「こじま」解体はじまる
「こじま」解体開始
されど君の航跡は消えまじ



- update 1998.02.01 -


「こじま」と池は工事用の塀にすっかり囲われて 内部をうかがい知ることは難しい。 前マストがなくなってしまったため写真ではわかりにくい かもしれないが、塀の上からブリッジと後マストが頭を出している。


さらば「こじま」よ、さらば「志賀」・・・

新聞などで報じられているように、 各種保存運動の甲斐なく、旧千葉市海洋公民館の解体工事が 去る1月19日より開始された。言うまでもなく同施設は旧日本海軍 海防艦「志賀」、そして戦後は海上保安庁巡視船「こじま」として 活躍した同船を千葉市が海洋公民館として使用してきたものである。

第二次世界大戦に参加した日本の戦闘用艦艇としては最後の生残りであり、 また戦後は日本の復興を影から支えた同船の存在価値を知る人々や、 「町のシンボル」として30年以上愛着を持ってきた地元住民の保存への 働きかけも結局は市当局に無視される結果となった。

私も解体開始の報せを受けたときはどうしようもない 脱力感におそわれ、そのためかカゼをひいてしまったが、 せめて同艦の最後の姿をできるだけ見ておきたいと、今日、 稲毛海岸へと向かった。

いつもなら真っ先に目に入って、「ここに船あり!」 とその存在を誇示するマストはすでに撤去され、その全周は 工事用の塀に覆われ解体の様子はほとんどわからない。 ただ2月1日現在の状況では前マストの他、錨やブリッジの装備、 ボートダビットなどが撤去済みになっていたようであり、 3月31日の工事終了に向けて日曜日だというのに現場内では 鉄材の音が響いていた。(いかにもお役所仕事らしい日程ではないか!)

自分を責める気にはならないが、 やはり「負けた」という感じがするのは致し方なく、怒り、というよりは 「こじま/志賀」に対して申訳ない、という気持ちがしてくる。

さて、私の個人的な感情はともかく、このホームページを 通じて「こじま」のことを知ってくださった方々、そして、保存運動 に協力する意思を表明してくださった方々など多くの皆さんにお世話に なりました。結局は残念な結果に終ってしまいましたが、 本当にありがとうございました。保存運動の中心となってきた方々のご意見 をいただきましたので掲載いたします。

海防艦『志賀』無念の解体始まる!!

千葉市美浜区稲毛海岸通りのシンボルとして30年以上にわたって親しまれ てきた海洋公民館『こじま丸』の部品撤去作業が、ついに1月19日より開始 されました。そして1月末からは本格的な解体作業が開始され、地元市民はじ め全国からの保存を望一万名を越える署名もむなしく、今年度中には当地よ りその姿を消すこととなりました。

その前日、18日午後1時より挙行された『文化遺産「こじま」を保存する 会』主催による『「こじま」お別れ会』には、降りしきる雨にもかかわらず地 元市民をはじめ、全国からの活動支援者・艦船愛好家・艦船史研究者・元海軍関 係者・陸海自衛官等、約300名が参列され、古式ゆかしい神式による送別式 がとりおこなわれ、さらに千葉市消防局音楽隊による吹奏楽演奏で「こじま・志 賀」の最後の別れが整然と実施されましたが、肝心の千葉市当局者は一名とし て式典には参列せず、船上での見送りは美浜区選出の布施市議会議員の判断に よって自主的に執行することとなり、地元市民無視の千葉市政の無責任かつ横 暴な姿勢に参加者は怒りを新たにいたしました。

若干の計器類・艤装品等が、千葉市、と呉市に残される他、栃木県那須高原の 「大東亜戦争記録保存会」運営による『戦争博物館』の展示品として船首部分 ・マスト等が保存されることとなりました。

最後に大日本帝国海軍軍艦『志賀』の大部分が失われてしまうのは、我国の 歴史遺産に対する認識の低さを物語って余りある残念なことではありますが、 今回の結果はともかく、惜しみないご支援・ご協力をくださった方々には厚く 御礼申し上げますとともに、今後のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

