精神薄弱教育講義録から(辻村泰男編 昭和35年7月5日、日本児童福祉協会発行)
(今となっては適当ではないと思われる表現もありますが、当時の講義の中から考えさせられることもあるので紹介します)
精神薄弱児の心理 杉田裕
劣等感というものは、たいていの人間に実はある。むしろ劣等感がないという人間の方が少ないし、また多少なくては困る。精神薄弱者の場合でも、むしろ白痴ぐらいになると劣等感がない。まわりの者の方がむしろ劣等感を持ってしまう。特にそういうようなお子さんを持っている家庭ですが、そういう家庭全般がむしろ劣等感を持ってしまう。しかし白痴などの場合には、本人が全然ケセラケセラで平気なものです。それからまたある程度能力の高い人の方が、それだけ劣等感を持っている場合が多い。むしろ劣等感を全然持っていないということになれば、かえって社会性がなくなってきて困る。劣等感があるがゆえに、われわれは人とつきあっている、自分一人では危ない。ですから、おたがいに頼りあって一緒にやっている。社会性とはよい意味での劣等感からでてきている。
問題なのは劣等感そのものではなくて、劣等感がどういう行動と結び付くかということが問題。自分自身はなにもわからない。しかし、自分は普通の組にいるのだということによって劣等感を回復している場合がある。
要するに集団帰属によって劣等感を回復する。不良少年などの場合によくこういうことはいえるのですが、一見不良少年だとわかるような服装や言葉を用いる。あんな服装をしていなければつかまらなくて具合がいいだろうと思うのに、わざわざ入れ墨をしたり、変な言葉を使ったりする。これはやはり不良少年の集団に属しているということによって自分の劣等感を回復し、安定感を得ているのであります。
弱い者は集団を組んで、その集団によって劣等感を回復するという特性を持っている。たとえば日本人が外国へいく。そうしてそこで長い間住んでいこうという場合には、たいていの場合日本人は日本人にむらがってくる。
IQだけでは何ともいえない。その人間のそういう一つの価値観というものが、ここである程度問題になる。
愛情というものは水みたいなもので、多すぎると洪水になってしまい、少なすぎるとひでりになってしまう。適当な愛情というものは実にむづかしいもの。
所属の欲求、これはどんな人間でもあるグループに属していたいという欲求がある。極端な場合では、「村八分」といって、村から仲間はずれにすることによって刑罰としてまで使われるようになる。
精神薄弱の子供は、普通学級の中では常に所属していない。二人ずつ並んで写真を撮りますから、だれと一緒に並んで写したいか名前を書きなさいなどというと、なかなか出てこない。並びたくないものを書きなさいというと、最高点、時点と出てきてしまう。ですから、勉強ができないだけでなしに、クラスの中での人間関係からこぼれている。
教師にとっては、彼にどういう役割を与えて集団の中で生き生きとした生活を送らせることができるかということが、一つの指導の手ががりになる。
世の中には、知能の高い人もいるし、低い人もいる。背の高い人もいるし低い人もいる、あるいは体重の重い人もいる、軽い人もいる。ですから、身長の場合にもそういうことが必要ならば、身長年令、身長指数、というようなものを考えて考えられないことはない。そして身長指数75以下、あるいは70以下を身長薄弱者とし、それを次の三つの段階にわけるとかしてもいいわけです。
ところが、身長薄弱者の施設をつくろう、というような試みは全然なされていない。それは、なぜかというと、それは身長が低いということそのことは、社会生活を営んでいく上に何らさしつかえないということが、はっきりしているから。
一時、ある教育委員会で、身長一メートル50センチ以下は教員に採用しない、という風な規定をつくったことがあります。こういう場合は身長が低いということは、教員という職業について社会生活を営む上で支障を来すということになります。
ところが知能が低いと、それが問題になるのは、知能が低いことがそのまま問題になるというよりは、知能が低いために社会生活を将来営む上で、さしさわりが出てくるおそれがあるからこそ問題になるわけです。
