エチオピアについて

1)国の概要

  国名 エチオピア連邦共和国 The Federal Democratic Republic of Ethiopia

  人口 5851万人(1996年 推定)

  位置 北緯3〜18度 東経33〜48度

  面積 1,104,300km2(日本の約3倍)

  気候 年平均気温 10〜23度

  雨季 6〜9月 小雨季 1〜2月

  首都 アディス アベバ (海抜約2470m)

  言語 アムハラ語、ティグレ語、オロモ語、グラゲ語、英語等

     高等教育は英語で行われるため、アディス アベバではかなり英語が通じる

  通貨 ブル(Birr)とセント(Cent)。1ブル=100セント、1USドル=約8ブル(1999年4月現在)

  GNP 110USドル(1996年)

  日本との時差 −6時間 (例えば日本の昼12時は、エチオピアの朝6時)

 

2)自然

 エチオピアの国土は、エチオピア高原、低地平原、アフリカ大地溝帯(African Great Rift Valley)
 の三つに分けられる。エチオピア高原は隆起した山地の上に溶岩がかぶさってできた広大な平原で、 
 河川に切り刻まれ、無数の峡谷によって分断されている。アフリカ大地溝帯は、紅海からエチオピア
 を縦断し、ケニア・タンザニア・マラウィ・モザンビーク他多くの国をつらぬいている巨大な窪地で、  
 幅30〜60Km、長さ数千Kmにもなる。地溝帯内では湖や川を利用した水運や漁業が発達し、野生動物の
 宝庫である。

 また、同緯度の他のアフリカ諸国に比べて標高が高いために降水量が多く、以前は森林におおわれて
 いた。現在伐採のために森林が失われている場所も多いが、日本も協力して植林や国立公園の管理な
 どが進められている。

 

3)民族

 エチオピアの民族は非常に多彩で、一般に70の部族がいて、方言を含め100近くの言語が話されてい
 るという。セム語系とクシ語系に大分される。アムハラ族、ティグレ族などのセム語系は人口の3分
 の1を占めているにすぎない。クシ語系のオロモ族がもっとも多く、人口の35〜40%を占めている。
 クシ語系には他にシダモ族(南西部)、ソマリ族(南東部)等がある。スーダンとの国境地帯にはニ
 グロ系の諸部族が生活している。

 

4)カレンダーと時間

 エチオピアでは、独自の暦を使用しており、西暦9月11日がエチオピア暦の1月1日にあたる。エチオ 
 ピア暦では1年は13ヶ月あり、30日からなる12ヶ月と、5〜6日しかない1ヶ月から成り立っている。年
 も西暦とギャップがあり、1998年9月11日〜1999年9月10日がエチオピアの1991年にあたる。

 エチオピアの祝日には、エチオピア正教会やイスラム教の暦によって決められるものがあり、西暦の
 カレンダー上では、毎年日付が変わるものがある。

 エチオピアの時刻は、ケニア・タンザニアのスワヒリタイムと同様に6時を12時として数える。つま
 り、午前7時はエチオピア人にとっては朝1時になる。

 クリーニングの仕上がりの日や、バスのチケット、エチオピア人との待ち合わせ等このエチオピアの
 カレンダーや時刻で言われることがあるので、慣れるまで確認したほうがよい。

 

以下は、参考にエチオピア暦1991年の祝日である。

1998年

9月11日

エチオピアの正月

9月27日

マスカル祭

1999年

1月 7 日

エチオピア クリスマス

1月17日

ラマダン明け祝日

1月19日

ティムカット(イエスが洗礼を受けた日)

3月 2日

アドワの戦勝記念日

(メネリックU世軍がアドワでイタリア軍に勝った日)

3月27日

アラファ

4月 9日

エチオピア グッドフライデー

4月11日

エチオピア イースター

5月 1日

レーバーデー

5月 5日

エチオピア パトリオス戦勝記念日

(ハイレセラシエ皇帝軍がイタリア軍に勝った日)

5月28日

デルグー陥落記念日

(革命記念日 EPRDFが共産政権を倒した日)

6月29日

マウリッド(モハメドの生誕日)

☆は、エチオピア正教会の祝日で年ごとに日付が変わるもの

★は、イスラム教の祝日で年ごとに日付が変わるもの

 

5)宗教と通過儀礼

 国民の多くはエジプト起源のコプト派の流れをくむエチオピア正教会(Ethiopian Orthodox Church)
 の信者である。他にイスラム教、カトリック、プロテスタント等のキリスト教、伝統的アニミズムも
 存在する。宗教と民族とは「○○族は△△教」と単純に対応するものではなく、たとえばアムハラ族
 にもオロモ族にも、クリスチャンもイスラム教徒もいる。基本的には子供は両親の宗教をうけつぐが、
 最近では新興宗教も入ってきている。

