| 相武電気鉄道は大正時代末期鉄道の利便性が首都圏周辺にも浸透し始めた頃、当時開通した横浜線からも離れまた計画が持ちあがった相模鉄道(現JR相模線)のルートからも離れてしまった神奈川県央の田名や愛川で鉄道の敷設気運が高まり東京の渋谷から溝の口、横浜線の淵野辺を通り上溝〜田名・愛川を結ぶ計画でスタートした。大正15年(1926)8月21日に会社が設立され、東京の資本家を中心に株式が募集され昭和2年(1927)には折からの経済不況の中第1期計画線として淵野辺〜田名間の用地買収・工事に取りかかった。さらに愛川方面の誘致運動が盛り上がり遊園地やグランド用地の寄付などもあり、また掛け替えが計画中の相模川の高田橋を一部負担金で道路と共用する話もまとまり愛川方面への第2期計画線も敷設免許を取得した。しかし続く経済不況から株式の払い込みが滞り資金繰りが悪化、第1期計画線の工事は止まってしまい横浜線淵野辺駅に運び込まれた枕木や電柱、レールなどの資材もやがて転売され上溝の鳩川岸に建設中の変電所の資材も転売されてしまう。また一部を負担するはずだった高田橋も負担金の払込が期日までにできず、やがて鉄道抜きで橋の工事が進められ第2期計画線の実現も不可能となってしまう。このころ相模鉄道(現JR相模線)が上溝付近まで工事を進めてきたが交差問題がこじれ相模鉄道の工事は中断してしまう、この問題は先に計画され工事を進めた相武側が補償金を受け取り決着し相模鉄道が相武電気鉄道を乗り越える形で工事が進められ相武側は補償金でなんとか第1期計画線の未払い分の工事費を支払ったようだ。結局その後は会社を精算する手続きが進められ昭和11年(1936)3月3日に路線の敷設免許を失効して淵野辺〜田名の間に路盤工事の跡だけを残し電車が走ることなく終わってしまった。路盤工事跡の電車道もやがて元の土地の権利者戻されたりして、戦後の高度成長期には宅地になって消えてしまったようだ。 |

上溝駅近くにひっそりと残る
コンクリート橋 |

鉄道建設の名残の
妙見橋 |
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相武電気鉄道の路線建設の面影がかろうじて残っている上溝へと向かった、まだ“あの”痕跡は残っているだろうか...。淵野辺〜上溝までの区間はその後の区画整理ですっかり新しい街並みとなり当時の地割も残っていないようだ、現在工事中だが上溝駅前の通り相模線の立体交差のガードが通りの幅と比べ余裕があるのは、交差の交渉でもめた立体交差の名残だろうか?当時の航空写真では通りと並行して相武電気鉄道の路線は相模線を潜っていたようだ。そこから少し進んだスーパーの駐車場の片隅に“あの”痕跡はまだ残っていた、不思議と道路を結んでいないスーパーの駐車場と民間の駐車場を結ぶ小さなコンクリート橋。会社の同僚の実家を訪れた際に通り、帰り際に不思議に思い聞いてみると「昔の線路を引いた跡らしい...」と教えられ、最近になって相武電気鉄道の事を詳しく知るまでずっと忘れていた。今もその橋は残っていた、すっかり草が生い茂り渡れなくなっていたが相武電気鉄道の唯一の痕跡ではないかと思う。そこから進んで県道を越えた先通りから1本入った鳩川のほとりにある妙見橋は新しい橋に掛け替えられているが、かつての鉄道建設の名残らしい。また妙見橋手前は浅間森駅と車庫の予定地だったようで、そう思ってみるとなんとなく土地の区画が怪しく見えてくる、また鳩川のほとりには変電所も建設されたらしいが痕跡は残っていない。その後路線は田奈へ向かって西へと建設が進められたようだが、計画断念後土地は整理され宅地化されてしまったようだ。やがて相模川にたどり着くと相武電気鉄道が計画に相乗りし鉄道併用橋になったかもしれない高田橋はすでに真新しい橋に架け替えられていた。もし計画通り相武電気鉄道が完成していたら戦中の陸上交通調整法で“大東急”に吸収され、戦後は小田急の1路線になったかもしれないなどと相模川の川面を眺めながら実現しなかった鉄道に勝手に思いを巡らせてみたりした。 戻る |