皆様、誠に有難うございました。

平成10年1月23日
海防艦『志賀』保存推進運動事務局代表・大館広史

惜別の辞

文化遺産「こじま」を保存する会
代表:関直継

私達は、今歴史の中で現在が揺れ動く現場に居合わせています。歴史の流れの中でそれ を世紀末現象と言う様ですが二十世紀も終わりに近づいている今、千葉市は今世紀の汚点 である大東亜戦争最後の証である志賀「こじま」を置き去りにしていくことに決定しました。

解体の決まったそんなある日、偶然老婦人に出会いました。聞けばその方の夫は海軍の軍 人さんでしたが三十一歳の若さで戦死されたそうです。千葉市に最後の戦艦がある事を知 り、この地に移り住んで毎日「こじま」を訪れて拝み、回想したり、話しかけたりの日 を続けていたそうです。「まだまだ老朽化していない壊さないでほしい」と泣き崩れま した。海防艦「志賀」であった「こじま」は、昭和十八年東京市役所に在った太田道灌や徳 川家康の銅像、「欲しがりません勝つまでは」と全国から供出されたお寺の鐘や鍋釜が溶鉱 炉で溶け合って造られました。そんな結晶であった為か、戦後も気象観測船とか海保大の 練習船、さらに千葉市で海洋公民館へと平和利用されてきました。

この様に数奇な運命をたどった「こじま」の分身はこれからも稲毛記念館で子供達や市 民に親しまれますが、必ず一番気に入って長く住み慣れたこの地に帰って安住できます様 に、今後も活動していきたいと思います。最後にもう一度「こじま」が地元市民にシンボ ルとして親しまれ平和と美浜区発展に尽くされた事に感謝いたします。本当に長い間ご苦労 様でした。ありがとう。

「こじま」保存運動を振り返って

稲毛海岸通り商店会会長
寒竹郁夫

一、区政になればきめ細かい行政サービスを市民は享受できると期待したが、解体決定を 地域住民の方々が誰も知らなかったという事実が今回の保存運動のきっかけとなった。

二、一万人以上の署名者の気持ちに対する明確な返答が少なくとも文章ではなされなかった。 解体理由が消防法、建築基準法、老朽化というように本来の論点がすり替わり、結果的に 我々の意見は無視された形となった。行政の方々と「こじま」を題材として歴史観、教育等 本質的議論をもっとしたかった。

三、先の大戦に対する一種盲目的なアレルギーが行政はじめ諸団体に根強くはびこっており、 大東亜戦争という歴史的事実を冷静な眼で見る事ができなくなっている。 その結果戦争というものに対する戦略的考案、反省が全くなされず、日米経済戦争の敗北に 続く今現在の平成恐慌を引き起こす誘因になっていると思われる。

四、今回の一連の報道は、戦争観、歴史観、教育論という本質的な問題まで言及されなかった ことが残念である。

五、記念館の在り方、運営、跡地の利用等、今後の方針に対して、是非とも地域住民の意見 を取り入れてもらいたい。

「こじま/志賀」最後の肖像

マストがなくなってしまったため以前とは 異なる印象を受けるブリッジ。心無しか生彩が失せた感じすらする。

戦塵を、荒波を、そして稲毛の発展を見張り続けてきた ブリッジもついに役目を終える時がきた。

錨を失い、「戦時急造」らしい直線ラインが より強調された舳先。

「こじま/志賀」にとっての長かった「戦後」が今、終ろうとしている。


ありし日の「こじま」

「大艦巨砲の旅第2回」 千葉・稲毛海岸(こじま)へ行く

「PORTHOLE(Phots of Ships)」 「こじま」の写真を見る 
海洋公民館としてつかわれていた頃の「こじま」の写真あり。


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Made:1998.02.01 / Updated:1998.02.01
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