俳句カレンダー鑑賞 11月

創立45周年記念墨跡集




海に出て木枯帰るところなし   山口誓子


【鑑賞】 命の光明   品川鈴子

 NHKから再三の出演依頼を受けながらも、難聴気味を慮り辞退していた誓子が、やっと平成三年に自宅での句会の生中継に応じた折「先生のこれまでの莫大な作品から、お好きな句を三句挙げて下さい」と乞われ、皆が固唾を呑んで注目していると、九十歳の誓子の口からまず出たのは、句集『遠星』にあるこの木枯の句でした。
 これは昭和十九年十一月十九日、四日市北部の松ヶ浦で病気静養中の誓子が、太平洋へと吹きすさぶ木枯に思いを託した作です。関西からこの浜辺に移り住んで三年、すでに住友を退社して二年目、戦局はいよいよ激しくなり、やがて半年後には大阪宰相山の留守宅が空襲で焼け、一切を失う頃のこと。鈴鹿山脈を越え次々と海原へ遠ざかる機影をただ見送るばかりの日々、自分と同じく帰るところのない木枯ではあるが、その強靭なエネルギーに命の光明を求めずにはいられない誓子でした。
 句集『激浪』とそれに続く『遠星』には磯辺の蟹や虫などをつぶさに観察して、捻り潰せる程の小さな生き物へのいとおしみが溢れんばかり、命の賛歌が聞こえてくるようです。冷たい木枯もまた誓子に寄り添う命の一つでした。



【思い出】 奈良の刈田   津田清子

 昭和三十八年橋本多佳子先生が亡くなられ、親を失くした仔羊のような私共を親身に励まして下さったのは山口誓子先生であった。
 誓子先生が「あなたの家に行きましょう。」と言われたのがその年の十二月。私は驚きのあまり、すぐには声も出なかった。
 というのも、犬小屋のような粗末な建てたばかりの家には、臭い石油ストーブが一つ。敷物も無くカーテンも無く、座敷机と座布団があるだけで、夜は美しい星空。
 このときの誓子先生の御作が、昭和三十九年十二月天狼に「竹動書屋」と題して載っている。

  竹動書屋
 借景と云はず刈田を庭として
 応接間奈良の田舎の刈田見す
 吊し柿?きては食べる奈良風に
 枯を見て大和の国の一時間
 刈田みな暮る湿り田も乾き田も
 強にして石油煖爐舌舐める
 狐火が頭燈となる君が居は

 家の西方は生駒山、ケーブルカーの上下する燈も見えた。竹薮が多く眼についたらしく、誓子先生はわが家を「竹動 書屋」と名づけられ、扁額「竹動書屋」の揮毫を賜った。
 またの日、先生は近所の紫雲英田で遊ばれた。
 げんげ田に吾も脇臥北枕
(一隅集)の句を残しておられる。
 昭和四十二年十一月、竹動書屋に於て第一回の集雲会(誓子先生命名)の句会は奈良在住、天狼同人(十人余り)の句会で誓子先生直接指導の句会。毎月一回昭和四十三年七月まで続いた。
 しかしこの頃から誓子先生は大層お忙しくなられ、先生を奈良で独占することがむつかしくなった。

 社団法人俳人協会 俳句文学館427号より

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