平成15年 第33回関西俳句講座
 


月 日 時 間 演 題 講演者
9月3日(水) 13:10-14:20 海辺を詠む 吉川一竿
14:30-15:40 男と女の居る俳句 岩城久治
9月10日(水) 13:10-14:20 季感の濃淡 江川虹村
14:30-15:40 史実の中の季語 小路紫峡
9月17日(水) 13:10-14:20 誓子と季語 品川鈴子
14:30-15:40 歳時記を考える 片山由美子
9月24日(水) 13:10-14:20 行事と季語 朝妻 力
14:30-15:40 古季語を詠む 茨木和生




海辺を詠む 吉川一竿講演要旨

 海辺を詠むこれからの話は「志摩の海辺を中心に詠む」になりそうだ。例句は主として「かつらぎ」からになる。
 新年。伊勢海老、飾海老がある。〈網捌く伊勢海老に手を触れしめず 暮石〉
 海老の角は折れ易く、折れては価値が無くなるので網を捌く外の人には手を触れさせない。竿の先に蛸をつけて海老を採る方法も面白い。海老はぎいぎいと鳴きながら揚がるという。
 春。防風摘む。〈防風のここまで砂に埋もれしと 虚子〉。防風が砂に埋もれて根を深く下ろしている特徴を詠んでいる。桑原武夫が俳句第二芸術論で凡作とした句。防風掘る、は季語としては兎も角、根まで掘らないように。又防風だましに誰しもだまされる。濃緑で苦い。〈風紋の双葉防風だましと言ふ 青畝〉
 海女。今は春の季語だが前は夏であった。青畝は、春夏通じての季語として詠んでいいのではないかとおっしゃった。〈海女とても陸こそよけれ桃の花 虚子〉〈綱切つて命を拾ふ海女なりし 青畝〉
 海女の仕事は苛酷である。命綱が岩に絡まり取れず、他の海女がやっと綱を切って助け上げたけれど駄目だった悲話を、青畝は救いのある句として「命を拾ふ海女」と詠まれた。身に沁みる話である。志摩では海女さんとさんづけである。徒人海女、舟人海女もある。
 海女の息は、仕事中にするから一分までという。上って悲しい音の磯笛を吹く。〈命綱伸びゆく早さ一の海女 一竿〉。講師は鑿、命綱、眼鏡、鮑殻、常節殻等実物を手にして、使用する有様をリアルに説明された。
 潮干狩は何故春なのか。それは春には昼に潮がよく引き、秋は夜に引くからである。
 夏。初鰹では〈鎌倉を生て出けむ初鰹 芭蕉〉。海から上がると早く死ぬ鰹の特徴がよく分かる。近年はサーフィンも詠まれる。〈サーフィンに夜が来て南十字星 峠〉
 秋。根釣り、鯊釣、鰯。
 冬。鰤、鰤起し、河豚、鮟鱇と面白い例句が沢山で楽しく終る。(二塚元子・記)


男と女の居る俳句 岩城久治講演要旨

 男と女の居る俳句を各時代どのような俳人がどのように詠んでいるか、例句をあげながら俳句の作り方についてもふれてみたい。
屠蘇一具女礼者に残しけり 籾山梓月
 新年の季語礼者に女をつけ加えている。ならば他にも季語に女または男をつけ加えることのできる季語があるかどうか。歳時記を繰ってでもこんな作業を楽しんでみるのもよい。このような作業は確実に自分の言葉の領域を拡げるのに役立つ。
 女の居る俳句を作ろうとするのならば女の仕事に目を向けるのも一つの方法。
茶摘女がいつも暮行く土橋哉 原 月舟
麻を刈る女あはれや左鎌 五 明
 など例句は枚挙にいとまがない。
一つ家に遊女も寝たり萩と月 松尾芭蕉
 この一句は不易と流行を兼ねそなえている。萩と月は和歌の世界の題材であり不易。遊女は和歌の世界では素材になっていないので流行。和歌からわかれた俳句は俳言(俳諧に用いて、和歌や連歌などには用いない俗語、漢語)を生みだしたが、現代のわれわれも、もっと新しい俳言を見いだして駆使したい。
 例句として
工女らに遅日めぐれる機械かな 島田青峰
 をあけておく。
花の幕兼好を覗く女あり 与謝蕪村
 「ほら、あれが吉田兼好よ」と女達が花見の幕の中にいる兼好を、興味いっぱいの目で覗いているという句である。兼好は鎌倉後期から南北朝時代の人であるから蕪村とは時代が違う。この句は蕪村が徒然草を念頭において、こういう事もあったであろうと想定して俳句にして見せた。こういう方法は、意表をついた句を作るという楽しみ方ができる。
 女性観、男性観は時代によって大きく変化するが、俳句からもその時代の背景が見えてくる。
炎天に妻言へり女老い易きを 中村草田男
夜の芍薬男ばかりが衰へて 鈴木六林男
(神原廣子・記)

