| 佐久諏訪電気鉄道はその名の通り佐久と諏訪を結ぼうと計画された鉄道であった。当初敷設に熱心だったのは佐久側の人々で、現在の望月町の人々が中心となって大正8年(1919)11月12日に免許敷設の申請がされたのが始まりで、軌間1067mm、使用電圧直流600Vの鉄道は信越本線田中駅起点に中央本線茅野駅までを結ぶ計画であった。製糸産業関係者らの株式引き受けをもくろみ茅野から諏訪湖南岸を通 り岡谷までの線路敷設を計画したがこちらは許可されず資金調達に苦労することとなる。工事は両方の終点から始められるはずだったが、田中側の路線の一部がすでに敷設免許を受けていた布引鉄道とルートが重なったため路線の共用を免許敷設の条件とされていたため、すでに工事の始まっていた布引鉄道の様子を見るため諏訪側から工事が始められた。また諏訪側の工事は用地買収に難航し当初米沢経由で計画したものを豊平経由に変更している。しかしそうして始められた工事も資金にめどの立たぬ まま強引に始められたようで、用地買収代金の未払いや施工許可の出る前に強引に着工したりして地元の出資者や地権者との間に不信感が広まり、さらには工事代金が未払いとなりとうとう会社の運営はつまずいてしまった。昭和2年(1927)3月会社は破産宣告を受けたが翌年和解し昭和5(1930)年2月19日社名を中信電気鉄道に改め本社を東京に移し再起を図ったが折からの経済不況に阻まれ資金調達は不調に終わり、地元との信頼の溝も埋まらないまま昭和6年(1931)鉄道省より免許の取り消され、昭和8(1933)年1月25日会社は解散した。こうして第1期線として茅野から10kmあまり70%ほど完成されたとされる路線は一度も列車が走ることなく終わることとなった。 | ||||
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| 佐久諏訪電気鉄道が鉄道を敷設しようとした痕跡を求めて茅野市へと出かけた、すでに工事が中止されてから半世紀以上、今は川を渡るはずだった橋脚が2箇所に残るのみ(かつては佐久諏訪電気鉄道が建設したとされる築堤や切り通
しの跡もあったらしい)。茅野駅から国道を走り市街地をぬけて高原の田園風景が見え始めた辺り長倉に1つ目の橋脚はあった、田園風景の中小さな川を挟んで立つ1組の橋脚は半世紀の間に風景と同化しなぜか美しいジオラマのようだった。さらに高原を登り2つ目の橋脚の残る芹が沢を目指す、茅野駅からの道を思い返すとずっと勾配の連続、かなり急勾配の鉄道が計画されたのだと感じられる。芹が沢の集落で渋川の両岸を探すが橋脚が見つからない、少し探索の範囲を広げると芹が沢からビーナスラインを茅野側に少し戻った辺りに木々に埋もれるように2つ目の橋脚を発見した。1つ目の橋脚とは違い石造りの大きめの橋脚、1度も使われることなく長い年月を過ごしてきた橋脚に
高原の川面にモーターの音を響かせて走ってゆく電車の姿を想像してみた。 |