これを逆に考えてみると、知能が低くても、社会生活にさしさわりがなければ、特に、精神薄弱児を問題にする必要はない。知恵のおくれのため放っておいては社会生活ができないからこそ問題にされるようになった。
落語の中には精神薄弱者が実にたくさん出てきます。そして、それらの人々が落語の中では実に生き生きと生活している。
今の社会でも知能が低くても立派に通用する社会がないことはありません。
知能が遅れていても、社会に出て生活は出来るという人間にすることができると考えられます。精薄児の特殊教育というのは、知能が遅れていても、社会的な自立ができるような人間を作るということになります。そういう考え方がこの定義に反映している。
用語についてちょっとふれると、例えば「低能」という言葉は、なかなかいい言葉だと思いますが、今では低能とか低能学級とはめったに言わない。というのは、低能という言葉に軽蔑的な意味がだんだん加わってきたからであります。そこで、新しい言葉がいろいろ使われるわけですが、これは言葉の問題ではないと思います。
一時、「頭が弱い」という新しい呼び名が流行したことがありますが、世間で大流行に
なって漫才などでも「頭が弱いものですから」というように使われだすと、初めの使い方と全く反対になってしまって、使うわけにいかない。
むしろ我々が努力しなくてはならないのは、そういう名前で呼ばれる子供達に対する軽蔑的な考え方をみんなで努力して改めていくこと、これがむしろ大事なことだろうと思います。
知能指数を金科玉条のように考えるということも間違い。正しいテストを、正しいテスターが正しい条件に従ってやった場合の知能指数でも70と出たということは知能指数が、60から80くらいの間なんだなというくらいの意味しかない。知能指数が、70と72の子供を比べて、こっちのほうが上だとはいえない。
六尺の大男がいたとします。家の中を歩くたびに鴨居に頭をぶつけるわけです。生活するのに誠に具合が悪い。そこで、家の鴨居を全部七尺にしてしまう。すると今後は頭をぶつけずに快適な生活ができるわけです。ところが、家の中の鴨居を七尺にしただけでは具合の悪いことが出てくる。その男は自分の家の中だけで生活するのでなく、よその家にも行くわけです。すると自分の家では鴨居に頭をぶつけずに暮せても、よその家では鴨居に頭をぶつけてしまうわけです。その男が外に出て社会生活をするのであったならば、その男がやらなければならないことは、自分の家の鴨居を七尺にするということではなくて、六尺の鴨居に対して頭をぶつけないように背中をかがめて歩くという訓練をしなくてはいけない。これを精薄教育にあてはめて考えると社会的な自立ができない精薄は一生何らかの意味で保護を必要とする環境におかれます。ですから、普通の意味での社会生活はしないわけで、環境のほうもその人間にあった環境を作ってやればいいわけです。つまり、家の中だけで暮すわけですから、家の中の鴨居を七尺になおせばよい。
(現代風に考えれば、家の中の鴨居を七尺にするだけでなく、家の外も七尺にしてしまえばよいということでしょう。)
古事記にイザナギのミコトとイザナミのミコトが子どもをつくった時に、最初の子どもはヒルコであったから川に流してしまったと記してあります。手足がプランプランであったといいますから脊髄性の小児マヒだったかもしれません。日本の歴史が肢体不自由でひらかれている。垂仁天皇の息子に、ひげを手で握っていくつか数えるまでの年になっても口か聞けないのがいました。ある夜、天皇の夢枕に一人の神があらわれて、先祖の祭をよくやればいいとのことだったので、早速出雲に大社をつくることをきめました。出雲大社はこういうわけで精薄の治療のために建てたものです。天皇はその息子をつれて大社を拝みに行きましたが、その途上、鳥がいるのをみつけてその息子があの鳥をとれと口をきいたいうので、それが鳥取という地名の源だと風土記に記されている。
江戸時代のものを読むと、足袋の商標になっている福助、あれは当全脳水種だろうと思いますが、商家に生れると何とか育てようと家内みんなが一生懸命精を出す。それで商売繁盛。災いを転じて福となすで、福の神、商売の神とされたというような話しが出てきます。
精薄教育の黎明期
パラセルサスからグッケンビュールまで
パラセルサス(1492〜1541)近代医学の元祖 ちえおくれは悪魔に魅入られているのではなくて、脳の発達が悪いためだと考えた。