季感の濃淡 江川虹村講演要旨

 十七音の短い俳句という形式が奥行を持って成立しうる一つの重要な要件として季語の存在がある。一つの季語が作品に入っていればそれだけで季節が判り、われわれの共通感覚の中にある背景、イメージからその場の雰囲気が掴みとれる。そういうことからとかく季語に頼りすぎる。季語が作品の中に入っていれば季感が濃厚に示されているのかどうか、それについて話していきたい。
 知らず知らずのうちに濃厚な季感が出る場合と、折角季語が入っていても季感が無い、又は消えてしまっている句が現実に存在する。そうならないためにはどう注意したらよいか。
 先ず警戒しなければならないものとして季感の淡い季語として、人の余り知らない即ち共通感覚領域の狭いもの、例えば、特殊植物、極めて地域的な行事とか専門的なパフォーマンスといったものは、当事者にとっては季語として有効かも知れないが、客観的には理解しにくいから季感も伝わらない。従って本来季感の淡い、幅の狭い季語については、はっきり季感を支える工夫がなされることが必要で、季語重ねもその一つである。
 次に季感が拡散しがちな季語についてであるが、本来ははっきりした季感をもっていた季語であるが、時代が変り、生活が都市化、洋風化により実生活とのずれが生じて季感が暖昧になって来た季語がある。その例として〈プリントはトップスターのハンカチフ〉のハンカチは、スターのファン用のグッズであって夏とは限らずいつでも売り山されているので季感はない。
 又季語自体には充分な季感がありながら、効果を殺す場合として、比喩に用いた場合が挙げられ、多くの先生の戒めるところ。譬えに用いられる季語は季感はどうしても淡くなる。
 又記憶、夢、画像中の季語の季感も到底現実の季語のもつ季感には及ばない。
 要するに季語は一様ならず、その性質を考えて用いる必要があり、季感がどう表わされているかが問題である。(松井ふみを・記)

史実の中の季語 小路紫峡講演要旨

 「史実の中の季語」と題したのは、この機会に、古人が季語にどのような思いを寄せていたのかを振り返ってみたいと思ったからである。昔から日本人は、花鳥風月を歌ってきた。「花」から言えば、桜より先にまず「梅」が歌われ、万葉集にも大伴旅人の梅花歌があり、古今集にも凡河内躬恒の歌がある。この頃は色よりも香が好まれた。菅公の飛梅、後村上帝の鶯宿梅の故事は有名である。蕪村にも梅の遅速の句がある。
 「桜」は万葉集にはなく、古事記、日本書紀にある。また狂言でも「花盗人」で取り上げられている。吉野の桜と西行の関わりは深い。このほか五節句の花が決められ、また花見も平安時代から行われた。山吹、牡丹、芍薬、百合、萩、薄、菊なども名歌、名句が残っている。
 「鳥」は万葉時代から時鳥、雁、鶯が歌われ、初音、忍び音が珍重された。都鳥については伊勢物語の業平の歌、謡曲「隅田川」の梅若伝説が伝えられている。久女の時鳥、草田男の雁、虚子の都鳥、櫻坡子の田鶴の句はよくご存知と思う。
 「風」には春夏秋冬それぞれの労働と結びついた異名があるが、今は季語として残っている。石鼎の野分の句がある。「月」は額田王の歌があり、紫式部も百人一首に歌を残している。芭蕉の名月の句はあまりにも有名だが、鬼城にも馬が月の道を好むという句がある。これなどは、もはや現在では理解が難しくなっているのではないか。
 「虫」は古代から蜻蛉が愛され、弥生時代の古墳から出た銅鐸にもその絵がある。鳴く虫のことは源氏物語の「野分」の巻にも見え、江戸時代には「虫聞き」、「虫合せ」が行われていた。小泉八雲はこういう日本人を、「芸術的な生活」だと評している。今環境が破壊され続けており、俳句を作る者は、こういう季語の歴史をよく知り、その本旨を生かして、自然の美しさを詠みたいものである。(野村浩之・記)

