迎える新世紀を目前にして、人類は人類の誇る科学文明により、飛躍的な進歩を遂げてきた
と自画自賛している。そして今後もいっそうの進歩を願ってやまない。
はたして人類は人類の思っているように「進歩」を遂げてきたのだろうか?
進歩をするという事が大気を汚染する事だったり、原子爆弾を製造する事だったり、人と人が
殺しあう戦争をする事を進歩と言うのであれば、間違いなく人類は進歩してきたと言える。
しかし、進歩とは、人類にとっても有意義な事であり、地球全体にとっても有意義でなけれ
ばならないはずだ。
人類の繁栄のみが優先され、他の動植物を絶滅に追い込んだり、大気汚染から北極や南極の
氷を溶かしてしまったり、開発により自然豊かな山や海を変形させてしまうような、地球全体
のバランスを崩してしまうような事を進歩と呼ぶのであれば、あまりにも手前勝手すぎるので
はないだろうか。
そればかりか、医学の力を過信するあまり、次から次へと出現するウィルスや細菌を撲滅す
るため、抗性物質やワクチンを開発し投与してきた結果、それを上回る強さのウィルスや細菌
が出回り、より強力な抗性物質やワクチンが必要となってくるといった悪循環を繰り返してい
る。地球のバランスを崩しているどころか、人類自らのバランスさえあやしくなってきている
。
精神的にも不安定な人間が増えてきて、絶えまなく起こる事故や事件。高度な教育を受けて
きたはずの人間が、ささいな動機で、横領をはたらいたり、殺人を行ってしまったり、警察官
が恐喝をしたり、教師が窃盗をはたらいたり、いったい教育で人間は何を学んできたのだろう
。学校の授業だけでは足りずに、塾にまで通いながら受けた教育によって、正しい人間が育っ
てきているのだろうか。
そんなさまざまな疑問が頭をかすめた時、紀元のはじまった時から人類は進歩どころか、何
か大事なものを失なう歴史を綴ってきたのではないかと、覚めてしまう。
そしてこの先人類は、何処へ行ってしまうかと思うと、いたたまれないぐらいの恐怖がおそ
ってくる。きっとみんなも一緒のはず、目の前に会社があったり、学校があったり、友達がい
たり、親がいたりする事でまぎれているだけで、心の何処かでは『このままでいいのかな』と
いう思いは誰もがもっているはず・・・・。
きっとこれまでの人類もそうして「進歩」という失楽園をくり返してきたのだ。
1999年9月29日 つづく
というような、ごあいさつをしているそばから核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」と言
う会社がこともあろうに、日本で初めての核分裂連鎖反応事故を1999年10月2日に起こ
してしまった。
しかも筑波山をいだく、常陸の国、茨城で・・・・。何と言えばいいのか言葉さえ見つから
ないが、人類のおごりに対する警告と言えるのではないだろうか。
核分裂などというものをコントロールできると思っている事自体、だいそれているし、核分裂
によって得ようとしているものは、電力なのだろうがもっと他にも方法はあるはずだ。一人の
人間が必要としている電力など微々たるものなのが、なぜ大きな電力が必要かと言えば、産業
の為なのだ。より大きな利益を求め産業を発展させてきた結果、大きな電力が必要となり、遂
には、原子力発電に頼らなければならなくなってしまった。
茨城県民の歌で「世紀を〜ひらぁ〜く、原子の火」という歌詞に代表されるように、官民一
体となって、お題目を唱えるかのように「原子力は安全な未来のエネルギー」と訴えてきたの
だが、次から次へと事故は起きていた。
戦争でもないのに、被爆者がでるなんてどう考えてもおかしなことだ。人間の頭の中で、
核分裂が起こってしまい、その連鎖反応を止められなくなっているとしか言い様のないこと
だ。
1999年10月5日つづく
ずいぶんな世の中になってしまったものだ。
あいかわらず警察や学校教師の不祥事が続いたかと思えば、先頃は高校3生(17才)が主
婦をメッタ刺しにするという事件が起きた。
高校生と主婦との関連はまったくなく、その動機にいたっては、「人を殺す経験をしようと
思ってやった」というだけである。
日頃から生活行動面などに問題がある生徒ではなく、スポーツや勉強の成績も大変優秀な徒
だったと言う、それだけに周囲の困惑は大きかったようだ。
そして5月3日、年令もまったく同じ17才の少年が、西鉄高速バスを乗っ取るという事件
が起きた。
ゴールデンウィークを利用して、一人で福岡へ向かう途中の6才の女の子を人質にとり、何
人かの女性乗客を刃物で切り付け、うち一人の乗客は死亡してしまった。
その動機については、まだ明らかにされてはいないが、少年に精神的病があったという理由
だけではすまされまい。
もしこの手の犯罪が、精神的病がもとで引き起こされるということで、犯罪として問う事が
できないのであれば、今後起こりうるであろう事件は、すべて精神的病が原因となるため犯罪
ではなくなってしまう可能性がある。
なぜなら、現代の人間に精神的病を治せる能力は、無いとみなしたほうが良いからである。
現代の社会機構が教育に主眼を置き、教育こそすべてと讃美しつづけている限り、精神的
病をもった人々は、増え続けるに違いないからだ。
困るに困って宗教団体の扉を叩いたところで、そこでなされていることこそ『尊い教え』と
いう教育なのだ。
教える、教わることをやめないかぎり、この世の中は最悪の循環を、くりかえして行くだろ
う。
2000年5月4日つづく