俳句鑑賞の基本 講師 栗田やすし |
文学作品を鑑賞する場合、一つ一つの言葉を正しく解釈することの重要性は言うまでもない。俳句の場合、一句の中で季語の働きを知ることが最も大切となる。それとその俳句が何時・何処で作られたかを明らかにすることは、作者の感動により近づく手段でもある。 海に出て木枯帰るところなし 誓子 には難しい言葉はなく、季語「木枯」も冬の強い季節風であることも知られている。ところが、この句が誓子療養中の作で、昭和十九年冬に伊勢富田で作られたものであることを知れば、鑑賞者は「木枯」に込められた思いが、戦局の悪化する中でいつ癒えるあてもない誓子の心の投影であることを知るであろう。 季語の働きという事では、誓子の 春風や闘志いだきて丘に立つ の句について、上五の季語を1.秋風、2.木枯、3.炎天に置き換えてみれば、1.は自信なさそうな闘志、2.は悲壮感をともなった闘志、3.は激しい闘志となろう。 つまり、季語は単に季節を表すだけではなく、作品に込められた感動のありようを示すものであることを実感として理解できるのである。「秋風」は、古来この風に心のさびしさを託して詠む習慣がある。芭蕉の 秋風や薮も畠も不破の関 の句を山本健吉氏は、初五に「秋風や」と置いて、主題の在り場所を示し、「薮も畠も不破の関」は感動の反覆であると説いている。 鑑賞する側から言えば、具体化された感動を季語と「もの」によって読み取る能力を身につけなければならないという事になる。 ところで、自由律俳句は無季であるが、 うしろすがたのしぐれていくか 山頭火 は「時雨」の働きを無視して鑑賞することは出来ない。「まっすぐな道でさみしい」には季語がない。したがって「さみしい」と感情を生で表さなければ作者の感動は読者に伝わらないのである。 何れにしても、俳句鑑賞の上で大切なことは、児童・生徒に適した教材(俳句)を選び、言葉を正確に理解させ、季語を実感させた上で、思いっきり自由に鑑賞させることであろう。 |
〜夏季指導講座講演〜 |