誓子と季語 品川鈴子講演要旨

 「道」とは、誰かが通って踏み固めたところ。俳句の道でも、先人の後をそのまま歩くのは易しい。が、それに飽き足らず、更に違う世界を開こうとする人が百年に一回位出ている。芭蕉、蕪村、子規に山口誓子。そこで歴史的立場で、なぜ俳句が季語定型かを考えたい。
 昔、俳人とは俳諸をする人を言った。俳諸とは今の連句のことで、元は連歌に遡る。連歌は宮廷の遊び。雅語をつかう高貴な文芸だった。五七五・七七と詠みつなぐ形式は連句と同じ。最初の一句を発句(のちに俳句となる)と呼び、一座の客が当季挨拶句を一人称の発想で詠む。次は脇句で発句を受けて亭主が返礼の句を詠む。三句めはがらりと変って架空の事柄を三人称的に詠む。あと全員で詠み継ぐのがきまり。
 〈古池や蛙飛び込む水の音〉芭蕉は発句をこう詠んだ。連歌では考えられない詠み方。それまで蛙とはその鳴き声を雅に鑑賞する対象だったのを一気に、古池や飛び込むという俗な言葉で描写した。それがなぜ低俗にならなかったか? それこそが季語定型の働きである。こうして発句は俳句として後世に生き残った。
 昭和初期、新興俳句で無季破調が盛んだった時代にも誓子は有季定型を守り、伝統の中で新しい素材を見つけ、独自の世界を広げていった。ラグビー、プール、株主総会など画期的な言葉を句に取り入れた。
 数えてみると誓子の季語には厳しい季節のものが多い。それも儚いものに目を向けて自分を重ねている。句集に遺された9,838句の中で多く使われている季語は冬の山178、蟋蟀138、寒し131、泳ぎ117、枯野101、暖炉97、鵙93、蛍90、蟹88、月82(以下省略)など。
 誓子が虚子の教えの中で硬質なモダニズムの作風を打ち立てたことはよく知られている。「即物具象」「連想飛躍」を主張し、物に心を代弁させる表現法をとった。この手法は、代弁させるべき物に何を選び、どう飛躍させるかで詩となり得るかどうかが決まる。次の一句を勉強の参考にしてほしい。
 〈城を出し落花一片いまもとぶ 誓子〉(北畠明子・記)

歳時記を考える 片山由美子講演要旨

 歳時記、季語の基本を考えてみたい。どの歳時記でも「春の日」「夏の日」などは天文に分類され、「春の(夏の)一日についてもいう」との解説が添えられていて、例句も時候と天文の両方の作品が掲載されている。「春暁・春昼・春の暮・春の宵・春の夜」のように、一日の時間の経過を追ったこまかい季語が独立していることを思うと、少なくとも、季節感が明確な「春の日」と「冬の日」あたりは時候の項目として立ててもよいのではないか。
 「春の〜」「夏の〜」という季語の用い方が気になる。「春の机」「冬の猫」と、何にでも季節を冠するのは要注意。安易に使うと「春の土」などが生まれた理由や、その季節にしか存在しない季語の意味が分からなくなる。また「秋の風鈴」のように、本来の季節が去ったものを詠む場合と、それ自体には季節感がないものに季節を冠するのとはまったく異なることを認識しておく必要がある。
 古い歳時記には、「春」の項に現在ではどの歳時記でも独立した項目として立てている「春の星」「春の虹」「春の闇」などを傍題として挙げているものもある。季語の分類は時代の考えが反映され、変化する。現代は新しい季語が増えると同時に季語の分類がこまかくなっている。「春の月」「夏の山」「秋の暮」「冬の夜」のように、四季いずれにもありながら、その季節独特のものを感じさせるもの季語として独立した項目になっている。
 「冬惜しむ」という季語を用いている句を見て驚いたことがある。「惜しむ」は本来、いつまでも続いて欲しい心地よい季節、つまり春と秋にしかいわなかった。現在では、夏についてもいうようになったものの、夏と冬は暑さ・寒さに耐えて、次の季節を待つものだった。そして待ちに待った春と秋は、存分に味わい、惜しみながら見送る季節なのである。
 こうした季節に寄せる心を理解していないと実作に季語を生かすことができないだけでなく、季語の存在自体を危うくする。(富田晴彦・記)

