南津電車は大正末期東京府南多摩郡柚木村の鑓水商人が中心となって、地域農村の振興と津久井方面の観光開発を目的に計画され、路線は当時京王電軌傘下の玉南電気鉄道沿線の多摩一ノ宮から野猿街道沿いに鑓水を経由して津久井川尻までの予定で計画され、また当時の時流に乗り国分寺方面へ砂利運搬線も計画された。大正13年(1924)12月3日鑓水の永泉寺で南津電気鉄道株式会社は設立され、昭和3年(1928)10月21日川尻駅予定地と鑓水で起工式が行われ鑓水付近で路盤の工事が開始された。しかし時代は昭和恐慌、農村も不況に陥り地元中心に行われていた資金集めも不調に陥る、工事の請負師との間で代金の支払い問題が起き工事が中断し株主たちを巻き込んで大争議へと発展し、せっかく敷設されたレールも撤去される騒ぎとなる。昭和6年(1931)南津電鉄重役たちはなんとか工事の再開を目指し私財をなげうち事態の収拾を図るが、工事再開まではこぎ着けることが出来ず昭和8年(1933)路線の免許を失効し昭和9年(1934)南津電気鉄道株式会社は解散し電車は1度も走ることなく地元の出資者たちには大きな負債だけが残される結果となった。現在に南津電車の計画を伝える唯一の証は鑓水の絹の道にある石碑で、昭和3年11月10日昭和天皇の即位の御大典記念日に鑓水駅予定地近くに据え付けられたもので現在かすかに鑓水停車場の文字を読むことが出来る。


鑓水停車場の石碑と碑文


 
川尻停車場予定地跡

 南津電車の工事が行われた鑓水を訪れてみた。路線の工事の行われた辺りは多摩の昔ながらの里山を思わせるたたずまい、しかし道路を隔てて多摩ニュータウンの造成地が迫っていて(どうやら大学の予定地らしい)丘一つ隔てた向こうには南津電車が計画した路線に並行するように京王相模原線が走っている、時代背景さえ違えば南津電車が決して実現不可能な計画で無かったことが思われる。南津電車の路盤工事が行われたという丘の中腹は木々が生い茂り、現在も残されているといわれる痕跡は判然としなかった。次にかつて南津電車が設立されたという永泉寺へ向かった、階段を登りきった山門に山を背に立つ永泉寺はいかにも里のお寺といった感じだ。そして鑓水停車場の計画を伝える石碑を見に絹の道へ、石碑は他の大きな他の石碑の端にこぢんまりと佇んでいた、表面は風化してかろうじて碑文が読める程度、しかし現在石碑が置かれている場所は南津電車の計画線から少しはずれている、以前は現在の場所へ行く途中大栗川のたもとに立っていたらしくその辺りが停車場の予定地だった様だ。次に終点川尻駅の予定地へ立ってみた、ここから先へは津久井湖方面へ土地の起伏が激しくなり終点がここに置かれた理由の1つかと思われた、周辺は車の交通量が多いが公共の交通機関で行こうとすると不便であることは否めず未だに交通に恵まれていないのではないかと思われる。戻る


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