東北唯一の零戦か?
去る3月25日青森県上北町小川原湖(三沢の近く) から大湊警備隊所属の大湊水中処分隊の手によってプロペラなど航空機の 一部が引き上げられた。
これはその形状からして零戦21型と思われる。 この知らせを受けて急遽東北に向かった顛末は 「大艦巨砲の旅第9回」の ほうに書かれているが、4月23日に本州最北模型会の 昆氏、飛内氏、三上氏らと共にくだんの機体を見せて いただいた。
引き上げられた主な部品は以下のとおり。
(1)プロペラ
(2)左翼付根付近
(3)機銃点検ハッチ(恐らく左翼)
(4)20ミリ機銃口(?)
本模会の昆氏は海上自衛隊八戸航空基地で整備を担当されている 現役自衛官なのでいろいろご教授賜った。 この部品群を一目見るなり「エンジントラブルだね。」 なんて推察してしまうあたりなんとも流石である。 また氏の見立てでは工作がかなり丁寧で銅もふんだんに 使用されていることからしてかなり早い時機に作られた 機体ではないか、ということであった。
ちなみに中島製の21型は昭和16年11月に生産命令が下り、 同17年春頃より実戦部隊に就役し始まったようである。
さて、この機体の処分については全く白紙の状態で さらなる調査・引上げの予定も今のところないようである。 また今回上がったものをどうするかも決まっていない。
ただ上北町としても対応が決まっていない状態なので 問い合わせられても困るというのが現状のようであり、 とりあえずこの件については本州最北模型会の飛内源一郎氏 が窓口になっているそうである。
とりあえずそんな状況なのでどうしてもこの零戦について 詳しく知りたい方はとりあえず 私にメールを頂ければ 折り返し飛内氏の連絡先を連絡します。
金ヶ崎の「彗星」43型の近況
昭和20年8月9日牡鹿半島沖に現れた米機動部隊を迎撃すべく 百里原基地を飛び立った第601航空隊の彗星43型のうちの1機 阿知波延夫1飛曹・竹田秋津1飛曹のペアは釜石沖の艦隊上空に進入、 降爆を敢行するも投下装置作動不良で800Kg爆弾が落ちず、 再度攻撃を試みるが今度は勝手に爆弾が落ちてしまった。
しかし、撃墜されることなく帰途についたが燃料不足のため 金ヶ崎の陸軍飛行場に着陸した。この飛行場は緊急着陸場の ようなところであり、他に機体もなければ燃料も無かったが 両名は村人に歓待されたようである。燃料が入手できないので 両名は汽車で百里原に帰っていったが、翌日の空襲で同機は 破壊された。
その残骸の一部を戦後近隣の農家の方が持ち帰って 保管していたものが、現在盛岡市の「岩手県高校教育会館」に 保存されている彗星43型の胴体後部と昇降舵2枚であり、 平成6年3月に岩手県高等学校教職員組合に寄贈された。 その機体を先の零戦を見る前日に見学させていただいたので 近況を報告しよう。
胴体のほうは日の丸中央部から水平尾翼取付部あたりまで であるが上端部(日の丸上縁部にかかるパネルラインより上)は無い。 色は日の丸の赤、濃緑色ともに良く残っている。
胴体下面の波状塗分けの下は朱色(喩えていうなら弥生式土器みたいな色?) に塗られているように見える。 練習用の機体を兼ねていた可能性も考えたが、水平尾翼下部 はジュラルミン地のままなので経年変化によるもののようだ。
機体内部には青竹色のような 保護塗料は全然見られず、大戦末期の製作らしい雰囲気である。
胴体下面には3段の凹みがあり加速用ロケットの装備を考慮 した43型の特徴の一つが確認できる。その部分は錆具合から 鉄製にも見え、ロケットの排気からの耐熱を考慮した構造なのかもしれない。 先述の朱色はこの鉄(?)の部分を保護するための防錆塗料が浮き出て きたものではないだろうか?
エンジンの排気管らしい部品も胴体のそばに置いてあるのだが 今回見せてもらった位置からではよく見えなかった。
昇降舵のほうは羽布張りの部分はほとんど失われて骨組み のみといった感じである。
いずれも一応ガラスケースに格納されており、 普段は日光などもあまり当たらない場所にあるため、 状態はそんなに悪くはないようであるが、本格的な防腐処理は施されて いないようで縁の部分から金属片が剥離しつつあるようである。 できれば末永く保存に耐えるようにしてほしいものである。
Make Home Page:1998.05.14 / Updated 1998.05.14
「小川原湖で発見された零戦速報」(大艦巨砲主義者の部屋) 質問・問い合わせは、E-Mail:kurimata@opal.famille.ne.jp