行事と季語 朝妻力講演要旨

 行事と季語を考えるとき暦日ということを離れることはできないが、これをやっかいにしているのが旧暦と新暦の関係。
 文明開化の波の中では何れ新暦に移行するコンセンサスはあったようだが明治新政府は準備不足のまま明治五年十二月三日をいきなり新暦の一月一日に改暦した。
 この大政官布告が出されたのが約一ヵ月前の十一月九日で、当時政府の財政が逼迫しており、年内に新暦に移行すれば、その年の十二月分と翌年の閏月分の二ヵ月の給与支給を節減出来ると苦肉の決断だったといわれている。
 夜間照明の無かった時代には月明りや、潮の干満は生活に深く関わり、月の運行による旧暦はそれなりの意味を持っていたが、年に三十日近いずれを生じ閏年には更にその差を大きくする弱点を持っている。一方新暦においては季節感と暦日が一致する強味がある。
 季語によっては新暦になって変らない暦日と変ったものがあるが、前者はもともと太陽の運行を基準にしたもので、節分・立春・雨水・啓蟄・春分・立秋などで、後者は旧暦に依存していた行事、七夕・重陽・桃の節句などが挙げられる。
 次に季語を分類すると、全国的な行事は別として、特定の寺社の行事として定着した季語、例えば大根焚などは本来の場所や季語を踏まえた上で詠むことが必要。知名度は高いが特定の地域で行われている国栖奏、壬生狂言などでは類句類想に注意したい。
 更に接することの少ない行事、清水の牛王、西宮居籠、愛宕火などは他の祭事と紛れないように場面を具体的に描写したり、又広く知られているが季語として独立していない岸和田のだんじり祭などでは当地特有の言葉、例えば大工方などを入れて詠む工夫が必要となろう。
 廃れゆく行事の季語も多いが、行事を守っている人達への応援歌として今後も積極的に俳句に詠んで残す努力を続けたいものだ。(高野清風・記)

古季語を詠む 茨木和生講演要旨

 「古季語」とは、季題の中和歌連歌の伝統を負う「竪の題」をいい、俳譜の時代に生まれたやや俗な季語を「横の題」と呼んでいる。
 「薬狩」は「薬猟・競狩」とも書かれていて、一番古いものでは、仁徳天皇が鳴き声をあわれに聞いていた鹿が貢物として献上されてくる逸話。その後、雄略・推古・舒明帝の何れの時も薬狩の対象は鹿、精力剤として袋角=鹿茸が使われた。滋養になる物を今も薬喰というように、「季のことば」は万葉や記紀の時代にさかのぼる。
 「あ句会」では古季語の例句のないものを詠んできた。これを「死語化」した季語を使って楽しんでいると思われたら迷惑千万。季語に死語はない。
例えば「焼帛」、人毛や獣毛を燃やして害獣に臭いを嗅がしたので「かかし」。案山子と別項にしている歳時記も、むしろ焼帛の傍題が案山子なのです。養蚕の季語も知られなくなってきた。句集『往馬』の〈上刺をしたる膝当糸を引く〉という句に「糸を引くは季語ですか」「上刺って何ですか」という質問が来る。「糸引く」ほ「糸取」の傍題で、繭を煮て生糸を取るという夏の季語で、「上刺」は丈夫にするために碁盤目に縫うのです。物を粗末にする時代には日本古来からあるものが通じにくくなってきた。
 もう一つは「トマトや胡瓜は通季に」という考え方です。季語は「旬」で設定されてきたという事が忘れられている。また「田の庵」にように歴史を負うた季のことばも外せないのです。
 〈西ようず御井の差し水潮気にて〉〈伊賀なれや名残の空の鳴ることも〉等、古季語、難季語の例句を作っていく事も必要でしょう。
 歳時記が正しいとは限らない、写真や例句が間違っている事がある。かつては京都中心であった季語は、今は東京に移っている。地方から季語を発信していく事も大切です。「季題・季語」は目先にとらわれず、百年後の人に残していきたいものです。(田邉富子・記)