@断食

 エチオピア正教会・イスラム教ともに断食がある。

 エチオピア正教会の断食は、長期のもの、短期のものあわせて何度もあるが、最も厳しく守られるべ
 きとされているのはイースター前の55日間である。この間、動物質のもの (肉、卵、バター、牛乳、
 チーズ等)をとらない。魚は食べる人と食べない人がいる。また、水曜日はユダヤ教徒が会議でイエ
 スを十字架にかける決定をした日、金曜日はイエスが十字架にかけられた日であるため、毎週水曜日
 と金曜日も断食を守る人がいる。断食の期間は閉店している肉屋が多く、アディス アベバでも外国
 人向けのスーパーなどでしか肉を売っていない。このため、特に地方では断食の日は肉を手に入れる
 のが難しい。

 イスラム教の断食はイスラム教の暦によって毎年1ヶ月行われる。太陽の出ている間は水さえ口にし
 ないが、日没後の礼拝の後、ふんだんな食事をとる。

 エチオピア正教・イスラム教ともに、食物禁忌がある。両教ともに野菜や穀物に関してはほとんど無
 く、主に動物質のものに関するきまりがある。厳格に食物禁忌を守る人から、比較的融通をきかせて
 いる人まで様々であるが、基本的には両教とも、牛、山羊、羊の肉で決められた手続きを経て屠殺さ
 れたもののみが食べられる。

A子供の誕生

エチオピア正教徒の場合、出産後しばらくは母子ともに外出しない。この間、親戚や友人が、お祝い
に訪れる。赤ちゃんは7〜8日目に割礼を受ける。以前は男女とも割礼をしたが、現在はほとんどの
人が男の子にだけ行う。15〜20日目に「外に出る儀式」が行われる。朝、母子ともに外に出て初めて
の朝日を浴びる。この時親戚、隣人、友人等が集まり、祝宴が催される。今後、毎日朝日を浴びるが、
母子とも門の外には出ない。男の子の場合は40日目、女の子の場合は80日目に教会で洗礼が行われ、
これが出産後初めての外出になる。割礼の際に赤ちゃんの目をおさえるEyn abbat(abbat=父)、
Eyn innat(innat=母)や、洗礼式に立ち合うKrischan abbat(男の子の場合)、Krischan innat(女
の子の場合)は、その赤ちゃんを自分の子と同じように助け、相談にのり、赤ちゃんの成長を見守る
義務を負う。

イスラム教徒の場合、洗礼式にあたるような儀式はなく、イスラム教徒の子供は自動的にイスラム教
徒になる。割礼は、男の子は生後40〜41日目に、女の子は7歳のときに行われるが、現在では男の子
にのみ行われることが多くなっている。

B結婚

一般のエチオピア正教徒の結婚を紹介する。

結婚相手は、最近では、職場・学校・友人の紹介等、自分でみつけることが多くなっているが、恋人
の段階ではまだ両親には内緒である。結婚を申し込むときは、まず男性の代理人(年長者3〜5人が
選ばれる)が女性の父親のもとに送られる。家族の民族、宗教、社会的地位、経済力などによって判
断されることが多い。了解が得られれば、花嫁・家族等への贈り物(衣服や貴金属など)が決められ
る。

結婚式には、いくつもの段階がある。まず、役所での結婚式がある。証人とともに市役所に行き、婚
姻届けを書いて提出し、指輪の交換をする。この時点で法律上は夫婦となるが、社会的には「婚約」
の段階であり、まだ一緒には暮らさない。

婚約後、2〜3日もしくは長い人では一年後、結婚式を行う。結婚式の日は花婿が花嫁を迎えに行く
車の行列で始まる。結婚式のシーズンには飾り立てられた車がクラクションを鳴らしながらゆっくり
進むのをよく見かける。花嫁には、夫の家族の中でもごく近い人からだけ呼ばれる特別なニックネー
ムのようなものが授けられる。

朝・午前・昼・午後・夜と場所を変えながら、一日中飲み、食べ、歌い、踊り続ける。エチオピアで
は花嫁は処女でなければならないとされ、もし花嫁が処女でない場合は、結婚を解消されることもあ
る。
その確認をした証に、翌朝、新郎・新婦のついきそい人が、ベッドにしかれたハンカチ大の布を新婦
の家に届ける。この布が汚れていない場合は指を傷つけたり鶏をしめたりしてしみをつけることもある。
新婚旅行にでかけるカップルもいるが、ほとんどは金銭的な理由で行かないか、ソドレ等近場に1〜 
2日行く程度である。

式の3日後、新婦の実家に新婚夫婦が行く。これが初めての里帰りになる。このとき羊を持参し、友
人や親戚がよばれ祝宴が開かれる。その後も、それぞれの親戚の家でパーティが次々開かれ、長いと
きには一ヶ月以上も続くことがある。