スイスにはクレチンという一種の精薄が地方病として大変多く見られました。スイスという国は高原にありますので、この国の人々は沃度分を摂ることが少ないらしい。そのためクレチンが普通より多い。スイスではこの病人が目立つので、これに対する対策をたてようと何年かにわたって実態調査が行なわれた。それが、1768年、1771年の実態調査です。日本で精薄児の実態調査が行なわれたのは昭和28年ですから、それに比べると200年も前のことで、大変考えさせられるものであるわけです。この実態調査を機会に精神薄弱についての関心が高まり、何人くらいいるのか見当もついたので、これは病気なのだから何とかしようという風潮が1700年から1800年にかけてできてまいりました。これを背景に出てきたのがグッケンビュール(1816〜1863)です。
グッケンビュールは精神薄弱教育の上に大きな光明をもたらした人として名を残しています。彼は自分の町の回りを歩いて多くのクレチン患者を見ました。彼はこれらの人々を何とか人間らしい生活を送りえるように癒してやることはできないものかと考えました。そして一つの仮説をたてたのです。
その一つは、こういう子どもはだらしない生活によってますます精神がだらけてくる。だから規則正しい生活をさせる必要がある。もう一つは、もっと空気のいい、生活に快適な所へ移し信仰に満ちあふれた生活をさせれば、神の恩寵はこの子どもたちに知恵の輝きを増してくれるだろうということでありました。
この仮説をたてると、グッケンビュールはアーベントベルグの山の中腹に小屋を建て、何人かのクレチンの子どもを連れて自ら指導者となってそこへ行き、子どもたちとともに規則正しい生活を始めました。ここに一つの奇跡がおこりました。クレチンの何人かがなおったのです。グッケンビュールの奇跡といわれるものであります。この成功は、たまたまクレチンが治療可能とされているほとんど唯一の精薄であったこと、また転地療法として移ったそのアーベントベルグには沃度に富んだ水があって、はからずも沃度療法が行なわれたのだろうと思われます。
あまり調子がよすぎたので、施設の会計に疑惑を生じ、ついにグッケンビュールは詐欺師呼ばわりされて、アーベンベルグを去らなければならなくなりました。彼は晩年を失意の裡に送り四七歳でこの世を去りました。しかし彼の作った精神薄弱施設と生活訓練との結びつきによって効果を挙げた事実は、その後の精神薄弱教育に大きな光を与えたといわなければなりません。
いずれにしても、精神薄弱は一つの病気であると主張し、その実態調査を行なった国に奇跡がおこったことは喜ばしいことであります。
グッケンビュールの奇跡を見学しにいろいろな人が来ました。ドイツで最初の特殊学級を開いたヘイフェビッチ、イギリスのリード。アメリカで特殊教育(パーキンス盲学校、ヘレンケラーを育てた所)を開いたハウ。グッケンビュールはこのような志を持つ人々には大きな光明をともしたのでした。
3 精薄教育の組織
ピネルからレドルまで
ピネル(1747〜1826)はフランス革命当時の人でナポレオンの侍医となり、名医といわれました。彼は精神科の医者で、精神医学の上で歴史的な価値を現在も持っている人物です。ピネルは、精神薄弱者、精神病者を罪人、困った閉じこめておくべき人間としてでなしに普通の人間として取扱うことを敢然と実行した人でありました。(安田徳太郎著「世紀の狂人」(岩波書店)があります。ピネルの伝記。)
イタールは、ピネルにある程度帥事した耳鼻科の医者で、パリの聾学校の校医でありました。1799年の九月パリ郊外アベロンのコンコーヌの森で一人の野生児が捕まりました。ピネルの前者の立場と、イタールの後者の立場。イタールは自説を実証するために、この野生児を引取って教育することにしました。これが「アベロンの野生児」。しかし言葉を使えるようにならなかったので、イタールはがっかりして、やはりピネルのいうとおり生れながらの白痴だろう、再びアベロンヘ帰ってしまえと罵倒したそうであります。
ゲゼルの「狼の子供」。彼は、これは精薄だからではない。言葉を覚えるのに最適のレディネスの時に言葉を教わらなかったのだ。そのために恢復に非常に時間がかかるのだと学習心理学の立場から穏当な解釈を下しています。
