小川原湖で発見された零戦速報
と金ヶ崎の彗星の近況


東北唯一の零戦か?

去る3月25日青森県上北町小川原湖(三沢の近く) から大湊警備隊所属の大湊水中処分隊の手によってプロペラなど航空機の 一部が引き上げられた。

これはその形状からして零戦21型と思われる。 この知らせを受けて急遽東北に向かった顛末は 「大艦巨砲の旅第9回」の ほうに書かれているが、4月23日に本州最北模型会の 昆氏、飛内氏、三上氏らと共にくだんの機体を見せて いただいた。

引き上げられた主な部品は以下のとおり。

(1)プロペラ

・三翔とも残っているが着水によるものか捩じれている。 両面とも茶色に塗装されているが裏面は茶色塗料の下から黒塗装 がのぞいている個所もあり以前は裏面のみ黒だったようだ。 塗料の残り具合、発色とも良好である。 先端は白くなっているが黄色に塗られていたものと思われる。 一翔の先端のみフジツボのようなものが付着しており、 その個所を除いた大部分は泥に埋まっていたものと想像される。 各翔の裏面には銘板があるが文字は残念ながら判読できない。

・焼けた跡があるためエンジントラブルによる不時着と思われるが エンジン前部の減速ギアボックスの部分からシャフトがポッキリ 折れており(写真)相当な力がかかったと想像されかなりの速度で 水面に突入した可能性もある。

・ハブ部品には住友のマークの刻印がある。 先端のオイルボックスからはいまだにオイルが漏れているらしい。

・スピナは形状は破壊されているものの、分割部分の「のりしろ」 にあたる部分の赤い防錆塗料がきれいに残っている。 スピナ自体は無塗装銀である。

・相当重い。大人5,6人でやっと持ち上げられる。

・寸法、形状から21型と思われる。(後記の理由により11型ではない。)

(2)左翼付根付近

・上面は濃緑色、下面は明灰色。但しそれ以外に上下面とも 暗い鼠色が残っている部分があり、以前はこの鼠色一色の 塗装であったと思われる。確かに赤みのある鼠色である (飛内氏がその色を直に見ながら原色から調合を試みたところ 若干の赤を必要とした)が上からワニスを塗ったための赤みとは 思われなかった。本模会の方々は「飴色」と呼んでいたので この点は私の認識違いかもしれない。

・桁内部(機銃艤装部)の青竹色も発色良好な状態で残っている。 かなり青みが強い。

・主脚柱は黒、伸縮部のメッキはピカピカである。 伸縮部のくの字型の部品は明灰色。フォークから先はない。 主脚柱には「中島」の刻印があり、中島製の機体である。 ブレーキパイプは今でも柔軟に動かせる。 11型は三菱でしか生産されていないので21型と思われる。

(3)機銃点検ハッチ(恐らく左翼)

・ゴム製パッキングが良く残っている。

(4)20ミリ機銃口(?)

・開口部の防振用の石綿が残っている。 ただこの部品外側に向かって凸みたいな形をしているのだが 21型の20ミリ機銃口はでっぱり(フェアリング)はないはず なので疑問が残る。

本模会の昆氏は海上自衛隊八戸航空基地で整備を担当されている 現役自衛官なのでいろいろご教授賜った。 この部品群を一目見るなり「エンジントラブルだね。」 なんて推察してしまうあたりなんとも流石である。 また氏の見立てでは工作がかなり丁寧で銅もふんだんに 使用されていることからしてかなり早い時機に作られた 機体ではないか、ということであった。

ちなみに中島製の21型は昭和16年11月に生産命令が下り、 同17年春頃より実戦部隊に就役し始まったようである。

さて、この機体の処分については全く白紙の状態で さらなる調査・引上げの予定も今のところないようである。 また今回上がったものをどうするかも決まっていない。

ただ上北町としても対応が決まっていない状態なので 問い合わせられても困るというのが現状のようであり、 とりあえずこの件については本州最北模型会の飛内源一郎氏 が窓口になっているそうである。

とりあえずそんな状況なのでどうしてもこの零戦について 詳しく知りたい方はとりあえず 私にメールを頂ければ 折り返し飛内氏の連絡先を連絡します。

金ヶ崎の「彗星」43型の近況

昭和20年8月9日牡鹿半島沖に現れた米機動部隊を迎撃すべく 百里原基地を飛び立った第601航空隊の彗星43型のうちの1機 阿知波延夫1飛曹・竹田秋津1飛曹のペアは釜石沖の艦隊上空に進入、 降爆を敢行するも投下装置作動不良で800Kg爆弾が落ちず、 再度攻撃を試みるが今度は勝手に爆弾が落ちてしまった。

しかし、撃墜されることなく帰途についたが燃料不足のため 金ヶ崎の陸軍飛行場に着陸した。この飛行場は緊急着陸場の ようなところであり、他に機体もなければ燃料も無かったが 両名は村人に歓待されたようである。燃料が入手できないので 両名は汽車で百里原に帰っていったが、翌日の空襲で同機は 破壊された。

その残骸の一部を戦後近隣の農家の方が持ち帰って 保管していたものが、現在盛岡市の「岩手県高校教育会館」に 保存されている彗星43型の胴体後部と昇降舵2枚であり、 平成6年3月に岩手県高等学校教職員組合に寄贈された。 その機体を先の零戦を見る前日に見学させていただいたので 近況を報告しよう。

胴体のほうは日の丸中央部から水平尾翼取付部あたりまで であるが上端部(日の丸上縁部にかかるパネルラインより上)は無い。 色は日の丸の赤、濃緑色ともに良く残っている。

胴体下面の波状塗分けの下は朱色(喩えていうなら弥生式土器みたいな色?) に塗られているように見える。 練習用の機体を兼ねていた可能性も考えたが、水平尾翼下部 はジュラルミン地のままなので経年変化によるもののようだ。

機体内部には青竹色のような 保護塗料は全然見られず、大戦末期の製作らしい雰囲気である。

胴体下面には3段の凹みがあり加速用ロケットの装備を考慮 した43型の特徴の一つが確認できる。その部分は錆具合から 鉄製にも見え、ロケットの排気からの耐熱を考慮した構造なのかもしれない。 先述の朱色はこの鉄(?)の部分を保護するための防錆塗料が浮き出て きたものではないだろうか?

エンジンの排気管らしい部品も胴体のそばに置いてあるのだが 今回見せてもらった位置からではよく見えなかった。

昇降舵のほうは羽布張りの部分はほとんど失われて骨組み のみといった感じである。

いずれも一応ガラスケースに格納されており、 普段は日光などもあまり当たらない場所にあるため、 状態はそんなに悪くはないようであるが、本格的な防腐処理は施されて いないようで縁の部分から金属片が剥離しつつあるようである。 できれば末永く保存に耐えるようにしてほしいものである。

「大艦巨砲の旅第9回」 青森県・岩手県。宮城県へ行く

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Make Home Page:1998.05.14 / Updated 1998.05.14
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