【鑑賞】 品格の高さ 山口奉子 すっきりした風景である。燕が旅立つころのきりりと清澄な大気と、嫋かに揺れる秋の竹林が思われる。手入れのとどいたかつての里山の一景なのであろう。 句は飯田蛇笏ご逝去の折、野辺送りまでのあの切ない時間を、山廬後山を逍遥し、その緑を流れる狐川の景を詠んだもの。 角川源義第二句集『秋燕』所収。同時作に(秋灯下霊にまぢかく躄り寄る)がある。 慟哭をこらえるとき、ひとは天を仰ぐのだろうか。甲斐の空の無窮の広さと青さに無常を思い、師源義は何ほどなぐさめられたにちがいない。句における「秋燕」の力は大きい。 伝統俳句の抒情性を主張し、二句一章を標榜し、立句の美事さに刮目した源義の俳句がいきいきと一句に凝縮されている。 先師源義を直接知っている俳人も少なくなったという。私も知らないものの一人ではあるが、この一句の品格の高さを身近に思うとき、先師を「知っている」と思いたいのだ。 「河」はこの一句を胆に銘じ、師角川源義の忌日を「秋燕忌」とし、こころ新たに俳句にとり組んでいる。 【思い出】 西行、芭蕉の心 佐川広治 花あれば西行の日と思ふべし 源義のまさに名句。昭和四十九年、四月九日、岸風三樓の案内で、予後はじめて真間山弘法をおとずれ、立石寺の山桜を見た折の作品。角川俳句賞の俳人・佐藤南山の案内で菩提寺に詣でた折のもの。 角川源義は私たち河衆に芭蕉の文学態度をしきりに強調した。「芭蕉俳句はおそろしく習練をへた写実を通ってきた抒情世界である。その抒情世界を支えているものははにか。それは(誠なきものに誠を備へ)ようとする芭蕉の文学態度であった」(「河」昭和三十五年五月号)で抒情の問題として述べている。 角川源義は、昭和三十三年十二月、四十一歳の時、俳句における抒情の恢復と伝統への回帰を旗じるしに俳句結社誌「河」を創刊した。社会性俳句や前衛俳句運動のはなやかな当時の俳壇へ俳句における抒情性の再認を強く促しての出発であった。創刊号には飯田蛇笏・水原秋櫻子・石田波郷・細見綾子らが祝福のことばを寄せている。 源義は作句の方法論として、大須賀乙字の提唱した二句一章論を踏まえ、作品を展開・実践した。その後、もどき芸による古代感受への試み、陰を陽に転ずる俳諧の精神の継承、そして晩年には平明でこころに沁みとおる句づくりをした。 昭和四十二年には蛇笏賞、迢空賞を設定、日本の短詩型文芸の発展に寄与した。さらに、俳句文学館設立委員長として心血をそそいだ。同時代に師角川源義とともに俳句の世界を共有したことを心より幸せだとおもう。 |
社団法人俳人協会 俳句文学館425号より |