イタールの報告書を読んで、これは失敗どころか大成功ではないかと教育的に再評価して、精神薄弱教育の方法として取り上げたのがフランスのセガンであります。イタールの理論を感覚に働きかけることを中心に整理し組織だてたことは成功であった。
ゴッダードのコロニーの提唱、ドルの知恵遅れといっても実際生活は結構できる。知的能力が低くても社会的能力はあるものがいるのだから、その面を伸ばしてやったらという側面的な教育の方法を主張。
セガンの白痴に対して行なった教育方法は意外な所で後継者を生みました。その一人にモンテッソリーがいます。元来イタリーの女医でした。若い頃学校でセガンの「白痴の生理学的道徳的取扱い」を読んで感激し、白痴にさえ効果があるというのならば、幼稚園の正常児に対して行なっても効果があるだろうと考え編み出されたのがモンテッソリー式幼稚園教育の方法であります。
普通教育との関連ではドクロリー。ドクロリー(1871〜1832)はベルギーの人で、教育に関心を持った医者でありました。(白水社、クセジュ文庫「新しい教育」はドクロリーを中心として述べられています。)
もう一人に鬼才があらわれました。フランスのビネーであります。
モンテッソリー、ドクロリー、ビネーは特殊教育の芽を普通教育に移しかえて大きな実
りを得ました。精神薄弱教育にたずさわる者として十分に考えなければならないことは、精神薄弱のみを対象とする自分だけの視野で考えるだけに止らず、普通教育、特に低学年教育に応用すれば非常に効果があるということ、少なくとも過去において実績をあげていることを頭においてものを考えたいということであります。
4 日本における精神薄弱教育
精神薄弱三つの立場
・社会福祉的立場、社会事業、慈善事業として考えようとする立場。
・学校教育的立場、できない子をどうしたらいいかを考える立場。
・行刑的、労働対策的立場、非行少年や犯罪者中に少なからずいる精薄者を更生させる
こと、精薄のため失業して落後することを考える立場。
(1)社会福祉的立場
雄略天皇は、ある時かいこを集めて来いと家来に申しつけたところが「こ」を集めてこいといったものですから慌て者の家来がかいこの「こ」を人間の子とまちがえて孤児をたくさん集めてきた。そこで処分のしようがないので、その家来に養わせたというのが日本の孤児院の始まり。
(民間の個人が始めた事業)
明治二四年 我が国で最初の精神薄弱児施設。石井亮一の滝ノ川学園。アメリカ、フェルナンド学園で、セガン未亡人から教わって、セガン流の感覚訓練。
大正五年(1916) 岩崎佐一、大阪の桃下塾。
大正八年(1919) 川田貞治郎の藤倉学園。
昭和八年 久保寺保久の千葉の八幡学園。
(2)学校教育的立場
明治二九年四月 我が国最初の特殊学級は長野県長野小学校に設けられた。名称は晩熟児学級。脇田良吉の「異常児教育三〇年」に詳しい記録。
明治三三年(1900) 群馬県の館林小学校。特殊学級の一年間の実験
明治四一年(1908) 大阪府立師範付属小学校の特殊学級の一年間の実験。主事鈴木初太郎の報告書。
(3)行刑的労働対策的立場から
精神薄弱児の生活指導と職業教育 田村一二
劣等感を転換させて情緒的に安定させる。
人間関係において失敗しやすい精薄児の教育はどうすればよいか、三つの方法
先ず第一は、小学校における正しい教育。正しい教育とは、インスキープの申しました「これらの児童の教育については、従来のような三つのR、即ち読み(Reading)書き(Wwiting)
算術(Arithmetic)といったアカデミックな教科、或は教科内容に重きを置くべきでなく三つのH即ち手の訓練(Hand)
心情の訓練(Heart) および健康の増進(Health) をその教育の主な目標」とした教育であろうと思います。
第二は、卒業してから社会に出るまでの中間の足だまりのようなものが必要ではないかということ。
第三は、社会への啓蒙。講演、展覧会、ラジオ、テレビ、新聞、雑誌、書籍とあらゆる方法とチャンスを利用してうんと啓蒙。そして、最後に、私はやっぱり本当の啓蒙をやるものは精神薄弱児自身ではないかと思います。
意欲というものは情緒の面というか感情の面で納得が行かぬと動かぬもの。