このように、結婚するためには経済的な負担がかなりある。近年ではこの風潮を簡略化することが提
案されている。

イスラム教徒の場合も、年長者の仲介によって結婚を取り決める。結婚式の手順はだいたいエチオピ
ア正教徒と同様である。

結婚式に招待されたら、当日は手ぶらで行き、お祝いを述べ、食べたり飲んだりするだけである。プ
レゼントを贈りたい場合は、あらかじめ何が欲しいかきいて、式の2〜3日前に届けておく。たいて
い、食器など新居で使えるものを贈ることが多い。

 

C葬式

 エチオピアでは、どの宗教の信者も葬式は親戚と隣人の助けによって行われる。人々は死者の家に集
 まり、激しく泣いて悲しみを表現する。食事を準備し、弔問客に振る舞う。エチオピアでは火葬はし
 ない。
 エチオピア正教徒の場合、女性は亡くなった人との近さに応じて期間の違いはあるが喪に服す。この
 間、鮮やかに装うことは戒められ、黒い服や黒いスカーフを身に付ける。髪にケベ(ローカルバター)
 をつけず、人によっては、髪を剃ることもある。ナタラ(女性がまとっている縁に模様のある大きな
 ガーゼのショール)を身に付けるときもいつもとは違うまとい方をする。死者をしのぶ儀式は死後40
 日目、80日目、1年目、7年目に行われる。

 

6)歴史と政治

 エチオピアの起源は伝説的である。紀元前1000年頃シバの女王がエルサレムのソロモン大王に朝貢し 
 て生まれたメネリクT世がエチオピアをおこしたとされている。以下は確認できる範囲からの年表で
 ある。

 

紀元前 南アラビアから渡来。

西 暦 1世紀 アクスム王国を築く。

   4世紀 アクスム王国最盛期。エザナ王がユダヤ教からキリスト教に改宗し、国教とする。

   7世紀 アラビア半島がイスラム教徒に占領され、これまでのアラブ圏との接触を断たれ、孤立。    
      この後、9世紀頃にはアクスム王国の衰退が始まり、エチオピアは数々の変遷を経ていく
      つかの小王国に分裂する時代が続く。

   1855年 テオドロスU世が全国を統一。中央集権的支配体制を確立した。

   1887年 メネリクU世が首都をアディス アベバに移した。

   1889年 メネリクU世が帝位についた。現在のエチオピアの領土はこの時代に確立された。ヨー
       ロッパの列強ともよく戦い、エチオピアの独立を守りぬいた。特に1896年のアドワの戦
       い(第一次イタリア・エチオピア戦争)での勝利は大きく評価されている。

   1913年 メネリクU世没。

   1916年 メネリクU世の皇女が帝位につき、遠縁にあたるラス・タファリ・マコンネン(のちの
       ハイレ・セラシエT世)が摂政兼皇太子として実権を握った。タファリは進歩派で、内
       政面では保守派の反対により思うようにいかなかった。しかし外交面でその実力を発揮
       し、国際的地位を向上させ、先進国との交流を拡大した。

   1923年 国際連盟に加入。

   1930年 ハイレ・セラシエT世が即位。「ハイレ・セラシエ」とは「三位一体の力」という意味
      である。即位後本格的な近代化政策に着手し、31年に初の憲法を制定し、奴隷制度を廃止
      した。これによってエチオピアは形式的には立憲君主国になったが、実質的には皇帝に絶
      対権があった。二院制の議会も創設されたが勅撰議員であり、議案も皇帝により提出され、
      採決もなく通過した。

   1935年 10月 ファシズム・イタリアのエチオピア侵略が開始され、第二次イタリア・エチオピア
      戦争が始まった。

   1936年 5月 首都アディス アベバが陥落、イタリアに併合され、ハイレ・セラシエ皇帝はイギリ
      スに亡命した。第二次世界大戦勃発後、イギリスの支援を受けた皇帝の軍隊はスーダンか
      ら進撃を開始し、41年5月アディス アベバを奪回。5年ぶりに独立を回復した。

   1952年 イギリスの暫定統治下にあったエリトリアと国連決議に基づいて連邦を結成。

   1962年 エリトリアを併合。以後開放勢力が独立をめざして中央政府軍とのあいだに激しい戦い
      を繰り広げることになる。

   1955年 新憲法公布。普通選挙制の導入などいくぶん民主化したが、依然皇帝の絶対権があり、
      政党も認められなかった。

   1963年5月 皇帝はアフリカ統一機構(Organization of African Unity、OAU)の創設に貢献し、
      本部をアディス アベバに誘致。OAUは世界最大の地域的国際機構となる。

