筑波山には、峰と呼ぶより丘呼んだほうがふさわしいような婆が峰と爺が峰と呼ばれ
る小さな山がある。このふた峰をめぐって、悲喜様々の伝えが残されている。うばすて山
の伝えだ。
日本の各地が、非常な飢饉に襲われ、未曾有の食料難に陥ったことが幾度かある。そん
な時にうばすては行われた。初めは食料難を緩和するために、老人の方から申し出たのか
も知れない。
「どうせ、余命の幾ばくもないおれたちだ。おれたちがいなくなれば、それだけ孫たちの
食料が多くなり、 命が伸びるというものだ。遠慮なく、連れていってくれるがいい」
と、自ら進 んで、うばすて山へ運ばれたことだろう。それが、幾年か続くうち、いつま
でたっても芽の出ない貧民には、いつかうばすてが、ひとつの習慣になっていったとろも
あるだろう。
老婆の方は女だから、早く弱るので近くに、男の方は、女よりも抵抗力も強いからとい
うので、それよりも遠くへ棄てたという。そのために、婆の峰と爺の峰との距離があいた
という。
そういう悲話を、一切退けて、ふたつの峰は、老人たちの歓談の場だった、と説くひと
もある。前半生を家業にいそしみ、財もでき、後継者もできた。手放しで全財産を譲って
も何の心配もなくなった。
ただ一筋に、仕事にうちこんできた人生というものに、結節をつけ、潤いと余裕をもっ
てその後半生楽しくおくりたいのは人情である。
そのような老夫婦たちが、三々五々手を取り合って、人目を離れた山の中に寄り集まり
ハメを外した一日送るのも、ほほえましい風景ではないだろうか。
近くには、かがいの跡だといわれる夫婦が原もある。そちらでは、壮青年の者たちがこ
ちらの丘では、老境にはいった人々が、それぞれの人生を楽しもうとする。
例えそこから、老いらくの恋が生まれたとしても、それはそれで、いいのではないか。
そうあってこそ、筑波山そのものに、不均衡のない人間の取り扱い、男女の神の面目が、
あるように思われる。
この悦楽の集いが、うばすてであったなら、筑波のうばすては、世にも好ましい、此の
世から極楽に通ずるパスポートになっていたことであろう。
参考文献筑波風土記より |