該当)で、カラフルに黒板に板書した。本人はよくまとまってわかりやすと思って得意満面。
ところがどっこい、後の反省会で指導教官にこっぴどく指摘された。
「非常にわかりやすいが、生徒は面くらっていました。黒の鉛筆しかないのに、どうやって自分のノートを整理するんですか。板書の内容に比べて、生徒のノートの内容は、非常にわかりにくかった。」
机間巡視をしていれば、生徒のかんぺんの中身ぐらいは把握できていて当然なのである。
板書はシンプルにわかりやすく。そして、「書いたら消すな、消すなら書くな」である。
一度成功したことの経験がある者は、失敗を恐れず、成功することを確信して、何度失敗してもいどみ続ける。
教護院にきている生徒は、これまで成功を知らず、失敗のみを繰り返してきた。
スキナーの箱でもわかるように、これまで餌がでてきたことがあるから、餌がでてこない場合でもペダルをつつくのである。餌が最初からでてこないペダルなぞ、つつくわけがない。
授業で成功したことのない子どもが失敗を繰り返すことに対して、逃避するなり忌避するのは当然のことだ。
私は定期試験前になると、試験問題をすべて教えてしまう。他の教官も試験前になると授業で試験問題を教える。
私は試験で例外的な問題は出さない。満点のとりやすい問題、時間のかかる問題をつくる(時間がかかるというのは、早く終わると生徒が騒ぎ出すから。問題が少なく生徒が早く問題を解いてしまうとあとから試験監督の教官に文句を言われる)。
教官の間で話題になるのは、試験問題をどれだけ早く作ったかと、どれだけ多く作ったか、授業で試験対策をやったかだ。
中学校では100点満点をとったことがない子どもたちなので、満点をとると喜ぶことしきり。試験で自信のあった生徒は、採点が終わるまで「先生、採点した? 何点だった? 何、まだ採点してないのかよ。」としつこく聞いてくる。
ところで試験問題はいい加減なので、ラドーの言うところの、妥当性、信頼性、客観性もへったくれもない。私のように、試験が終わって、答案を見てから配点を考える教官も多い。つまり、みんなができている問題の配点を高くして、みんなが間違っている問題の配点は小さくしてしまうのだ。
だから、試験でできなかったと思って「何点だった?」と聞いてくる生徒に「何点だよ」と教えると、「なにー。そんなにできてたんか。」という子がでてくる。
中学校での授業や試験で成功感を味わったことのない子どもたちに、成功感を味わってもらう。自分が努力したことの結果としての成功感を味わう。
中学校ではまず味わうことのできないこの成功感を、せめて教護院にいる間ぐらいは何度でも経験させてあげたい。
中学校へ戻った生徒から、よく電話が来た。授業はわからないけど、英語は面白いので勉強したいから、自分で勉強できるようにプリントを送って欲しいという。
意欲がないから学業ができないという方向の因果関係ではなく、学業ができないから意欲がないという方向の因果関係が、教護院での授業を通して強く感じるようになった。
中学校で授業が分からず、非行の道のほうが楽しければそちらに走る非行少年たち。
以前アンケートをとったら、今は授業がわかるからおもしろいという生徒が多かった。
好奇心というのは、人間だけでなく、他の動物にも備わっている基本的なものだ。
最初から好奇心や意欲のない人間はいない。
これまでまともに授業を受けてこなかった生徒だけに、たぶんここが人生でまともに受ける学校教育の最後の場となる子が多いだろうから、少しでも「学習とは苦痛なり」という意識を取り除き、社会へ出ても、学習への意欲を持ち続けることができるようにするのが教護院の使命と思う。
@ 暴れる
机を蹴り倒したり、出席簿を床に叩きつける。そして大喝する。これもひとつの方法であるが、あとがいけない。シーンと静まり返って、英語のように声を出さないと授業にならないのに、蚊の鳴くような声で発音されても授業にならない。いい方法ではない。
A 注視する
生徒を見るだけで、静かにさせるテクニック。この境地に達するのは至難の技である。
B 黒板にひたすら字を書く(手を動かせる、目を集中させる)
これもてっとり早い方法。生徒にしゃべる暇を与えないぐらい、ひたすら黒板に書き続ける。生徒はノートをとるのに忙しく、しゃべることを忘れる。そして、ものの見事に静かになる。
カッターやはさみ、糊を使うのも手を動かせることの一つの方法。目と手がふさがっているので、口にまで意識が回らない。
研究生が研究授業で、生徒が騒いでゆうことを聞かない、どうしたらいいかと聞いてくる時があるが、そういう時は、不本意ながら、黒板に字をたくさん書けということにしている。
C 視聴覚教材を利用する
人間、しゃべる時は、必ず相手の顔を見て(面と向かって)しゃべる。前の生徒が後ろの生徒としゃべる時は、必ず後ろを向く。前を向いたまま後ろの生徒とはしゃべらない。
そこで、ビデオを活用しよう、OHPを活用しよう、実物投影機を活用しよう、映し出されているものに注視すると前を向いて静かになる。これも一つの方法。
D 雑談ばかりする
生徒の興味ある話ばかりする。生徒ものって、色々聞いてくる。無駄話はなくなる。しかし、他の人が見たらまともな授業には見えない。50分という時間を持たすには、雑談も必要。普通、50分も忍耐強く集中できる人は多くない。ましてや飽きやすい非行少年だ。
私が反省すべき点は、授業が脱線して雑談になると、本線に戻れず、そのまま脱線、転覆してしまい、雑談で終わってしまうこと。
E 興味のあるおもしろい授業
これが一番の方法。皆、努力していることだが、いかに難しいことか。興味をひく授業をするための本が数多く出されているが、それだけ、自分の授業はつまらないと自覚している人が多いということでしょう。
かくいう私も、生徒の興味をひく授業をしようと心がけているものの、如何せん、未熟者である。
教官は自分のことを先生とは思っていない。生徒は先生と呼んでいるが、授業中も「先生と・・・しよう」とか言わない。先生という用語を1人称では使わない。1人称は「おれ、われわれ、わし、わたし、・・・」を使う。
石原語録にこうある。「空腹感のない人間は成長が止まるように、劣等感を持たない人間は進歩発展しない。我々は一生劣等感を持った生徒でありたい。先生と呼ばれる程の馬鹿になった途端に心身共に発達が止まるよ。」
人は見かけで判断してはいけないと私は学校で教わった。
しかし、何たることか、私は「人は見かけで判断してはいけないと言うけれど、世の中、見かけで判断されちゃうんだよ。入院してきた服装のまんまだと、中身も変わってないと思われるよ。世の中、見かけ、形からだよ。」
生徒「じゃあ、先生は見かけどおり貧乏人か−。」
私「人は見かけで判断してはだめだよ。」
何を言っているんだろう、私は。