   1974年 軍隊の反乱をきっかけに革命がおこる。

   1974年9月 ハイレ・セラシエT世廃位。

   1974年12月 社会主義の革命軍事政権(臨時軍事行政評議会、PMAC)が成立、社会主義宣言をし
      た。75年には主要産業の国有化や土地改革などに着手、あわせて民衆の組織化がはかられ
      た。これにより国民は農村では集団農場、都市部では都市住民組合(カバレ)に組織され、
      政府がコントロールするようになる。

   1977年2月 メンギストゥ・ハイレ・マリアムが臨時軍事行政評議会議長になる。しかし、エチオ
      ピア人民革命党(EPRP、左派)、エチオピア民主同盟(EDU、右派)のテロやゲリラ攻撃
      がさかんになったり、エリトリア解放戦線(ELF)、エリトリア人民解放戦線(EPLF)、
      西ソマリア開放戦線(WSLF、オガデン地域の反政府武装闘争)等の闘争が続くなど、政府
      は苦戦する。

   1983年 大規模な旱魃。食料不足が深刻化。

   1987年2月 国民投票で共和国憲法が承認される。

      6月 一院制の国民議会の選挙が行われる。

      9月 国民議会初会期でメンギストゥを初代大統領に選出。しかし、政治制度は変わったが、
      権力の中枢は軍事政権時代とほとんど変わらなかった。

   1991年2月 反政府軍が大規模攻撃を開始。

      5月 メンギストゥ大統領が辞任して亡命し、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が暫
      定政権を樹立。

      7月 代表評議会を設立、メレス・ゼナウィが暫定政府の大統領に任命される。

   1993年4月 エリトリア独立に関する住民投票が行われる。

      5月24日 エリトリアがエチオピアから分離・独立し、国連やアフリカ統一機構(OAU)へ
      の加盟も認められた。

   1994年6月 制憲議会選挙実施。

   1995年5月 複数政党制による総選挙実施。

      8月 国名を「エチオピア連邦民主共和国」に変更。

7)日本との関係

   1933年 エチオピアが大阪に名誉領事を任命

   1936年 日本がエチオピアに公使館

      − 第二次世界大戦で断絶 −

   1952年 エチオピア対日平和条約を批准

   1955年 交換公文により国交を回復

   同年9月 日本がエチオピアに公使館を開く

   1956年 ハイレ・セラシエT世皇帝が来日

   1957年 エチオピアが日本に公使館を開く

   1960年 当時の皇太子御夫妻(今上天皇)がエチオピアを訪問

   1958年 両国の公使館が大使館に昇格

   1970年 ハイレ・セラシエT世皇帝が再来日

   1984年 安部外相がエチオピアを訪れ旱魃、飢餓問題の現地を視察、84年から85年には救急医療
      チームの派遣などの救済活動が行われた。

   1992年 セヨウム外相訪日

   1996年 メレス首相訪日

 

 ODA関係では、1972年に最初の青年海外協力隊員が派遣された。以後政変による2度の引き上げを
 経ながら協力内容も拡大し、専門家・協力隊員等により現在も続いている。また、NGOの活動も活
 発で、多数の団体により各地でプロジェクトが展開されている。

 エチオピアの対日主要輸出品はコーヒーで、主要輸入品は、機械・自動車などである。

 

8)エチオピアの風俗

@ 名前

 エチオピア人の名前には、名字にあたるものがない。たとえば、Ato Abebe Bekilaとあれば、Abebe
 が本人の名前、Bekilaが父親の名前である。名前の前に、男性ならAto、既婚女性ならWeyzero、未婚
 女性ならWeyzeritoをつけると、日本語で言う「さん」にあたり、丁寧な呼び方になる。エチオピア
 では、結婚しても名前は変わらない。

 

A民族衣装

 アベシャ リブスとよばれるエチオピアの民族衣装は、男性も女性も白が基本である。アベシャは「エ
 チオピア」、リブスは「服」の意味で、現在も地方では日常的に着用されているが、アディス アベ
 バでは、洋服が一般的になっている。

 女性の正装はワンピースにスカーフやナタラをまとう。ドレスの形・模様の種類・刺繍の種類などは
 無限にあり、服装から民族を知ることは難しい。地方の女性はドレスの下に男性のようにパンツをは 
 く。
 これは、スカートで物を運んだりする作業のときに、足が見えないようにするためである。

 男性は膝から下がぴったりした細身のパンツに大きなシャツをはおり、ナタラやガビをまとう。正装 
 の男性はチャラと呼ばれる、馬のしっぽの毛で作ったハエはらいを持つ。男性も女性も、正式には白
 い靴をはく。

 ナタラやガビは、洋服の上にもよくまとわれており、アディス アベバ市内でもよく見かける。どち
 らも白い木綿のショールで、ナタラは薄地で透けるもの、ガビは厚地のものをいう。

 聖職者は、真紅のビロードのマントを羽織っているが、位が高くなるにしたがって一列ずつ刺繍の模
 様が豪華になる。